高まんの恋

「ねえ、杉本くんじゃない? お久しぶり」

 立食形式で開かれたパーティ会場で、不意に背中から声をかけられた。

 高校卒業十年目を記念して開かれたクラス会でのことだ。ちょうど仲の良かった男友達と話をしてるところだった。

 僕は、ビールのコップを右手に持ったまま背中を振り返った。

 襟首で綺麗に切り揃えたボブカット。シックで落ち着いた化粧。それでいて、どこか華やかさを感じさせる顔立ち。

 その女性が、口許に優雅な笑みを浮かべ、僕を見ていた。

 一瞬、誰かわからなかった。こんな女の子、高三のクラスにいたっけ?

「私、誰だか忘れちゃったんでしょ?」

 彼女は、真白い歯を見せて笑い顔を作った。

「私、カワセ……カワセ・レイよ」

 いつも一人でイスに座っていた女の子の姿が、暗い記憶の底から鮮明に浮かび上がってきた。

 僕は、改めて目の前の女性の顔を、まじまじと見つめた。でも、記憶の中のレイと、目の前の女性の顔がうまく重ならなかった。

「昔とすっかり変わっちゃってて、すぐにわからなかったよ」

「杉本くんは、高校時代とほとんど変わってないから、遠くからでも、すぐにわかったわ」

「それって褒め言葉? それともケナしてるのかな?」

「うん、まあ、半々くらいかな」と、レイはおどけた顔を作ってみせた。

 

 高校時代のレイは、まったく目立つところのない、どこか薄い印象を与える女の子だった。友達はほとんどいなくて、休み時間はいつも机に座り、本を読んだり勉強したりしてた。授業中はきちんと教師の話を聞いているのだけど、挙手をしたり発言したりすることはない。もちろん学活などの話し合いでも、自分の意見を述べたりしない。

 そんなせいで、同じクラスになった二年生の一年間は、まったくと言っていいくらい彼女の名前も存在も知らなかった。三年生になって、六月初日に行われた定期の席替えで、たまたま彼女と隣同士になった。

 その時になって初めて、こんな女の子が自分のクラスにるたことを意識した。

 並んで座るようになってから一週間くらい、僕らはほとんど口をきかなかった。僕も自分から声をかけなかったし、もちろん彼女の方も声をかけてこなかった。

 日にちが経つにつれて、僕は、レイが誰とも群れずに一人で過ごしている様子が、なんとなく気になった。

 彼女は、いつも一人だけど、かといって特に暗い雰囲気を漂わせているわけではない。孤独に耐えてるといった肩肘張った様子も見られない。ただ淡々と一人で日常の学校生活を送ってる。そんな感じだった。

 もしかすると、彼女は意外と意思の強い子なのかもしれない。そうでなければ、長い間孤独な学校生活を継続することなんてできない筈だ。そんなことを、僕は考えたりした。

 二週目に入った昼休み、五時間目に受ける英語の本文を眺めていて、うまく訳せない部分があるのに気づいた。僕は、隣で文庫本を読んでるレイに、思い切って声をかけてみた。

「ねえ、ちょっといいかな?」

 活字を目で追っていた彼女は、少し驚いた表情を浮かべてから、ゆっくりと僕の方を向いた。

「あのさ、英語の本文で、どうしても訳せないところがあるんだ。それで、もしよかったら教えてもらえないかなと思って」

 レイは、静かに文庫本を机に置いた。僕を見る目には、まだどことなく警戒する色が漂っていた。

「本文の、ここんところなんだけどさ」

 そう言いって、僕は教科書の、その部分を指さした。

「ちょっと待って?」

 レイは、自分の英語の教科書とノートを開くと、しばらく考える素振りを見せた。

 それから納得したように軽く頷いてから、ゆっくりと日本語に訳してくれた。

「ねえ、どうして、そういう訳になるの?」と、僕はさらに尋ねた。

 彼女は、静かな声音で、それも木訥とした口調ではあったけれど、単語の意味や複雑な英文構造を分解しながら、きちんと説明してくれた。

 その明快な口ぶりから、彼女が英文を正確に理解していることが窺えた。

「そういうことか。わかった。ありがとう」

 僕がお礼を言うと、レイは、ほんの少しだけ笑みを浮かべ、また文庫本のつづきを読み始めた。

 その時、僕の中で、彼女の格付けが一気に五ランクくらい上がった。彼女の存在に気づいてなかった今までの自分に、不思議な苛立ちを覚えたくらいだった

 それをきっかけにして、英語ばかりではなく、古文や数学などでも分からない箇所が出てくると、とりあえず彼女に尋ねるようになった。

 レイは、相変わらず淡々とした口調で、僕が納得できるまで丁寧に説明してくれた。

 ある時、授業の最中に彼女の横顔をそっと観察することがあった。

 うつむき加減のせいで顔の半分は髪に隠されている。でも、くっきりと見開いた黒目には、どことなく負けん気の強さが感じられた。少し低めの鼻筋や小さな口元は、凜とした造形の美しさが漂っていて、可愛いというタイプではないにしても、均整の取れた優美さが漂っていた。

 三週間ほどが過ぎた頃、学校の帰りがけに、たまたま高橋饅頭屋に立ち寄ることがあった。なんとなく空腹を覚えたからだ。

 その店は、学校から市内中心部に向かう途中の電信通りにあって、帰りがけの高校生には人気の休憩場所だった。放課後ともなると、近隣の高校生もやって来て、狭い店内はいつも混み合っていた。

 僕は餡の入ったオヤキを買うと、広さが四畳半ほどの休憩コーナーに向かった。湯飲みに番茶を注ぎ、たまたま一つだけ空いてたイスに腰を下ろした。

 オヤキをひと囓りして、番茶を啜りながら、なんとなく横を見た。すると、目の前にレイの横顔が見えた。

 彼女も、僕に気づいたのか、ハッとした表情を浮かべた。でも、そのまま無視するように、手元のオヤキに視線を落とした。

 何となく居心地の悪い沈黙が、僕らの間に漂っていた。

 もうひと口食べてから、僕は思い切って彼女に声をかけてみた。

「あのさ、ここ、よく来るの?」

 彼女は、口の中の食べ物を飲み込むと、よく分からないというように、小さく頭を傾けた。

「僕は、二週間に一回くらいはここに来るかな。餡のオヤキが好きでさ。しばらく食べてないと、また食べたくなるんだ」

 そう言ってから、僕は自嘲的にククッと笑った。

 レイは、しばらく黙り込んでいたけれど、おもむろに口を開いた。

「私は、どっちかというとチーズ派かな」

 囁くような小さな声だった。

「わかるよ。チーズも美味しいしね。腹が減ってる時は、餡とチーズの両方を食べることもあるよ。……ただ、この番茶には、餡の方がマッチすると思うんだ。そうは思わない?」

「番茶とチーズの組み合わせも、じゅうぶん美味しいと思うわ」

「うーん、そうかな?」

 横目で窺うと、彼女の表情はいくぶん柔らかくなっていた。

 僕は、思い切って言った。

「あのさ、勉強でわからないところ、いっつも教えてもらって、めちゃくちゃ助かってるんだ」

 レイは、恥ずかし気に首を横に振った。

「君ってさ、何を聞いても、ちゃんと答えられるだろう? それってスゴいよね。いつも感心してる」

「べつに、そんなことないわ」

「いや、ほんと、スゴいと思う」

 僕らは、オヤキを食べながら、ポツリポツリと会話を続けた。もちろん二人の間に、たいして盛り上がるような話題なんてなかった。僕の方から、教科の先生や、クラスメートの話を、いくつか投げかけたといった感じだ。

 その、ほんのついでみたいな調子で、僕は前から疑問に思ってたことを訊いてみた。

「あのさ、キミって教室でいつも一人でいることが多いだろう? それってなにか理由でもあるのかな?」

 後になって振り返ってみると、ほんとうに不躾な質問だった。でも、当時の僕って、そんな質問を何げなく尋ねるくらい軽薄で脳天気な高校生だったってことだ。

 レイは、僕の質問に、不意に押し黙ってしまった。

 彼女の沈黙が十秒くらい続いた時になって初めて、僕はマズい質問をしたことに気づいた。

「あ、ゴメン……なんか変なこと訊いちゃったかな。あのさ、今の質問、忘れてくれていいよ」

 彼女からは、何の応答も返ってこなかった。

 しばらくの間、気まずい沈黙が続いた。

 僕は、手に持ったお茶を啜ったりして、苦痛の時間をなんとかやり過ごそうとした。

 不意に、レイが自分のカバンと湯飲み茶碗を取って立ち上がった。そして茶碗を湯飲みカゴに戻すと、そのまま出入り口のドアから外に出ていってしまった。

 僕は、後悔に押し潰されそうな気持ちを抱えたまま、ただレイの後ろ姿を眺めていた。

 翌日から二日間、僕らは全く口をきかなかった。レイは、まるで僕など存在してないかのように、ただ前を向いて授業を受け、休み時間になると黙って文庫本のページをめくっていた。

 そんな彼女の態度を気にしながら隣のイスに座ってるって、針の筵に座らされてる以上の辛さだった。 

 三日目の一時間目の授業中に、僕は意を決してノートの切れ端にメモを書き、レイの机にそっと置いた。

 でも彼女は、そのノートの切れ端に目をくれる素振りも見せなかった。

 メモには『この前はゴメン。ちゃんと謝りたい。今日の午後四時、タカマンで待ってる』と書いておいた。  

 放課後、僕はメモに書いたとおり、下校の途中に高橋饅頭屋へ寄った。

 内心、レイが現れないだろうことは覚悟していた。でも、とりあえず店の前に立っていようと思った。だから、四時すぎにレイが現れた時は、本当に驚いてしまった。

 僕の前に立ったレイは、どこか怒ったような無表情を浮かべていた。

「あの、とりあえず、店に入ろうよ」

 僕はできるだけ軽い口調で声をかけた。

 ドアを開けて店内に入り、空いた席に座ってるように彼女をうながしてから、餡とチーズ入りのオヤキを二つずつ買った。いったんテーブルにオヤキを置き、番茶を取りに行ってから、おもむろに彼女の隣に腰かけた。

 それから、改めてレイの方に上半身を向けて口を開いた。

「この前は、本当にゴメン。あんな不躾なこと聞いちゃって。ちょっと調子に乗りすぎたって反省してる。許してはくれないと思うけど、この通り謝るよ。本当にゴメン」

 僕は、レイに向かってコクリと頭を下げた。

「杉本くん、違うの……」と、緊張気味のレイの声が、すぐ耳許で聞こえた。

「謝りたいのは、私の方なの」

 僕は、驚いて顔を上げた。

「あんな質問されたくらいで、何も答えられずに黙ったまま店を出てくなんて、私ってサイテーだなって落ち込んじゃったの。あれからずっと小心な自分に腹が立ってるの」

「えっ……?」

「杉本君にも、本当に悪いことしちゃった。謝らなくちゃならないのは私の方なの」

「それは違うよ。あんな変な質問をした僕の方が悪いんだ。だから、べつに君が謝るようなことじゃないよ」

 レイは、何度か首を横に振りながら、「本当にごめんなさい」と言って、僕に向かってコクリと頭を下げた。

「……それで今日は、この前の質問に、ちゃんと答えようって決心してきたの。べつに隠すようなことでも何でもないんだし」

 どことなく意を決したような声音だった。

 レイは、じっと息を凝らして気持ちをひとつに集中させるような仕種をしてから、おもむろに口を開いた。

「私って、中学校までは、まあまあ普通の女の子だったの。仲のいい友達だって二、三人くらいはいたし、そういう子たちと休み時間や放課後なんかは、いつもお喋りして過ごしてた」

 そこまで話すと、レイは手元の湯飲みから一口お茶をゴクリと飲み、また一呼吸とって、口を開いた。

「高校に入ってすぐのことなんだけど、親友って呼べるくらい仲のいい友達ができたの。その子には、自分の思ってることや悩みなんかを、なんでも打ち明けられた。私、その子のこと、一〇〇パーセント信じてた。

 でも、後になって、その子が別のグループに行って、私の悪口を言いふらしてるって聞いたの。私、それを知って、とてもショックだった。人間不信に陥って、しばらく家のベッドから出られないくらいだった。少しの間、学校も休んじゃった。

 二週間くらいして、なんとか学校に戻れるようにはなったんだけど、あのときは、まわりの誰も信じられなくて、人と口をきくのも怖かった。自分の殻に閉じこもるようになったのは、それから。

 最初は淋しい気もしたけど、ずっと一人でいるうちに、これも悪くないなって思えるようになって、それで今まできちゃった……まあ、だいたいそういうことかな」

 レイは、一つ一つの言葉をきちんと選びながら、ゆっくりとした口調で語ってくれた。そして最後まで話し終えると大きなため息をついた。まるで、その話を語るために、一生分のエネルギーを使い果たしたという感じだった。

 しばらくしてから、僕はおずおずと尋ねた。「あのさ、一人でいるって辛くない?」

 レイは、僕の目を見て、小さく頷いた。

「そりゃもちろん辛い時だってあるわ。でも、人にわずらわされることもないし、慣れてしまえば、それはそれで気楽なものよ」

 レイは、手の中に残っていたオヤキのカケラを、そっと口の中に押し込んだ。

「そうだとしても、ずっと一人を貫くなんて、僕には真似できないよ。君って、きっと意思が強いんだと思う」

「ちがうの、私って、べつに強い人間じゃないわ。弱いから一人の殻に閉じこもってるだけよ」

 僕は、改めてレイの顔を見て言った。

「ねえ、どうもありがとう。僕の不躾な質問に、ちゃんと答えてくれて」

「ううん、こっちこそ。久しぶりに勇気を出して、自分のこと、ちゃんと話せたから、私も嬉しいわ」

 僕らは、それから三十分ほど軽い雑談をして、店の前で別れた。

 その日から、僕とレイの距離は一気に縮まった。僕らは、休み時間も昼休みも、気軽に何でも話すようになった。

 親しくなってみると、レイは意外と情報通な一面があった。密かに男女交際しているクラスメートは誰と誰だとか、理科の教師は定期テストで毎年同じ問題を出してるらしいとか、美味しいチョコレートパフェの店が駅前にあるとか。そんなことをたくさん教えてくれた。

 僕に対する警戒心を解いたレイが、生き生きとした表情で何でも話してくれる様子を見てると、僕もなんとなく幸せな気持ちになった。

 翌月の初日、いつものように次の席替えが行われた。僕は、もっとレイと話をしていたかったという気持ちを残したまま、他の席へ移った。

 彼女と席が離れてしまうと、彼女と気軽に話す機会は、なんとなく失われてしまった。わざわざレイに声をかけて、一緒にタカマンに行こうと誘いかけるのも、なんとなくためらわれた。

 そうこうしてるうちに、いつしか僕らは、以前と同じように、素知らぬクラスメートへと戻っていった。

 時折僕は、たった一人で席に座って文庫本を読んだり、勉強してるレイを、遠くから眺めた。

 彼女は孤独でいることが、ちっとも寂しそうにも辛そうにも見えなかった。そういう彼女の様子が確認できると、僕は、少しだけ安心し、すこしだけ淋しく感じた。

 やがて、卒業式を迎え、僕らは、それぞれの進学先へと進んだ。

 

「今、何してるの?」

「仕事のこと? 図書館の司書よ。私って本を読むくらいしか取り柄がなかったでしょ? だから、そのつもりで大学も選んだの」

 堅実な人生を歩んでいるレイに多少の驚きを覚えて、彼女の顔をまじまじと見た。

「一人で殻に閉じこもってた私が、普通に働いてるって信じられないでしょ?」

「そんなことないよ。それにしても、高校時代とは表情が全然違う。なんか生き生きしてる」

「高校を卒業してから、自分を変えようと思って、私なりに頑張ったの。それって、杉本君からかけられた言葉のせいもあるのよ」

「僕、なんか言ったっけ?」

「……ねえ、二人で一緒にタカマンのおやき、食べたの覚えてる?」

「うん、二回とも、よく覚えてる」

「私が自分の打ち明け話をして、お店の前で別れた時、杉本君、私にこんなことを言ったのよ。

 一人の世界に閉じこもってたら、たしかに人を傷つけることも、人から傷つけられることもないし、穏やかな学校生活を送れるかもしれない。でも、それって人間らしいって言えるんだろうか。確かに世の中には色んな人がいるから、時にはイラついたり、腹が立ったり、傷ついたりすることもある。でも、それが生きてくってことなんじゃないか、って」

 そんなことを言ったなんて、ほとんど記憶になかった。

「私、自分の生き方が間違ってるって、薄々気づいていたんだと思う。でも、杉本君に、はっきり言われて、やっぱりこのままじゃいけないんだって、はっきり自覚したの。

 それで、大学に進んでからは、積極的に人と交わろうって頑張った。もちろん、人と上手くいかなくて落ち込むことたくさんあったわ。でも、どうにか今までやってこられた」

 表情豊かに生き生きと話すレイを見ていて、高校時代とはすっかり別人になったのを心の底から実感した

「……だから、杉本くんと再会したら、お礼を言おうってずっと思ってたの」

「お礼だなんて。べつに僕は何もしてないよ。君自身が努力してきた結果だよ。

……そう言えば、タカマンで思い出したんだけど、席替えで君と席が離れてから、よくあの店に顔を出してたんだ。もしかしたら君と会えるんじゃないかなって思ってさ。でも、残念ながら一度も会えなかったな」

 そう言って、僕は自嘲的に笑った。

 しばらくしてから、レイがおもむろに口を開いた。

「じつは私、タカマンで杉本くんの姿を何度も見かけていたの」

 レイの言葉の意味がわからなくて、僕は、彼女の顔を見てしまった。

「私も、時々タカマンに寄ってたの。お店に入ろうとして、休憩所に杉本君が座ってるのを見つけると、なんか緊張しちゃって、どうしても中に入れなかった。そんなことが何度もあったわ」

「へえ……」と答えながら、なんか胸がドキドキしてきた。

「あのさ、よかったらまた久しぶりに、タカマンのオヤキ、食べに行ってみない?」

「ええ。もちろん、いいわよ」

 そんな話をしながら、僕らはクスクスと笑いあった。