ゲッタウェイ

 僕には自信のあるものってほとんどない。勉強も容姿もスポーツも、なんにも。だから、じつは僕って人一倍劣等感が強い。 

 僕が入った大学にしたって、本当は来たかったわけじゃない。成績が良ければ、もっと他に進みたい大学があった。でも、思ったような成績がとれなくて、仕方がなく今の大学に来たってわけだ。

 もちろん自分の努力が足りなかったってことは重々分かってる。でもそれでも、もっと頭が良かったらなって、そんな身勝手な願望が、ずっと心の底にくすぶってる。

 でも、もちろんのことだけど、僕が自分に自信がないことは、できるだけ人にバレないようにしてる。だって、劣等感のカタマリの僕にだって、メンツとかプライドくらいはあるからね。

 今年、僕は二十歳になった。

 でも、それで何か変わったことがあるかっていうと、そんなのはべつにない。急に頭がよくなることもなかったし、女の子にモテるようにもならなかったし、スポーツが上手くなることもなかった。つまり僕の生活は、以前とたいして変わってないってことだ。

 

 そうそう、僕はべつに、こんな劣等感の話をしたかったわけじゃない。こんなこと、じつはどうでもいいことなんだ(ほんとうは、どうでもよくはないんだけれど)。今日は、寺崎さんの話をするつもりだったんだ。

 寺崎さんっていうのは、僕と同学年のフランス学科の女の子だ。

 彼女は、どっちかというと内気なタイプで、クラスでもあんまり目立つ方じゃない。いるのかいないのか、分からないってタイプの子だ。でも、それは彼女の思慮深い人柄のせいじゃないかって僕は思ってる。

 もちろん彼女にもいいところはたくさんある。思いやり深いし、勉強もコツコツと頑張ってるし、ピアノの腕だって相当なものだ。一度、ベートーベンの「エリーゼのために」を聴かせてもらったけど、ほれぼれするくらいに上手かった。

 ただ見た目のことを言えば、彼女はけっして美人でじゃない。ひとことで言えば、まあ十人並みといったくらいだ。でも、見開いた黒目は、ドキリとするくらい透明だし、笑ったときのえくぼも、とても可愛いって思う。

 彼女を見ていて、ある日、僕は思ったんだ。こんな子をガールフレンドにしたら、殺伐として大学生活も潤うんじゃないかなって。それで、半分気まぐれに手紙を書いたってわけなんだ。「今度一緒に昼飯でも食べませんか」って。

 思いがけず、彼女からOKの返事が来て、僕はビックリした。これって夢じゃないかって思ったくらいだ。それで、僕らは近くの喫茶店で一緒に昼メシを食べることになった。まあ、そんなに話が弾んだわけじゃないけど、僕らは、そのままの成り行きで、なんとなくつきあうことになった。

 予想通り、寺崎さんと一緒に過ごす時間は、とても穏やかで、心なごむものだった。

 僕らは、好きな本や映画の話をしたり、時には大学の勉強や昔の思い出なんかの話をすることもあった。ちなみに彼女の愛読書は、庄司薫の「赤ずきんちゃん気をつけて」で、それって彼女の人柄を表してるなって僕は思った。

 つきあい始めてひと月くらいは、彼女と一緒にいるのがとっても楽しかった。それは本当のことだ。だって彼女は、僕がどんな話をしたって、いつもニコニコ笑って楽しそうに聞いてくれたから。

 でも、いつか僕は、どことなく物足りなさを感じるようになった。

 それがどうしてなのか、最初は分からなかった。でも二ヶ月とか、三ヶ月くらいがたつようになって、それが何なのか、ちょっと分かってきた。

 それを上手く口で説明するのは難しい。でも結論から言えば、寺崎さんが、あまりに「いい子」すぎて、僕には物足りないってことなのだとわかってきた。

 彼女は僕が何を言っても、決して異論もとなえないし反論もしてこない。僕の言うことを黙って頷きながら聞き入れてくれる。

 もちろん彼女は決して他人の悪口なんて言わないし、彼女の語る言葉は、人を思いやるフレーズに溢れてる。

 そういうのって、ある意味心地いいことだけれど、そういうのばかりが続いていると、僕の中で妙な欲求不満が募ってきた。つまり、僕は、彼女の率直な意見や気持ちが聞いてみたいと思うようになった。もしも、僕の言うことに異論ががあるんだったら、それを言ってほしいって思うようになった。

 それで、色々考えあぐねた末に、僕と寺崎さんの相性って、あんまりよくないもかもしれないという結論に至った。男の子と女の子の間には、そういう相性って必ずあるものだからね。こんな気持ちのまま二人の関係を続けても、彼女に対して不誠実かもしれないって考えて、僕らのつきあいをやめようって伝えようって決めたんだ。

 ただ、寺崎さんが、僕に好意を抱いてるらしいってことは、なんとなく感じてたから、彼女に「別れを告げる」ってのは、僕にはちょっと荷が重いことだった。

 昨日の昼、キャンパスの表門のところで待ち合わせた彼女に、「今日、ちょっと大事な話があるんだ」って告げた。まず、そう宣言しておかないと、別れの言葉を伝えられない気がしたから。

 その言葉を聞いて、彼女の表情が硬く強ばるのが分かった。察しのいい彼女のことだから、僕が何を話そうとしてるのか、直感的に理解したのかもしれない。

 僕らは黙ったまま、いつも彼女が乗るバス停に向かって歩いた。そして、通り道にある「木洩れ日」って喫茶店に入った。

 窓際のテーブル席についててからも、彼女はずっと口を閉じてた。彼女の、こわばった表情を見てると、今日はやめようかなって、ちょっとだけ決心がにぶった。でも、ここできちんと自分の気持ちを伝えておかないと、このままズルズル行っちゃうような気がした。それで、僕は改めて心を決めたってわけだ。

 注文したコーヒーがきてから、僕はおもむろに口を開いた。

「あのさ、君とつきあうようになって、もう三か月くらいがたつよね。その間、君と色んな話ができて、とっても楽しかったって思ってる。君のことを深く知ることもできたし。

 ただ、君のことが色々と分かってくるにつれて、好みの違いっていうか考え方の違いが、けっこうあるってことがわかってきたんだ。それで、僕みたいな粗雑な男って、あんまり君にはマッチしないんじゃないかなって、そんなことを最近よく感じてるんだ。

 君には、もっと育ちが良くて、包容力のある男の子が合うんじゃないかなってね。なんかそんな気がするんだ。

 だから、このあたりで、いったん君から離れた方がいいのかもしれないって。僕の言ってること、分かるかな?」

 前からずっと準備してた理屈を、とりあえず述べてみた。自分でも、なんか身勝手な屁理屈だなって思った。でも、とりあえず話してしまった。だって、つきあいをやめるためには、何かちゃんとした理由が必要だろう? 寺崎さんは、無表情のまま、じっとテーブルのあたりに視線を向けていた。彼女の辛そうな顔つきを見ていると、残酷なことを言ってる自分が嫌になってきた。

 僕の話が終わってしばらくの間、僕も彼女も黙ってた。

 もうこれ以上、何か理屈をこねるのは嫌だったから、コーヒーに砂糖やミルクを入れて、グルグルかき混ぜてから、ひと口、ふた口、飲んでみた。

 三口めを飲もうとした時、彼女が不意に口を開いた。

「杉本くん。私のことが、退屈で、嫌になっちゃったんでしょう?」

「えっ?」

 僕は、びっくりして彼女を見た。

「べつに君が嫌になったってわけじゃないよ。そういうことじゃないんだ。なんか二人は合わないんじゃないかなって、それだけ君に伝えたかったんだ」

「そんな言い訳は、言わなくてもいいわ。たぶん杉本くんにとって、私って刺激がなくて、面白味のない相手なんだと思うから」

「いや、そういうことじゃなくてさ」

 寺崎さんは、ゆっくりと首を横に振った。

「杉本くん、あなた大学一年生の時、英米学科の久住さんのことが好きになったって言ってたでしょう? 私、彼女と高校が同じだったから、あの子の性格だとか人柄って、よく知ってるの」

 寺崎さんから、久住佳織の話が出てきて、僕はフライパンで頭を叩かれたようなショックを受けた。

 佳織は、僕が一年の時、ワンダーフォーゲルのサークルで一緒に活動した仲間だった。彼女は、華やかな雰囲気を身にまとった、ちょっと勝ち気な美少女だった。好き嫌いがハッキリしていて、言いたいことは何でもズバズバと口に出した。

 そんな彼女に心惹かれて、告白してくる男子学生が大勢いた。じつは、僕もそんな中の一人だったんだ。

 もちろん、彼女には一瞬でフラれてしまった。「キミのことは好きになれないって思う。だから、お付き合いはできないわ」って、そんなセリフだったと記憶してる。

 でも、どういうわけか佳織と僕とは、その後もなんとなく友達関係が続いていて、たまにキャンパスで顔を合せると喫茶店で話をしたりすることもある。そんな間柄だ。

 僕は、寺崎さんに何も言い返せないまま、彼女の顔を見ていた。

 彼女は、また話し続けた。

「あの子と私って、性格が正反対でしょう? 彼女は、見た目が派手で、友達も多いし、思ってることを何でもハッキリ言えちゃう。ほんとうに羨ましいタイプだなって、いつも思ってた。

 私って心の中で思ってることを、なかなか口に出して言えないの。こんなこと言ったら相手に嫌われるんじゃないかとか、嫌な感じを与えるんじゃないかとか、とにかくそんなことばかり考えちゃってなかなか言えない。

 だから、久住さんを好きになった杉本くんには、私みたいな女って、面白みがなくて、つまらないんじゃないかって、ずっと思ってた」

 僕は、ただぼんやりと寺崎さんの顔を眺めていた。

 彼女は、僕の性格だとか好みなんかをちゃんと見抜いていたんだと、その時初めて知った。

「杉本くんと一緒にいる時間は、とても楽しかったわ。最初は、どういう男の子なんだろうかって、ちょっと不安だったけど、今は、それなりに面白い人なんだなって思ってる」

「ほんとうにゴメン。好き勝手なこと言っちゃって、ほんと悪いと思ってる」

 僕は、彼女に向かって頭を下げた。

 彼女は、またちょっとだけ首を横に振って、小さな笑みを口許に浮かべた。

「私ね、こうやって男の子とつきあうのって、じつは初めてだったの。高校までは、吹奏楽と勉強のことしか興味がなかったし。男の子のことなんてどうでもよかった。だから、杉本くんと一緒にいる時間って、とっても新鮮だったの」

 僕は、黙ったまま寺崎さんの話に、じっと耳を傾けていた。

「……私の家にね、もう十年くらい飼ってる猫がいるの。ラブって名前なんだけど、私にとっても懐いていて、寝るときは必ず私のベッドに入ってくるの。まるで私の分身みたいなの。そのラブが、五日前にフラリと姿を消しちゃった。

 家族みんなで、近所を探し回っているんだけど、ぜんぜん見つからない。本当は交番にでも届けて探して貰いたいんだけど、人間じゃないから、それもできないし」

 そう言って、彼女は苦笑いを口許に浮かべた。

「悪いことって続くって言うけど、今日の杉本くんの話で、それが本当になっちゃったわ」

 そう言うと、寺崎さんは、口の中で寂しそうに笑った。

「いつの間にか、私、杉本くんのことが好きになってたんだと思う」

 

 僕らは、喫茶店の前で別れた。

 バス停に向かって歩いて行く寺崎さんの後ろ姿を、僕はしばらく眺めていた。寺崎さんの気持ちを、踏みにじってしまった罪悪感で、胃のあたりがムカムカした。

 僕は思い切って振り返ると、自分のアパートに向かって歩き始めた。

 別に、最初から彼女を騙そうとか、一時的な交際相手にしようとか、そんな気持ちがあったわけじゃない。でも、結果的に彼女の気持ちをもてあそんでしまった。そんな自分が許せなかった。自分って最低だなって、つくづく思った。

 僕は、もともと自分に自信が持てなくて、劣等感の塊のような男だ。いつもビクビクしながら周囲の視線を気にしてる。自分の思ったことを、ありのままに口に出すこともできない。だから、話す言葉はいつもソフトで曖昧だ。決して他人を傷つけるようなことは口に出さない。だから、他人からは、ありきたりでつまらない男だって思われてる。つまり、僕って、じつは寺崎さんと同じってことだ。

 僕が、大学一年の時に佳織に憧れたのは、自分とは正反対だったからだ。だから溌剌とした彼女の明るさに憧れたんだ。彼女の率直で明快な言動が、やけに眩しく見えたんだ。

 でも佳織にしてみたら、僕みたいな平凡で退屈な男って、面白みがなかったんだろう。刺激もなく、魅力も感じなかったんだろう。

 それが、彼女が僕を拒否した理由だ。

 そんなことをウダウダ考えながら、僕は、キャンパスの裏門あたりを歩いてた。

「あーら、杉本くんじゃない。お久しぶり!」

 ふと、見知った声に呼びかけられた。あわてて、僕は声の方を振り返った。

 久住佳織が、溌剌とした笑みを浮かべて、僕を見ていた。彼女の真っ直ぐな視線が、僕の胸に突き刺さってきた。  

 彼女の切れるような笑みが、僕の心に迫ってくる。僕は、彼女から目線を外せない。

 僕は、ゆっくりと息を吸い込んだ。

 すると、ちょっとだけ体の自由が取り戻せた。

 なんとかして佳織から視線を外し、思い切って足を踏み出した。一歩二歩と足を進めるうちに、徐々にスピードが出てきた。

 僕は、佳織から逃げようとしてるのか、寺崎さんを傷つけた自分から逃げようとしてるのか、僕を取り巻く世界から逃げようとしてるのか。

 そんなことすら分からずに、とにかく僕は前に向かって全速力で走り続けた。