愛してると云ってくれ

            プロローグ

 僕は、ホテルの狭い廊下を歩いている。床には赤い絨毯が、遙か遠くまで敷きつめてある。
 『984』という数字が貼られたドアの前で僕は立ち止まり、ドアノブを右手で掴む。それから、ゆっくりとドアを開ける。
 部屋のすぐ入口の床に、若い女性が倒れているのが見える。 
 彼女は両手を大きく広げ、天井を見上げるような格好で、緑色の厚い絨毯の上に横たわっている。
 淡いパープルのアイシャドウをひいた両目をしっかりと見開き、じっと天井の一点を見つめている。まるで、天井に書きつけられた文字か暗号でも読み取ろうとしているかのようだ。
 やや薄く開いた口許から右側の頬に向けて、鮮血が緩やかな曲線を描いて流れ落ちている。流れ出た血は、まだ完全に乾ききってはいない。
 花柄模様の白いセーターの、ちょうど胸の真ん中あたりに、十センチほどの細長い棒が天井に向かって突き出ている。
 よく見ると、それは突き出ているのではない。
 セーターの生地を貫いて、彼女の胸深く突き刺さっているのだ。
  突き出ているように見えたのは、包丁か果物ナイフの柄の部分だ。
 彼女のセーターは、鮮血でぐっしょりと濡れていて、美しく刺繍された花柄模様が判別できないほどだ。胸から流れ出た血は、床の絨毯をたっぷりと濡らし、彼女が横たわっているあたりは、鮮やかな血の沼になっている。
 横に広げた両手の指先が折れ曲がっていて、何かを掴もうとしているかのように見える。
 死ぬ瞬間、彼女は何を掴もうとしていたのだろう。もしかすると、身体から抜け出ようとする自分の魂を繋ぎ止めようとしたのかもしれない。

 

         1(2009年)

 

『ありふれた日常の中にこそ、人生の幸せがある』
 そう語ったのは、いったい誰だっただろう。ヨーロッパ中世の哲学者か思想家か、だいたいそのあたりだ。
 その言葉を俟つまでもなく、僕の毎日は、ありふれた日常の累積そのものだ。特別なことなんて何もない。
 僕には三つ年下の妻と、小学校に通っている二人の子どもがいる。
 妻のカオリは、特に美人というわけではないし、個性的な顔をしているわけでもない。ありていに言えば、人並みといったところだ。
 二人の子どもにしても、成績が特に優秀なわけでも、何かスポーツに秀でているわけでもない。これまた、どこにでもいるような平均的な子どもたちだ。
 でも、当然のことだけれど、僕にとっては皆かけがえのない大切な家族だ。
 僕は、毎朝、午前九時すぎくらいに起きる。二人の子どもたちは、もう学校に行ってしまっていて、家の中には妻のカオリしかいない。
 カオリの淹れてくれるコーヒーを飲みながら、僕はゆっくりと時間をかけて新聞を読む。それから昼食を兼ねた遅めの朝食を摂る。
 昼過ぎくらいに家を出て、勤めている学習塾に向かう。塾は、自宅から車で十五分くらいの場所にある。
 十五年前、東京の仕事を辞めて帯広に帰ってきた僕は、この学習塾でカオリと出会った。
 出会って一年後に僕らは結婚した。
 カオリは、子どもができた後、いったんは退職したけれど、下の息子が小学校に入学したのを機に、時間講師という形で、学習塾の仕事に戻った。
 僕は、女性が仕事を持って外に働きに出ることには大賛成だし、それに何より大切なのは、彼女自身が、塾で子どもたちに数学を教えることに生き甲斐を見いだしてるという点だ。
 学習塾に着いてから、担当の教室の掃除をして、授業のための教材やプリントの準備に取りかかる。夕方の四時を過ぎると小学生たちがやってくる。小学生には、明るく楽しい雰囲気の中で授業を行うように心がけている。勉強は楽しいものだと思わせる。そこがポイントだ。
 夜の七時を過ぎると、今度は中学生の時間になる。中学生には厳しく指導を行う。テストの点数が上がらなければ、父母からすぐにクレームがくるし、生徒たちには希望する高校に合格してもらいたいからだ。
 だいたい十時半すぎに授業は終わり、教室の後片付けやプリントの整理をしているうちに十二時を回ってしまう。
 家に帰ると、子どもたちは、もうベッドに入って寝てしまっている。
 月曜日から金曜日まで、僕と二人の子どもはすれ違いの生活が続く。
 僕はスーツを着たまま、子ども部屋に入っていって、しばらくの間、二人の寝姿を眺める。時には、五分くらい、じっとベッドの横に立って眺めることもある。
 小学校六年生の娘は、まっすぐ上を向いて、行儀よく寝ている。でも、三年生の息子の方は寝相がひどく悪い。横向きになっていたり、時には、足と頭の向きが逆になっていたりする。
 二人の寝ている姿を眺めていると、僕は心の底から幸せな気持ちになる。多分その時が、一日の中で一番幸福感に浸っていられる時間だ。
 風呂を浴びた後、僕は、妻のカオリと二人でビールを飲みながら、一日の終わりをゆっくりと味わう。僕もカオリも決しておしゃべりな方ではないが、お互い、その日にあった出来事を、感想を交えて伝えあったりする。
 そして一週間に二、三回くらいの割合で、僕は、カオリとセックスをする。
 彼女とのセックスは、十分に僕の欲望を満たしてくれる。カオリの漏らす悦楽のため息を聞きながら、彼女の肌をゆっくりと愛撫してると、僕は自分の心が、穏やかに癒されていくのを感じとることができる。 
 そういう心慰められる時間を、妻のカオリと共有できるというのは、僕にとって、この上なく幸せなことだ。
 僕の毎日は、だいたいこんなことの繰り返しだ。人と違っているような特別なことなんて何ひとつない。
 二人の子どもが少年団活動の練習で出かけた日曜日などは、夫婦二人で、市内のカフェ巡りをしたり、流行の映画を観に行ったりする。
「リサがね、初潮を迎えたらしいのよ。あの子、恥ずかしいから、お父さんにだけは内緒にしておいてって言ってたわ。だから、この話、知らないことにしておいてね」
 そんな会話を、カフェの窓側のテーブルに座り、カオリと交わしたりする。
 午後の眩しい陽光を浴びながら、外の穏やかな街並みを眺めていると、家庭の幸せといったものを、しみじみと感じる。
「ねえ、あなた、私の話、ちゃんと聞いてるの?」
「……うん、リサの初潮の話なんて、何も聞いてないよ。僕は死ぬまで、娘に生理があるなんて知らないことにしておくよ」
 妻の嬉しそうな含み笑いを聞きながら、こんな時間が永遠に続いてくれることを僕は心の底から願う。

 

          2( 1993年)

 

 僕が、美沙と初めて出会ったのは、東京の世田谷にある区立図書館でだった。彼女は、司書として貸し出しカウンターの中で忙しそうに働いていた。
 そろそろ桜の花が散ろうとしている四月上旬の日曜日、僕は、仕事の関係で「デレク・ハートフィールド」というアメリカ人の、ほとんど無名な作家のことを調べるために図書館を訪れた。蔵書目録で、彼に関する著作が三冊ほどあるということがわかった。開架式の書棚でそれらの三冊の本を探したけれど、一冊しか見つけられなかった。そこで、僕はカウンターにいる司書の若い女性に声をかけたのだった。
 髪を後ろできっちりと束ねてポニーテールにしてる女性が、疲れを無理に隠すような人工的な笑みを浮かべて、僕のほう見た。ほつれた前髪が、右目にかかっていた。たぶん今日一日、無数の来館者たちの我が儘な要望に振り回され続けたんだろう。そんな印象を受けた。
 探してる本のことを伝えると、「デレク・ハートフィールドですね」と口の中で復唱してから、少し考えるそぶりを見せた。
 彼女が、彼の名前を知っていたことに、僕は少なからず驚いた。
「彼に関する資料は、お話のとおり三冊ほどあった筈です。……少々待っていただけるかしら」と答えるなり、彼女は足早にカウンター奥の閉架式書庫へと姿を消した。
 僕は、彼女がデレク・ハートフィールドに関する本の冊数まで覚えていたことに、さらに驚いてしまった。いったい、どういう素性の司書なんだろうか。彼女のことに、少しだけ興味が湧いた。
 十分ほどして戻ってきた彼女は、僕のほうを見てニコリと微笑んだままカウンターの外に出ると、開架式の書棚の方へと足早に歩み去ってしまった。
 十五分ほどして戻って来た時、彼女の手の中には一冊の本があった。
「こちらの本よね。……どういうわけか全然別の書棚に紛れ込んでいたの。残りの一冊が見つからないんだけれど、もう少し探してみるわ」
 彼女は、疲れた目つきを浮かべると、再びカウンターの奥へと姿を消した。
 それからまたしばらく、彼女は戻ってこなかった。
 彼女が現れたのは、二十分ちかくが過ぎた頃だった。
「ごめんなさい、すっかり待たせちゃって。館内にあるはずなのに、どうしても見つからないの。いったい、どこに行ったのかしら? まいっちゃうわ」
 探し疲れたというよりも、見つけられなかったことに対する悔しさを滲ませた口調で、彼女は呟いた。
 たぶん彼女は、図書館司書という仕事に対して強固なプライドや使命感といったものを抱いているのだろう。そんなことを強く感じた。
 ここ最近、雑誌の編集という仕事に、徒労感と虚しさしか感じられなくなっていた僕の目に、彼女の仕事に対する真摯な姿勢が、とても新鮮に映った。
「こんなに一生懸命に探してもらって、こっちこそ申し訳ない。二冊見つかっただけでも、僕には十分だよ。
 それに、残りの一冊が出てきたからといって、別にデレク・ハートフィールドの評価が急に高まるというわけでもないしね」
 僕の言葉に、彼女は、肩の荷を下ろしたような安堵の笑みを浮かべた。
「もう一度、時間をかけて、ちゃんと探してみるわ。それでも見つからなかったら、他の図書館から借りられるように手続きしておくわね。ここに届いたら、あなたの所に電話連絡をさせてもらってもいいかしら……」
「そうしてもらえると嬉しいな」と、僕は、アパートと仕事先の両方の電話番号を書いたメモを彼女に渡した。
「三日以内には、必ず連絡をするわね」
「今日は、色々と面倒をかけてしまって、本当にどうもありがとう」と、とりあえず僕はお礼の言葉を伝えた。
 こんなに丁寧に対応してくれた彼女に、どういう感謝の言葉を使えば、僕の気持ちが伝わるのか、よくわからなかった。
「自分の仕事を当たり前にしただけよ。別に気にしないで」と、彼女は、ちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、また」と言って、僕は、図書館の正面ドアから外に出た。  
  ちょうどその時、強い横風が吹きつけてきて、図書館前の芝生に立っている桜の木々から、ピンク色の花びらが一斉に飛び散るのが見えた。
 この美しい眺めを、あの司書の女性に見せてあげたいと、ふと感じた。

 美沙から、会社の編集部に電話がかかってきたのは、図書館を訪れてから三日後のことだった。
「杉本さんがリクエストしていた残りの一冊が手に入ったわよ」
 彼女自身が、そのことをとても嬉しく感じてるといった弾んだ声音だった。
「どうもありがとう。君が言ってたとおり三日以内だったね」
「私、根拠のない見通しは言わないことにしてるの……」
「ねえ、本を見つけてくれたお礼をしたいんだけど、夕食でもご馳走させてもらえないかな」
「ゴメンなさい。気持は嬉しいんだけど、そういった個人的な謝礼のたぐいは受けられないの。来館される一般のお客さん方との個人的な接触は一切禁じられてるから。それが、ここの規則なの」
「僕の無理なリクエストに、司書の君が手間暇かけて本を探し出してくれたから、そのお礼をしたいって申し出ることは、世の中の道理に反したことなんだろうか。人として当たり前のことだよ。
 それとも、図書館っていうのは、世界のあらゆる知識がそろってる宝庫なのに、社会の一般常識が通用しない場所なのかい?」
 受話器の向こう側から、彼女の笑い声が聞こえてきた。
「とにかく、僕のお礼の気持を受け取ってほしいんだ」
「気持だけ、いただくわ。でも、それ以上は無理なの。申し訳ないんだけど、諦めて」
 それから二十分以上も押し問答を続けた結果、何とか僕は、嫌がる美沙を、渋谷のイタリアン・レストランに呼び出す約束を取りつけることができた。

 四月最後の日曜日の夜、レストランに現れた美沙は、花柄模様がプリントされた薄地のワンピースに、淡い紫色のカーディガンを羽織っていた。図書館でポニーテールにまとめていた髪は、ゆったりと両肩に下ろしていて、彼女の顔の形にとてもよく似合っていた。
「図書館で働いている君とは、全く別人に見える。こっちの髪型のほうがずっと素敵だよ」
「今の言葉も、お礼のうちなのかしら?」
「まさか。僕は、女性にお世辞は使うけれど、嘘だけはつかないことに決めてるんだ」
「私は、嘘もお世辞も好きじゃないわ」と言うと、嬉しげな笑みを浮かべた。
 僕らは、グラスワインで乾杯してから、渡り蟹のパスタと、鶏肉の香味焼きとシーザーサラダを注文した。
「ねえ、一つだけ、君に、どうしても聞きたいことがあるんだ」
「質問によっては、答えてもいいわよ」
「デレク・ハートフィールドなんて作家の名前、どうして知ってたのかな? 彼の名前を知ってるなんて、よっぽどのマニアか、専門の研究者くらいだよ。それに、彼に関する本が三冊あるってことも覚えてただろう? 不思議でしょうがないんだ。
 君が、いくら優秀な司書だからと言って、図書館に、どんな本が何冊くらいあるかなんてことまでは覚えていられないだろう?」
「そんなことないわよ。区立図書館にある全ての本のタイトルは、私の頭のコンピュータにちゃんとインプットされてるの」
 彼女は、さも当然なことでもあるかのように、さらりと言ってのけた。
「まさか?」
「……じつは、つい先週、同じ三冊の本を借りに来た人がいたの。だから、たまたま覚えていただけ……デレク・ハートフィールドなんて作家の名前、それまで一度も聞いたことがなかったわ。それ、誰?って感じ」と、美沙は、耐えきれないように吹き出した。
 僕たちは、その後、お互いの好きな作家の話だとか、話題になってる本の話などをして、気がつくと二時間以上も時間がたっていた。
「そろそろ帰らなくちゃ。今日はごちそうさまでした」
「また、逢えるかな?」と、僕は思いきって訊いてみた。
「もちろん。図書館に来てくれたら、いつでも逢えるわよ」
「そういう意味じゃなくて……ねえ、明日は何してる?」
「私、そんな先のことはわからないわ」
「それ、『カサブランカ』のセリフだろう? じゃあ、次回は映画の話をしよう」       
「映画は好きだけど、また、あなたと逢うかどうかはわからないわ」と悪戯っぽく微笑みながら、美沙は、ゆっくりとイスから立ち上がった。

 

          3(2009年)

 

「杉本先生、おとついの夜、街で奥様に似た女性を見かけたんですよ……ほら、九丁目の外れにあるホテル・ドルフィン。あすこの裏口から、奥様にそっくりな女性が入っていくのを、たまたま見かけたんです。……ちょうど、ドアから入っていくところだったから、後ろ姿しか見えなかったんですが、横顔も、すらりとしたスタイルも、奥様そっくりだったんですよね」
 授業の合間に事務所で休憩を取ってるときに、時間講師の若い男から、何気ない言葉をかけられた。
「おとついの夜かい?……うちのカミさんが、街に出かけたなんて話、何も聞いてないな。それ、たぶん、別の女性だよ」
「じゃあ、やっぱり違うのかなあ……でも、杉本先生の奥様が、以前、同じような服を着てたの、見たことがあるんですよねえ。ほら、淡いレモン色のピッタリとしたスーツ。チラッとしか見えなかったけど、雰囲気、そっくりだったんですよねえ……」
「世の中には自分にそっくりな人間が三人はいるって言うからな。きっと、たまたま、うちのカミさんに似た女性がいたんだよ。他人の空似ってやつだな」
 笑い飛ばして、僕は、次の授業へと出ていった。
 彼の言葉のことなんて、すぐに忘れてしまった。別に気にもしてなかった。
 でも、それから三日ほど過ぎた夜、不意に、彼の言葉を思い出した。
 たまたま仕事が休みで、僕は家にいた。妻の方は、時間講師の仕事で学習塾に出かけていた。
 リビングでは、娘と息子がソファに座って仲良くアニメ番組を観ていた。僕は、キッチンのテーブルで新聞を読んでるところだった。
「なあ、五日前の水曜日の夜のこと、覚えてるかな。お母さん、塾の仕事がなかったから、家にいたと思うんだけど、どこか外に出かけたかい?」
 声をかけたが、二人はテレビに熱中していて返事がない。
 次は、少し大きめの声で訊いた。娘が僕の言葉を聞きとめた。
「水曜日の夜って、何のテレビ番組がある日だったかな……あ、そうそう、思い出したわ、この前の水曜日の夜は、お母さん、PTAの会議があるって言って、小学校に出かけたわよ」
 記憶を引き出すように、娘が考え考え答えてくれた。
 先週、PTAの会議があったなんて話、妻から、ひと言も聞いていなかった。
「ふうんお母さん、出かけたんだ……なあ、その時、お母さん、どんな服着て出ていった?」
「服?お母さんの?」
「うん……」
「何着てったかなあ……そうそう、ほら、淡いレモン色のスーツだったような気がするなあ、たぶん」
 妻のカオリは、PTAの会議には、決まってジーンズなどのラフな格好で出かけていく。
 以前、「夜のPTAの会議にスーツを着てくる奥さんがいるんだけど、ああいうの、私理解できないわ」と喋っていたくらいだ。彼女は、よっぽど格式ばったセレモニーでもない限り、スーツなんて着ようとはしない。昔から、ずっとそうだった。
 それが、どうしてPTAの会議に、スーツなんて着ていったんだろう?
 その疑問が、胸に奇妙な違和感となって残った。
「お母さん、その夜、何時くらいに帰ってきた?」
「もう、私がベッドに入って寝ようとしてたから、たぶん十一時過ぎくらいだったと思うわ」
「そうか……ありがとう」
 その夜十時前に帰ってきたカオリに、僕は早速、水曜日の夜のことを尋ねた。
「なあ、先週の水曜の夜、お前、どこかに出かけたかい?」
 いつものように深夜のテレビを見ながら、二人でビールを飲んでいる時だった。
「ええ、出かけたわよ。PTAの会議があったの……なんで、急にそんなこと訊くのよ」
「……いや、さっき子どもたちと話していたら、お前が先週の水曜日の夜に出かけたって言うからさ……PTAの会議があったなんて話、お前、何も言ってなかったじゃないか」
「あら、そうだったかしら。あなたに喋ったつもりでいたわ」
「ところで、そのPTAの会議に、レモン色のスーツを着てったんだって?……お前さ、昔PTAの会議なんかにスーツを着てくる母親の気がしれないって言ってただろう……いったい、どうしたんだよ?」
「私、今年、研修部の部長になったのよ。だから、ちょっと気合いを入れてみたの」
「ふうん、そうなんだ」
 職場の同僚から、カオリに似た女性が市内のホテルに入っていくのを見かけたという話を口に出そうかと思ったけれど、なんとなく言い出せなかった。
 いつものことであれば、こんな話は、ここで終わっている筈だった。それが後日、思いもよらず予想外の展開を見せることになった。
 たまたま仕事帰りにコンビニに寄った時、近所の知り合いの奥さんと顔を合わせた。
「あらあ、杉本さんの旦那さんじゃない!」と向こうから親しげに声をかけてきた。
「今年は、奥様にPTAの役員をお願いして、色々とご迷惑をおかけしてるのよ、よろしくお願いしますわね」
「妻でできることがあれば……なんでもご協力させていただきます」と、とりあえず頭を下げた。
「この前の夜も、PTAの会議があって、出席していただいたの。あの時は、三十分もかからないで会議は終わりましたけど、いつもであれば九時過ぎまで時間がかかるんですの。いろいろとご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いしますわね」
「いえ、こちらこそお願いします」と答えた僕の胸に、辻褄の合わない疑問が湧いた。
 PTAの会議は早く終わったというのに、カオリが家に帰ってきたのは、夜の十一時過ぎだ。同じ夜に、市内のホテルで妻に似た女性の目撃情報。そして、いつもは着ないスーツを身につけていたカオリ。
 得体の知れない黒々とした疑念が、胸の奥で染みのように広がっていくのを僕は感じた。
 その夜、カオリが風呂に入った時を見計らって、僕はテーブルに置いてある彼女の携帯を手に取った。多少の躊躇を振り切って、僕は着信履歴や発信履歴、送受信のメールを調べてみた。でも、僕の知らない人物と密かに連絡を取り合っているような痕跡は、どこにも見あたらなかった。
 ホッと安心した思いがある一方、カオリに感づかれないように、密かに彼女の携帯のチェックをしたことで、形容のできない嫌な気分が残った。妻の言葉を信用していない自分が厭わしかった。
 きっとカオリは、PTAの会議が終わった後、役員の仲間と、どこかに寄ってお喋りでもしていただけなのだろう。きっと、そうだ。そうに違いない。
 それにしても、日常のことを細かくを報告してくれるカオリが、どうして、そういった出来事を詳しく話してくれないんだ? PTAの会議にしても、以前だったら、今日の夜は会議があったとか、こんな話題が出たとか、僕が訊かなくても、何によらず事細かに教えてくれた筈なのに……。
 もしかすると、目撃情報の通り、カオリは帯広市内のホテルに出かけていたということなのだろうか?
 僕の中で、様々な疑問が、次から次へと浮かんできて、僕を狂おしい気持ちに駆り立てていく。

「ねえ、あなた、最近どうしたの? なんか、とっても暗いわよ。私が話しかけても、全然話題に乗ってこないし、夜だって、一緒にビールを飲みましょうと誘ってるのに、すぐに寝ちゃうし……ねえ、いったい何があったっのよ?」
 風呂から出てきたところを、妻のカオリから声をかけられた。
「いや、別に、何もないよ。いつもと同じだよ」
「そんなこと、ないわ。家に帰ってきても、全然楽しそうじゃないし……私に何も話しかけようとしないでしょ?……何か考えごとがあるんなら、ちゃんと私に言ってほしいわ」
「……何も、ないよ」
「ほんとに何もないのなら別にいいんだけど、もしかしたら何かあるのかなって思ったもんだから……」
「だから、何も、ないって言ってるだろう!」
 僕は、怒鳴り声を上げたまま、階段を蹴って登り、寝室に入ってしまう。
 でも、ベッドに横たわっても、いつまでも眠気は訪れてこない。悶々とした気持ちで、寝返りを繰り返すだけだ。
 一時間も過ぎたころ、カオリがそっと寝室に入ってくる。そして音を立てないように、静かにベッドにもぐり込んでくる。
 コンビニでPTAの会議の話を聞いてから、ほぼ一週間あまり、僕は一度もカオリの肌に触れてはいない。
 たぶん彼女は、僕の様子に不信感を抱いているだろう。夫は、いったいどうしてしまったんだろうかと。
 僕は、眠ったふりを続けながら、これからどうしていこうかと思案にくれる。カオリの隠し事を、どうしたら白日の下に暴けるのだろうかと。
 気がつくと、隣からカオリの規則的な寝息が聞こえてくる。僕は、安らかに眠っているカオリの首を締めつけてやりたいような衝動に駆られる。
 白々と窓の外が明るくなってくるまで、僕は悶々としたまま眠れない。狂おしい苛立ちが、胸の中で大きく膨れあがってきて僕を苦しめる。

 翌週、僕はさんざん迷ったあげく、生まれて初めて「調査探偵所」という場所を訪れた。
 事務所のドアを開けて、恐る恐る足を踏み入れると、事務机に向かって座っている六〇過ぎの男が、「ようこそ、いらっしゃいませ」と声を掛けてきた。
  応接用のソファに案内され、「どのようなご用件でしょうか」と尋ねてきた彼に、僕は、「恥ずかしい話なんですが」と前置きしてから、これまでの経緯を打ち明けた。
「ということは、杉本さんの奥様の行動について追跡調査を行う、ということで承ってよろしいんでしょうか」と僕の確認を取ってから、彼は言葉を続けた。
「それで、もしも万が一ということですが、奥様がホテルで、どこかの人物と一緒に過ごされてるというようなことが事実として判明した場合、相手の人物の素性についても、調査をいたしますか。それとも、あくまで奥様の行動のみの調査に限定されますか?」
「相手の人物の素性も、調べられるのなら調べていただきたいのですが」と、僕は頼んだ。
 事務所の入ったビルから表通りに出て、空を見上げると、夕日が妙に赤黒く見えた。
 その時、突然腹の底から吐き気が湧き上がってきた。あまりに激しい嘔吐感で、それを抑えることができないくらいだった。舗道の脇にしゃがみ込む間もなく、口の中から吐瀉物が勢いよく飛び出してきた。
 息が苦しくて、しばらくしゃがみ込んでいた。
 閉じている僕の目に、仰向けに横たわっている若い女性の姿が見えた。彼女は、両目を大きく見開いて、天井をじっと見つめていた。白いセーターは鮮血でびしょ濡れで、胸からナイフの柄が十センチばかり飛び出ていた。

 

          4(1993年)

 

 僕が初めて美沙を抱いたのは、三度目のデートの時だった。
 日曜日ごとに図書館に通い、一緒に本を探してもらったり、好きな作家の話などをしているうちに、僕と美沙の心の距離はさらに縮まっていった。
 いつものように渋谷のレストランで食事を取ったあと、僕は美沙の手を掴んで、駅とは反対の方向へと引っ張っていった。
 美沙は、「ねえ、私をどこに連れて行くつもりなの?」と笑いながら、僕に引かれるままについてきた。そして、裏通りに面したホテルの入り口に足を踏み入れたときも、何の抵抗の仕草も見せなかった。
 でも、部屋に入ると、部屋の照明を全て消して真っ暗にしてほしいと、それだけは強く懇願するように呟いた。
 二人にとって初めてのことだし、羞恥心か、あるいは照れ隠しで言ってるんだろうと軽く受け止めて、僕は部屋の電灯を全て消した。
  僕らの関係が深まっていけば、じきにこんなことは言わなくなるだろう。そんな程度の認識しか僕は持ち合わせていなかった。
 でも、二度目の時も、三度目の時も、彼女は、部屋を真っ暗にするように強く言い張った。
 さすがに三度目の時は、僕も、素直に美沙の言葉に従えなかった。
「べつに昼間みたいに照明を明るくしてセックスしたいって言ってるわけじゃないんだ。少しは灯りをつけて君の裸を見ながら抱きたいんだ。そんなふうに思うのはいけないことなのかい? 好きな女性の裸を見たいって思う男の気持ちは、不純なものなのかい?
 それとも君は、真っ暗闇で、僕とは別の男のことでも思い出しながらセックスしたいのかい?」
 強い口調で僕が言い張ると、美沙は、すごく悲しそうな目をしたまま、涙を流し始めた。
「私、そんなこと、考えたこともないわ」
 五分以上も、美沙は声を出さずに泣き続けた。
「……わかったわ、今日は部屋の電気を点けたまま、しましょう。それをあなたが望むのなら、わたし、そうしたい……」
「ゴメン、僕も言いすぎた。君の望むとおり、電気を消そう」
 美沙は何も返事をせずに、僕の目の前で、ゆっくりと服を脱ぎ始めた。
 セーターとジーンズを脱いで、パンティとブラジャーだけの下着姿になったところで、僕は、彼女がなぜ、部屋を真っ暗闇にしたがっていたのか、その理由を理解した。
 彼女の身体には、胸も背中も太腿のあたりにも、青黒い痣がまだら模様についていた。
 ともて二十代の若い女性の魅力的な裸体だとは、お世辞にも言えなかった。それは、目を背けたくなるほど醜い裸体だった。
 美沙は、何も言わずに下着も全て取り去ると、ベッドの上に横になった。
「ねえ、よかったら、この訳を聞かせてもらえないかな?」
 僕は、ベッドの上に腰をかけながら、美沙に声をかけた。
 美沙は、両手で顔を覆うと、再び五分ほど声を上げずに泣き続けた。
「私、あなたに、いろんなこと隠してた」
「……例えば、どんなことを?」
「私、実は結婚してるの。夫がいる女なの。……結婚して、もう一年くらいがたってる」
「……そうか、そうだったんだ……」
「それから、私の身体を見てわかるように、彼は、何か面白くないことがあると、私に暴力をふるう人なの……たとえば仕事のことで上司に注意されたりとか、仕事相手と上手く話が進まなかったりとか、とにかく何か自分の思い通りに行かないことがあると、家に帰ってきて私に暴力を振るうの。殴ったり、蹴ったり、そうやって気分を晴らそうとするの……」
 僕は何も言えずに、黙ったまま美紗の言葉に耳を傾けた。
「彼って、多少は内気で神経質なところもあるけれど、本当はとっても心の優しい人なの。でも、優しすぎるせいで、人よりもずっと傷つきやすいの。
 たぶん、こんなふうに暴力で発散しないと、彼、自分の中の不安定な気持ちを落ち着かせることができないんだわ」
「……旦那さんのこと、愛してるの?」
 しばらく間があってから、彼女は、小さく頷いた。
「彼が、私に暴力を振るって、それで気持ちを落ち着かせて元気に生活してくれるのなら、それでも構わないと思ってる」
 僕は、しばらく何も言えなかった。
「君の気持ちは、僕にはわからないよ。自分に暴力を振るってくる旦那を愛してるなんて、そんなこと、僕にはとうてい理解できない」
 美沙は、僕から視線をそらした。
「僕には、君が自分の気持ちをごまかしてるとしか感じられない。だって、暴力を振るわれて嬉しいと感じる人なんている筈がないだろう?」
 美沙は息を止めて、じっと僕の言葉に聞き入っている。
「本当は、君は心の中で、今とっても困っていて、誰かに助けを求めてるんじゃないのかい? 旦那さんの暴力から、できれば逃げ出したいって願ってるんじゃないのかい?
 だから、こうやって僕と逢ってるんだ。心の底では、僕に助けを求めてるんだ」
 しばらく考え込むそぶりを見せてから、美沙は口を開いた。
「彼のことは、今でもとても愛してるわ。以前と同じくらい」
「じゃあ、どうして、僕の誘いに、こうやって外に出てくるんだ?」
「どうしてなのか、私にもわからない」
「君は本当に、このままずっと暴力を受けながら結婚生活を続けていきたいと望んでるのかい? 殴られたり、蹴られたり、体中に痣を作りながら……それでも、これから先ずっと、彼と一緒に生活していきたいって本心から思ってるのかい?」
「……でも彼、私がいないと、一人じゃ生きていけないわ。私が支えてあげないと……」
 彼女の言葉を聞いているうちに、耐えきれないくらい悲しい気持に襲われた。
「ねえ、君は、彼と一緒に暮らしていっても、絶対に幸せにはなれないよ。不幸になるだけだ」
 美沙は黙って僕を見ている。
「君がこのまま、こんな悲惨な結婚生活を続けていくのを黙って見てるなんて、僕にはとうてい耐えられない。
 僕は今、君の旦那さんに対して、言葉で表現できないくらい激しい憎しみを感じてる。君の美しい肌に、こんな醜い傷跡つけるなんて、絶対に許せないって感じてる。こんなひどいこと、絶対に許せないよ」
 そう呟きながら、僕は、青あざだらけの彼女の身体を、両腕で抱きしめた。
「ねえ、よかったら僕に君を守らせてもらえないかな?
君を、旦那さんから守らせてもらえないかな? 君に、こんなひどいことをする男から、なんとしてでも君を守ってあげたいんだ……」
 喋っているうちにますます激しい悲しみが込みあげてきて、僕の胸を塞いだ。
 と、突然堰を切ったように、僕の目から涙が溢れてきた。僕は、美沙の胸に顔を押し当てたまま、声を押し殺して泣き続けた。
「ねえ、泣かないで。私のことで、あなたまで泣かないで。ねえ、お願いだから」
 そう言いながら美沙も、胸と両腕で僕の頭を抱くようにして激しく泣き始めた。

 その後、僕と美沙は頻繁に連絡を取り合うようになった。
 最初の頃、まだ僕の言葉を素直に受け入れようとはしない美沙だったけれど、何度も説得をしているうちに、少しずつ彼女の気持ちは離婚へと傾いていってるように見えた。
 美沙の夫が仕事で出張したり、外で泊まったりして不在の時、僕らはホテルで落ち合って二人だけの時間を過ごした。
 美沙は、僕に痣だらけの裸体を見せることに、何のためらいも見せなくなった。僕らは、お互い相手をいとおしむように時間をかけてゆっくり愛撫し合い、交わった。そしてセックスが終わると、これからどうしていくかについて話し合った。
 僕は、すぐにでも警察に行って、夫の暴力を訴えようと勧めた。そして離婚の手続きを取ることにしようと。僕は、美沙が夫から殴られたり蹴られたりして、体中に痣や生傷をつけられるのに、もうこれ以上耐えられなかった。
 ところが美沙は、警察に訴えることを嫌がった。
 警察に訴えたりしたら、取り調べの過程で自分の裸を他人の目に晒さなくてはならない。さらに刑事裁判へと進んでいったら、夫から受けた暴力について、大勢の前で事細かに説明しなくてはならなくなる。
 そんなことだけは絶対にしたくないと美沙は強く言い張った。
「だって、そうでしょ、そんなこと、まるで自分の恥部を、声高に人前で晒すようなものよ。そんなこと、私には絶対にできないわ。絶対にいやよ」
「そのことはわかった……じゃあ、警察がダメだったら、暴力を理由として家庭裁判所に離婚の訴訟を起こすことにしよう」
「離婚の訴訟を起こすのはいいけど、あらかじめ別居でもしていなければ、あの人の暴力、もっとひどくなるわ」
「じゃあ、家庭裁判所に離婚の訴訟を起こす前に、どこかに姿を隠すことにしよう。ほら、夫から暴力を受けてる女性のための『避難所』のような場所があるっていうだろう。そういうところにいったん身を隠して、それから家庭裁判所に離婚の訴訟を起こしたらいい」
 僕は家庭内暴力関係の相談所を通じて、東京都内に五カ所ほどある「避難所」の場所について調べた。そして美沙に、すぐに「避難所」に身を隠すように勧めた。
 でも、美沙はすぐに身を隠そうとはしなかった。
 僕が何度話しても、まだ家を出る決心がつかないのだとか、仕事の区切りをつけるまでは待ってほしいだとか、そんな理由をつけて行動を遅らせようとした。
 僕の中で、美沙にたいする暗い疑念が芽生え始めたのは、その頃のことだ。
 美沙は、もしかすると夫と今の生活を続けたいのではないだろうか? 彼女は、まだ夫のことを愛していて、別れたくないのではないだろうか?
 すぐに「避難所」に逃げ込もうともせず、なにかと理由をつけて今の生活を続けている理由は、そういうところにあるのかもしれない。
 いや、そんなことがある筈がない。暴力を振るってくる夫を、まだ愛してるなんて、そんなことは絶対にあり得ないことだ。
 そんな疑心暗鬼に揺すぶられながら、激しい葛藤の中で、僕は苦しむようになっていた。
 今度美沙に会ったときに、美沙の正直な気持ちを糺してみよう。さんざん迷ったあげく、そう決意した翌週に、思いもよらない事件が起きてしまった。

 クリスマスイブの前日の午後、編集部の事務所に、突然美沙から電話が入った。
 受話器を耳に当てた途端、美沙の緊迫した声音が耳を打った。
「今、近所の薬屋さんにいるの」
「いったいどうした?」
「あの人に胸を蹴られて、肋骨が折れたみたいなの。胸が腫れ上がっていて、深く息をすると肋骨が痛むのよ。それで、今湿布薬を買いに来たんだけど。
 ……あの人、私が外で別な男性と逢ってるらしいってどこからか情報を掴んだようなの。
 それで昨日の夜は、大声で怒鳴り散らしながら、家具を投げつけたり、私を蹴っ飛ばしたり殴ったりして……今までで一番ひどい暴力だったわ。私、今度こそ殺されるかと思った」
 声が、震えていた。
「旦那は、今どこにいる?」
「薬屋の外で私を待ってる。いま、お店の人にお願いして電話を借りて話してるの」
「旦那に見つからないように、店の裏口からでも逃げ出せないか?」
「わからないけど、やってみるわ」
「だったら、これからすぐに会おう。品川駅前の例のホテルで落ち合うことにしよう。僕の名前で、すぐに部屋を取っておく」
「わかったわ」 
「もしかしたら、そのまま避難所に逃げ込むことになるかもしれないよ」
「わかってるわ。心の準備はできてる」

 僕が、美沙との待ち合わせのホテルの部屋に入っていったとき、すでに美沙は、夫に胸をナイフで刺し抜かれて床に横たわっていた。美沙は、まったく息もしていなかった。意識の抜けた目を見開いて、ただ天井を眺めているだけだった。

 

         5(2009年)

 

 調査探偵所を訪れてから、一週間も経たないうちに、あの老調査員から携帯電話に電話がかかってきた。調査結果が出たという。
 翌日の午後に、事務所に出向くと、彼から数枚の写真を渡された。
 それらの写真には、妻のカオリがホテルの裏口から中に入っていくところや、ホテルの部屋から妻が出てくるところ、また同じ部屋のドアから中年の男が出てくるところなどが写っていた。
「この写真の女性、杉本さんの奥様に間違いないですね……それから、この男性にも、見覚えがありますね」
 僕は、小さく頷いた。相手の男は、僕と同じ学習塾で働いている講師だった。
「いつから、二人はこういう関係になったんですか」と僕は訊いてみた。
「そういうことまで調査するとなると、もう一週間くらい時間をいただかなくてはなりません……調査いたしますか?」
 僕は、ゆっくりと首を横に振った。
「でしたら、ご依頼の調査は、これで完了ということになります。
 もしも、奥様の浮気を理由に離婚等を考えるのでしたなら、知り合いに優秀な弁護士がおりますので、よろしければ紹介いたしますが」
 僕は、老調査士にお礼を伝え、約束の代金を支払って、その事務所を出た。 

 

 今、カオリは、ホテルの裏口から、ゆっくりと中へ入っていくところだ。
 今夜、彼女は、薄ピンクのスーツに身を包んでいる。
 普段、ほとんどスーツを着ない彼女だが、愛しい男とのデートには、きちんと身を整えることに決めてるらしい。
 彼女が向かう部屋の中で待っているのは、同じ学習塾の同僚で、彼にも、妻や子どもがいる。
 僕は、彼女が入っていった後について、ホテルに足を踏み入れる。
 カオリがエレベーターに入ったのを確認してから、僕はロビーまで進む。彼女の乗ったエレベーターが三階で停止する。僕も隣のエレベーターに素早く乗り込み、三階のボタンを押す。
 エレベーターのドアが開いて、廊下に出ると、ちょうどカオリが、十メートルほど先の部屋のドアを押し開けて、中に入っていくところだった。
「カ、オ、リ!」
 僕は、大声を張り上げて叫んだ。
 ドアノブを掴んだまま、カオリの姿が静止した。顔だけ僕の方を向けると、信じられないといった驚愕の表情を浮かべる。一瞬の後、カオリの姿は部屋の中に消え、ドアは素早く閉じられた。
 僕は、ドアの前まで全力で駆けていって、ドアノブを掴んだ。心臓が激しく打っていて、息をするのも苦しかった。
 ドアノブを思い切り押してみる。でも、ドアは、ビクとも動かない。
「おおい、カオリ、出てこいよ」
 声を上げたが、ドアの向こう側からは何の反応もない。
 僕は、右手を上げると、拳を作ってドアをノックしてみる。
 相変わらず部屋の中は静かだ。
「おおい、カオリ、出てこい!」
 大声で怒鳴りながら、僕はドアを激しく叩いた。
 二分くらいもドアを叩き続けた頃だろうか、不意にドアが内側に開いた。
 青白い顔をしたカオリが、ドアノブを握ったまま、僕の顔を真正面からじっと見つめていた。
 僕は、ドアを押し広げながら、部屋の中に足を踏み入れる。
 ゆっくりと後ずさりしていくカオリに向かって、僕はさらに歩を進める。
 心臓が痛いくらいに激しく打っている。グラグラと部屋の床が波打つように揺れている。
「お前……」
 両手を前に差し出し、カオリの両肩を掴もうとした瞬間、目の前に黒っぽい影が立ちはだかった。
 浮気相手の男が、「悪いのはオレなんです」と呟きながら、僕の手を遮った。
「お前になんて用はない」と、両手で男の襟首を掴み、横方向に放り投げつけた。男の体が大きく床に転がっていく。
 倒れている男を横目で眺めながら、カオリに近づいていく。
「お前、なんで俺を裏切ったんだ?」
 さらに後ずさりしようとしているカオリの細い首を、両手で掴んだ。指先が、柔らかい首筋の奥へと食い込んでいく。
「なんで、こんな男と浮気したんだ? いったいなんでなんだ?」
 カオリが引きつった顔で僕を睨みつける。
「だって、あなた、私のこと、愛してなかったでしょう。昔からずっと……」
「何を言ってるんだ、俺は、お前と出会った時から、ずっと愛してきたじゃないか!」
 僕は、カオリの首を両手で締めつけながら、大声で怒鳴り上げる。
「そんなの、嘘よ。あなた、私を、愛してる、振りをしてただけ。誰だかは、わからないけど、私とは、別の人のこと、ずっと、心の中で、想ってたでしょう? 私には、あなたの心が、わかってた。だから私、ずっと寂しかった」
「何を、バカなこと言ってるんだ! 俺は、ずっとお前のこと愛してきただろ!」
「私、ずっと、さみし……かった」
「俺は、ずっとお前のことを愛してた! 愛してたじゃないか!」 
 ふと気づくと、カオリの顔は死人のように青ざめ、体の力が抜けている。
 僕は、締め上げていた両手の力を、あわてて緩める。
 カオリの首から両手を離した途端、彼女の体は床に崩れ落ちていく。
 倒れたカオリの様子を、僕は恐る恐る眺める。
 カオリは、両目を大きく見開いたまま、焦点の合わない目で天井を見ている。
 いや、よく見ると、それは妻のカオリではない。十五年前に、夫に胸を刺されて死んだはずの美沙だ。
 僕は、信じられない気持ちで、美沙の顔を凝視し続ける。
 天井を見ていた美沙の目が不意に動き、僕の方を見る。閉じていた口が、おもむろに動き始める。
「杉本さんは、私に、とっても優しくしてくれた。私のこと、色々と心配してくれた。そのことは、心から感謝してるわ。杉本さんは、とってもいい人だと思う。でも私、杉本さんのことは特に好きではなかった」 
「嘘だ……そんなの嘘だろう?」
「嘘じゃないわ、本当のことよ。私が愛してたのは夫の方だけ」
「お前は、暴力を振るわれながらも、旦那の方を愛してたというのか? どうしてなんだ? どうして、あんな奴のことが好きだったんだ?……俺は、お前のことが好きだった。お前のことをずっと愛してた。お前が死んだ後も、ずっと……」
 美紗は、何も答えようとせず、じっと床に横たわっている。見開いた目を天井に向けながら。