初夏らしい晴れ渡った青空を背景に、巨大なテントが天に向かって聳えていた。テントの外観は紅白の縞模様で、キノコを押しつぶしたような丸い形だ。
大きな屋根部分の縁から四方八方へと太いロープが地面へ張り巡らされ、そのロープに結わえられた赤や緑、黄色などの旗が、弱い風を受けてかすかに揺れてる。
巨大テントを中心に、周囲には幽霊屋敷や見世物小屋、曲芸オートバイ小屋、それに射的場や飲食場などの小型テントも立ち並んでいた。
入り口アーチ横の大きなスピーカーからは華やかなメロディーが流れ、場内のあちこちで客を誘う呼び声が行き交ってる。
サトルは、前の日曜日、田舎から出てきた祖父に連れられてサーカスにやって来た。その時は、巨大テントに入って、空中ブランコや猛獣ショウ、綱渡り、ピエロの曲芸などを見た。小学校四年生になって、生まれて初めてのサーカスだった。
演技を盛り上げる華々しい音楽、独特の抑揚を含んだアナウンス、暗闇を照らす眩しいスポットライト、演技する人たちの華麗な衣装と真剣な表情。そんな異世界の雰囲気に、サトルの心はすっかり魅了された。
一週間後の日曜日、共稼ぎの両親は不在で、友達と遊ぶ予定もなかった。暇をもてあましたサトルは、自転車にまたがって家を出た。自転車のペダルを漕いでるうちに、いつのまにか市街中心地のサーカス小屋あたりまで来ていた。
自転車を入り口横の草地に止め、サトルはゆっくりとした足取りでアーチの下をくぐった。
日曜の午後とあって、サーカス内の通路は、親子連れや若者たちで賑わってる。
サトルは、人の流れあわせてゆっくりと進んでいった。
祖父に連れられてきた時は、まっすぐ巨大テントに入り、どこにも寄らずに帰ってきた。見世物小屋も、幽霊屋敷の前も素通りだった。看板絵をじっくり眺めたり、呼び込みの口上をゆっくり聞くこともできなかった。
だから今日は、サーカスの敷地内をのんびりと歩き回ってみたかった。ただし、お金は、お小遣いの五十円しか持っていない。どの小屋にも入れないことはわかっていた。
サトルは、まず見世物小屋の前で立ち止まった。
首がひょろりと長く伸びたロクロ首の女、体の表面が青い鱗で覆われてるヘビ女、下半身が魚の尾ヒレになってる人魚。その大きな看板絵が、テントの正面に掲げられていた。どれも顔つきは二十歳くらいの若い女性だ。濡れたような瞳をこらしてじっと正面を見つめてる。
荒いタッチで描かれた彼女たちの姿絵は、どことなく醜悪でグロテスクだった。でも看板絵を眺めてるうちに、サトルの胸はザワザワと波立ち、何とも言えない不思議な気持ちになってきた。
「お兄ちゃん、入っていかないかい?」
入り口横に立ってる呼び込みの中年男が、突然、声をかけてきた。にやけた笑みが、口ひげを生やした口許に浮かんでる。
「ウチは正真正銘の本物だからね。ロクロ首も、ヘビ女も、人魚も、どれも偽物なんかじゃないよ。他のサーカスじゃ、こんなスゴイのは絶対に見られないからね」
サトルは、息を止めて、その男の言葉を聞いた。
「本当はさ、子供料金って八十円なんだけど、お兄ちゃんだけは特別に五十円にまけといてやるよ。どうだい、入って行きなよ」
その言葉を聞いて、サトルはゆっくりとポケットの中に右手を突っ込んだ。ヘビ女や人魚を、この目で見てみたいと思った。
小銭を握り、取り出しかけた。
でも、と考え直して手をとめた。
自転車に乗ってきたせいで喉が渇いていた。五十円あればラムネが買える。喉をシュワシュワっと通りすぎる、あの爽快感を味わいたかった。
どうしようかと、しばらく迷っていた。
「さあ、入んなよ」
よし、入ろうと決断しかけた。でも、やっぱりお金がもったいない気がした。
「また、今度来るよ」と言うと、サトルは呼び込みの男の前から離れた。
ヘビ女や人魚って、どうしてみんな若い女性なんだろう。中年オバさんの人魚なんていないんだろうか。そんな疑問が、不意に胸の中に湧きあがってきた。
まもなく幽霊屋敷の前に来た。
スピーカーからヒュードロドロと、篠笛と大太鼓が奏でる不気味な音楽が流れてる。
左目の上に大きな瘤があり、細く鋭い目つきで恨めしげに正面を睨んでるお岩さんの顔が、サトルの眼前に迫ってきた。額からはダラダラと赤い血が流れ、ボサボサの髪は顔に落ちてる。
その看板絵を見ながら、サトルはゴクリと唾を飲んだ。この恐ろしい絵を見てるだけで、背筋がゾクゾクと寒くなってくる。
お岩さんの横には、行灯の油を長い舌先で舐めている大猫の絵があり、その隣には、井戸から上半身を出した血まみれの女性が佇んでいた。
サトルは、ざっと看板絵を眺めると、早々に歩き出した。幽霊屋敷だけは、ゼッタイに入りたいとは思わない。百円やると言われたって断る。
人の流れに沿ってさらに通路を進んでいくと、木の樽を巨大にしたような円筒形の建物に出た。高さは十メートルくらい。樽の直径は七、八メートルくらいだろうか。
入り口横に掲げられた看板を見上げた。黒いオートバイが、その巨大樽の内側を、猛スピードでグルグルと走り回ってる。
どうして地面に落ちないんだろうか。かすかな疑問を感じながら、そのオートバイの絵に見入った。
「さあさあ、もうすぐオートバイがスタートするよ。トッコー帰りの命知らずが、百馬力のオートバイに跨がって、巨大樽の内側を猛スピードで走り回るよ。ちょっとでもハンドル操作を間違えたら、地獄へ真っ逆さまだ。こんな危険な曲芸、他では見られないよ! さあさあ、どうだい、見てかないかい?」
若い男が、拡声器を使って呼び込みのセリフをがなり立てる。その口上に誘われるように、次から次へと観覧客が入り口の門を潜って入っていく。
しばらくすると、巨大樽の内側から、オートバイの低いエンジン音が聞こえてきた。やがてドルルーン、ドルルーンとエンジンを激しく吹かす音が二度続いた。その直後、タイヤが樽の内壁を蹴りつける振動音が伝わってきた。
エンジン音は、少しずつ唸り声を高めていく。巨大樽の底で始まった振動音は、グルグルと樽の壁を回転しながら、徐々に高さを上げていく。
巨大樽の頂上から、曲芸の紹介をするアナウンスの声が響いてくる。円筒の頂上を囲んで、内側を眺め下ろしている観覧者が、パチパチと拍手をしている。
そんな様子を、サトルは二十分くらいの間、顔を上げてじっと眺めていた。
頂上付近をグルグル回っていた振動音が、やがて樽の底に下りてきて、オートバイのエンジン音は止まった。
観覧者たちは、狭い階段を下りて、出入り口から外へと出てきた。顔を赤く上気させ、興奮が冷めやらない様子の親子連れを眺めていると、サトルは、なんとしてもオートバイの曲芸を見たくなった。
でも入り口の料金表では、子供は七十円と表示されている。サトルは、その「七十円」という文字を、憎々しげにぐいっと睨みつけた。
「さあ、次の回は一時間後、三時からだよ!」 呼び込みの若い男が怒鳴っている。
その声を聞きながら、サトルは、うなだれるようにして歩き始めた。
しばらく行くと、射的場やスマートボールが入ってるテントに出た。しばらく見学してから、かき氷やサイダーを売ってる飲食テントを見回った。
それから、またサトルは曲芸オートバイの巨大樽の前に戻ってきた。
「さあ、あと十五分で、オートバイの曲芸が始まるよ。トッコー帰りの命知らずが……」
呼び込みの若者が、左右に顔を向けながら拡声器に向かって怒鳴ってる。
親子連れや若いカップルなどが、料金を払って入り口をくぐり、頂上への階段を登っていく。
そんな様子を、サトルは羨ましげに眺めていた。
「なあ、お前さ、このオートバイの曲芸、見てみたいのか?」
思いがけず、すぐ隣から男の子の声が聞こえた。
サトルはビックリして、その声の方を振り向いた。
坊主頭の青白い顔をした少年が、サトルのすぐ横に立っていた。背は、サトルよりも五センチくらい高い。薄汚れた水色の半袖シャツに、紺色の半ズボンをはいている。
同じ北栄小学校の子供だっただろうか。でも、顔に覚えはない。いったい誰なんだろう。
不思議な気持ちで、サトルは、その少年の顔をじっと見つめた。
「あのさ、お前、さっきもこの場所に立って、ずうーっとこの壁を見上げていなかったかい?」
少年は、サトルに向かって、優しげな笑みを浮かべた。その笑みを見て、サトルは少しだけ少年に安心感を抱いた。
サトルは、小さく「うん」と頷いた。
「オートバイの曲芸、見てみたいんだろう?」
サトルは、返答にしばらく迷ったけれど、正直に答えることにした。
「見たいんだけど、お金が足りなくて、中に入れないんだ」
「本当に見たいんだったら、オレがタダで中に入れてあげるよ」
そう言うと、少年はサトルをアゴ先で誘いかけるようにして歩き始めた。
サトルは、どうしていいのかわからないまま、とりあえず少年の後について行った。
「ねえ、ヒロアキ兄!」
少年は、呼び込みの若者にむかって親しげに声をかけた。
「おう、アキト。どした?」
この男の子の名前はアキトっていうんだと、サトルは心の中でつぶやいた。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだ。今から、コイツと一緒に中に入ってもいいかな?」
そう言って、アキトはサトルの方を、軽く振り返った。
呼び込みの若者は、サトルの方を訝しげな目つきでチラリと見た。
「べつにかまわないけど、なんでさ?」
「コイツとオレさ、転校した小学校で友達になったんだ。それで、コイツ、どうしてもオートバイの曲芸が見てみたいって言うもんだからさ」
アキトは、屈託のない朗らかな口調で言うと、サトルに向かって、後についてくるように合図を送ってきた。そして、そのまま中へ入っていった。
サトルは、呼び込みの若者を横目で見ながら、焦るように入り口をくぐった。
頂上へと続く急な階段を登ってる間も、まだ緊張のドキドキが続いていた。
樽の頂上付近は、ぐるりと外壁を囲むように観覧用の足場が組んであって、どこからでも壁の内側を見下ろすことができた。
サトルとアキトは、観覧者の隙間を見つけて、壁際に並んで立った。壁の高さは、ちょうどサトルの顎のあたりだ。どうにか壁の内側を見下ろすことができる。
曲芸の始まりを告げるアナウンスが流れてきた。底の一部が開き、黒いライダースーツに身を包んだ男がオートバイを押して現れた。
「あれ、じつはオレのオヤジなんだ」とアキトは、ライダーの男を指さして自慢そうに呟いた。
サトルは、ビックリしてアキトの顔をまじまじと見つめた。
「君って、ここのサーカスの子だったのかい?」
「ああ、そうだよ」と、アキトがぶっきらぼうに答える。
お金を払わずにタダで入場できた謎が、サトルの中で瞬時に解けた。
その時、樽の下から、エンジンの太い呻り声がドルルルルと勢いよく立ち昇ってきた。
「さあ、始まるぞ!」
オートバイが、ゆっくりと動き出し、斜面になってる樽底の床を走り始めた。少しずつスピードが増し、やがて垂直の壁に達した。オートバイのタイヤが、バリバリと壁を蹴って進む。狭い筒の中を反響するエンジン音は、まるで猛獣の唸り声だ。
オートバイは、少しずつ高度を上げ、真ん中あたりに達した。オートバイの動きに合わせて、樽全体がグラグラと揺れてるようだ。
ライダーは、アナウンスの声に合わせて、手放し運転をしたり、シートの上に立ち膝姿になってみせたりした。
ふと気づくと、サトルの横に立っている六十過ぎの年寄りが、百円札を右手に持ち、樽の内側に向かって大きく差し出した。
頂上から四メートルほど下を回っていたオートバイが、爆音を唸らせて、さらに高さを増してきた。
ついにオートバイは、頂上ぎりぎりの縁まで達した。それでも速度を落とさずに、バリバリと板を蹴って爆走していく。
反対側から回ってきたオートバイが、猛烈なスピードでサトルの目前に迫ってきた。
目の前を通りすぎる瞬間、ライダーが身を低くして、左手を伸ばす様子が見えた。
サトルは壁から一歩後ろへと後ずさった。オートバイが外に飛び出してきそうで恐ろしかった。
オートバイが走り抜けた瞬間、年寄りの手の先にあった百円札が消えていた。
「ねえ、君のお父さんって、スゴイね!」
曲芸が終わり、混雑した通路を並んで歩きながら、サトルはアキトに語りかけた。
胸の中で高ぶった興奮は、まだ続いていた。
「まあな」
「あのさ、呼び込みの兄ちゃんが、君のお父さんのことを、『トッコー帰り』って言ってただろう。あれって何のこと?」
「ああ、『トッコー』ってのは、爆弾を積んだ戦闘機で敵の戦艦に突っ込んでいく飛行機乗りのことさ。オレのオヤジは、戦闘機に乗って飛んでったんだけど、死なずに帰ってきたんだ。不死身なんだ、オレのオヤジって」
「へえ……」
「オレは、大きくなったら、オヤジみたいな曲芸ライダーになるつもりなんだ」
少年は、自信ありげに呟いた。
「だったらさ、まずはオートバイの免許を取らなくちゃね」
サトルは、つい先日、小学校で車やオートバイを運転するのに免許証が必要だという勉強をしたばかりだった。
「そんなこと、わかってるさ」と、少年は吐き捨てるように言った。
通路を進んでいくと、やがて見世物小屋の前に出た。サトルは小屋の前で足を止めると、正面に掲げられた大きな看板絵を見上げた。
ロクロ首やヘビ女の絵を眺めているサトルの真剣な表情を、隣に並んだアキトがニヤニヤしながら見てる。しばらくしてアキトはサトルの耳許に顔を寄せると、小さな声で囁いた。
「じつは、ここの見世物って、ぜーんぶニセモノなんだぞ」
「え? ウソだろ!」
サトルは、大きな声を上げると、少年の顔をまじまじと見つめた。
アキトは、人差し指を口の前に立てて「シーッ」をすると、またサトルの耳許で囁いた。
「ウソじゃないさ。小屋の中はローソクの明かりで薄暗くしてあるから、みんなホンモノに見えちゃうんだ。でもさ、本当はニセモノなんだ」
アキトの言葉が信じられないサトルは、ふたたび看板絵を見上げた。
「だから、金払って入るなんてバカのやることさ」
アキトは、ニタリと大きく笑った。
「へえ、そうだったのか」
ついさっきまでオドロオドロシイ雰囲気を放っていた看板絵が、アキトの言葉を聞いて、急に色褪せて見えた。
二人は、見せ物小屋の前を離れた。
飲食テントの前を通りかかったとき、サトルは、自分のお小遣いでラムネを一本買った。そして、それをアキトと交替しながら飲んだ。
喉を通りすぎていくラムネの味は、美味しいはずなのに、見世物小屋の話が心に引っかかっていて、気が抜けたような味にしか感じられなかった。
「ねえ、君は、どこの小学校に通ってるの?」
ラムネを飲みながら、サトルは、ずっと気になってたことをアキトに訊いた。
アキトは、すぐに返事をしなかった。
もしかしたら質問が聞こえなかったのかもしれない。そう思って、同じことを聞き直そうとしたとき、アキトのつぶやく声が聞こえた。
「いちおう帯広小学校に転校したんだけどさ、あんまし学校には行ってないんだ」
「それって、どうして?」
「サーカスが移動するたびに、学校を変わらなくちゃならないだろう? だから、友達もできないし、勉強もわかんなくなっちゃうんだ。それで学校はあんまり好きじゃないんだ」
「ふうん。お父さんがサーカスで働いてるって、けっこう大変なんだな」
「そうさ。サーカスにいたって、べつに楽しいことばっかりじゃないしな」と、アキトが大人臭い口調でつぶやいた。
サトルとアキトは、また人波にあわせて通路を歩き始めた。
やがて二人は、出入り口の大きなアーチ前までやって来た。
夕陽が西の端に近づき、家や人の影が道の上に長く伸びていた。
「じゃあ、ボク、そろそろ帰るね。またここに遊びに来てもいいかい?」
「ああ、もちろんさ。オレたちのサーカス団、七月いっぱいは、まだ帯広にいるからな。オヤジのオートバイだったら、いつでもタダで見せてやるからな」
「ありがとう。じゃあ、また来るね」
サトルは、ゆっくりと体の向きを変えると、自転車が置いてある場所へと歩き始めた。
生暖かい風が街の通りを吹いてきて、サトルの頬を撫でて通りすぎていった。
自転車に跨がって、アーチのあたりを振り返ると、まだアキトが立って、サトルの方を見ていた。
サトルは、「じゃあ!」と右手を大きく振って、自転車をこぎ始めた。
二十メートルほど進み、チラリと後ろを振り返ると、まだアーチ横にアキラの姿が見えた。
それが、アキラを見た最後になった。
その後二回ほどサトルはサーカスに出かけた。そして敷地内のテント小屋を、あちこちと歩いて回った。でも、アキラと顔を合わすことはなかった。
お盆が終わり、肌にさわさわと秋風が吹きつける頃、サーカス小屋の一群は、まるで魔法でもかけられたように姿を消した。そして、その跡地は、何もないただの草っ原に戻っていた。
翌年の夏、また帯広の街にサーカスの一団がやってきた。でも、それは前の年とは別のサ―カス団だった。大テントの形も色も違っていたし、オートバイ小屋もなかった。
サトルは、一人で出かけて、並んでいるテント小屋をゆっくりと回ってみた。
哀愁を漂わせる音楽や、呼び込みのアナウンスは似たようなものだったけれど、一年前に味わったワクワク感は少しも湧いてこなかった。