せんこう花火

 学校祭の二日目だった。
 その日、体育館でA組ブロックからH組ブロックまでの八つの劇が上演されることになっていた。そして今、僕らB組ブロックの劇が開始される時刻だった。
 予定では、今頃僕とカオルは、体育館に作られた特設ステージの裏側で、みんなに上演開始のゴー・サインを出している筈だった。 ところが実際の僕ら二人は、女子トイレの前に突っ立ったたまま、お互いに「どうしたらいいべ?」と困惑の顔を突き合わせているところだった。
「お前、責任者だろ。トイレの中に入ってって、山崎さんでも小島さんのどちらでもいいから連れ出してこいや」とカオル。
「冗談言うなよ。女子トイレの中になんか入って行けないべや」と僕は青ざめて答える。 その時だった。体育館へ通じる渡り廊下から、学校祭実行委員の女の子と、B組ブロックの二年生数人が走ってきた。
「急いで上演を開始して下さい。あと十分で準備が整わない場合は、B組ブロックの劇の上演は中止にさせていただきます」と、実行委員の女の子が冷やかな口調で宣言した。
「杉本先輩、どうしましょう?」と二年生の男子生徒が困りきった表情でため息をつく。 山崎さんか小島さんのどちらかがいないと、劇は始められない。僕は、何も返答できないまま、ゴクリと唾を飲み込んだ。
 最悪の事態だった。

 僕の通っていた帯広市内の高校では、毎年九月の上旬に学校祭が行われていた。八月の夏休み明けから約二週間あまり、学校全体が学校祭にむけて準備一色に染まる。
 三年生の僕らのB組では、すでに夏休み前から、劇と仮装行列とアーチと競技の四つの班を作って、準備に入っていた。
 僕とカオルは、劇部門の正副責任者を引き受け、夏休み中に二人で劇の台本を作った。 僕もカオルも劇の台本を書くのは初めてのことで、それぞれアイデアを出し合いながら夏休み中かかって原稿用紙に二十枚ばかりの『せんこう花火』という劇を書き上げた。
 ストーリーはいたって単純なものだ。
 夏休みになって、大学に行っている兄が、東京から伊藤という友達を連れて家に帰ってくる。それから十日ばかり、妹の怜子も一緒に旅行をしたりして毎日を楽しく過ごす。だんだんと怜子は、伊藤に心ひかれていく。しかし怜子が自分の気持ちを伝えようかどうか迷っているうちに、伊藤が東京に帰る日が来てしまう。兄から、『アイツには、東京につきあっている彼女がいるんだ』と教えられ、怜子は想いを告白することを断念する。
 伊藤が東京に発った夜、彼と一緒にするつもりで買っておいた線香花火に、怜子が一人で火を点けている場面で、ゆっくりと幕が下りる。そのバックに、当時、僕ら高校生の間で絶大な人気があった吉田拓郎の『せんこう花火』という曲が静かに流れる。
 夜の闇の中で、ヒロインの怜子が、浴衣姿で線香花火の微かな火花を飛ばす最後のシーンを思い浮かべながら、僕もカオルもB組ブロックの劇は大成功だと確信した。
 登場人物は、怜子と兄と伊藤と、怜子の両親の五人だ。
 夏休みが終わってすぐに、一年から三年までB組ブロックの劇担当の生徒を集めて、役割分担を行った。大道具、小道具、衣装、照明、音響、そして配役。裏方役は希望者が多く、順調に決まったが、配役については、希望者がいなくてすぐに決まらなかった。
 劇の班を希望するくらいだから、内心は舞台に立つくらいの覚悟でやってきている筈だが、羞恥心やお互いの牽制があったりして自発的に希望しにくいのかもしれなかった。僕とカオルは困りきって、こちらで原案を立てるから、配役を任せてもらえるようにみんなの了解を取った。
 それから廊下に出ていって、二人で配役の相談をした。ヒロインの怜子役の女の子は、僕とカオルの意見がすぐに一致した。二年生の安田明子という女の子だ。顔の輪郭が整っていて、やや冷たい印象を受けるが、きれいな顔だちで、ちょっぴり上向いている鼻がじつに可愛らしい。
「よし、彼女は決まりだナ」と二人で、何やらいかがわしい笑みを浮かべながら、ふふふとお互いの顔を覗きあった。
 ヒロイン役が決まると、残りの役は、ほとんど何も考えもせずに二年生の他の生徒を機械的に割り振っていった。ちょっと迷ったのが、母親役の女の子だった。やや大柄な山崎という女の子と、安田明子と同じくらいの身長の小島という二人の女の子のどちらにするかということだ。
「やっぱり、怜子役より母親役がデカイほうが、劇としては見た目がいいんじゃないか」というカオルの実に論理的に見える意見に僕はすぐに賛同した。
「じゃあ山崎の方でいいな」
 僕とカオルは教室に戻って、僕らの原案を「二人で色々と思案した結果」という枕言葉を置いて、いかにも厳かな口調で発表した。特に異論は出なかったが、山崎という女の子が「劇に出演するのは、まったく構わないんですが、学校祭の前に、五日間ほど旅行にでかけることになってるんです。その間、練習には顔を出せないんですが」
 旅行にでかける日を詳しく尋ねたら、劇のセリフを録音する日までは登校してきているし、学校祭の三日前くらいには旅行から帰ってきているということが分かった。
 学校祭の劇では、セリフをあらかじめテープに録音しておき、当日はテープの声に合わせて演技をするという方法をとっている。
 セリフの録音さえ上手くできれば、あとはそれに合わせて演技をするだけだから、三日間も練習すれば大丈夫だろうと僕らは気軽に判断した。それで、山崎さんが旅行にでかけている間の練習の代役を、小島さんにお願いすることにした。
 でも、あとから考えると、そこがまず失敗の第一歩だった。
 台本の読み合わせが始まり、ある程度感情が込められるようになってくると、実際に演技や移動も入れていく。セリフの録音までに登場人物の動きが出来上がっていないと、録音の時にセリフとセリフとの間の正確な間合いが分からないからだった。
 練習は順調に進んだ。
 録音も無事終わり、山崎さんは旅行にでかけ、小島さんが練習の代役となった。
 ところが僕らは思いがけなく、小島さんの演技が実に大胆で、それでいて母親らしい雰囲気に溢れているということに気づいた。山崎さんの何倍も小島さんの演技力の方が優れていたのだ。
 その上、小島さんが入ると、他の登場人物の演技も一段と磨きがかかってきて、五人の息がぴったりと合い、素晴らしい雰囲気に変貌していった。
 しかし、小島さんには、あくまで練習の間の代役として頼んである……。
 練習が終わった後、僕とカオルは教室に残って、その事について相談し合った。
「この際、山崎さんには役を降りてもらって、小島さんに正式に頼んだほうがいいんじゃないべか」というのがカオルの意見だった。「俺も、その方がいいとは思うけどよ、でも、小島さんも山崎さんも、なんて思うだろうか? 二人の心を傷つけないかなあ」と、僕は躊躇した。
「山崎さんが旅行から帰ってきたらよ、二人にこの話をしてみて、ダメだったら、また元に戻せばいいべや」というカオルの安易な意見に、「じゃあ、そうするか」と僕もそのまま同意した。
 これが失敗の第二歩だった。
 山崎さんが旅行から戻ってきた。彼女に入ってもらって、実際に演技をさせたが、動きはギクシャクで、録音の声と演技とが一致せず、他の登場人物とも息が合わない。
 僕とカオルは、山崎さんと小島さんを呼んで、説得工作に入ることにした。
「いやあ、録音した声の方は山崎さんの迫真の演技で最高だったんだけどさ、やっぱり三日間しか練習の期間がないとなると、声と演技を合わすのも難しそうだし、傍から見ていても山崎さんが苦労しているのが可哀相でさあ」とカオルが、山崎さんへの同情をたっぷり含んだ声音で言う。
「そうそう、この際、小島さんに演技を任せちゃった方が、山崎さんも安心かもしれないよ。声の方で山崎さんには充分貢献してもらっていることだしさあ。山崎さんも、そうしてもらった方がいいんじゃない?」と、僕もやむを得ないという口調でつけ足す。
 結局、二人の意見もたいして聞かずに、僕らは彼女達を上手くまるめこんでしまうことになった。高校生の僕らは、まだ女の子の微妙な心の綾というものを充分に認識していなかったのだ。
 仕上げの段階に入っていたが、小島さんの演技はあまり力がこもらず、山崎さんは、練習の風景を教室の隅で無関心そうに押し黙って眺めているだけだった。
 そして劇を発表する当日の朝、突然、小島さんが僕らの前で、「私、母親の役を降ろさせてもらいます。今日は出演しません」と、厳しい口調で断言することになった。
「ええーっ、どうしてさあ?」と僕はびっくりして小島さんに訊いたが、彼女は俯いたまま何も答えようとはしない。
 二年生の男子を呼んで、いったい何があったんだと小声で尋ねると、
「先輩方が悪いんですよ。山崎は、ずっと自分が劇に出演するつもりでいたのに、途中から小島に役を取られてちゃったでしょう。山崎は、ぜったいに納得できないってすごく腹を立ててたんですよ。そんな山崎の気持ちを知っていて、小島が出演できる筈がないじゃないですか。山崎も小島も、完全に感情がこじれちゃってるんですよ」
「どうしたらいい? 元に戻して山崎に出演してもらうか?」
「馬鹿言わないでくださいよ。山崎が、今さら出るなんて言う筈がないじゃないですか」 血の気が引いていった。僕はうろたえて、「おい、どうする?」とカオルに訊いた。
「とにかく、もう一度小島さんに頼んで、どうしてもダメだったら、また山崎さんにお願いするしかないべや」とカオルも、青ざめた顔で答えた。
 二人を呼ぼうとしたが、どこにもいない。一、二年生にも頼んで校舎を探したら、女子トイレに閉じこもっていることが分かった。でも、まさか僕とカオルが女子トイレにまで入っていって、二人を説得するわけにもいかず、廊下に佇んでいる間に刻々とB組ブロックの上演の時間が近づいてきていた。

 実行委員の女の子が体育館に戻っていった後で、カオルが僕の顔をまじまじと凝視めてから、意を決したように口を開いた。
「もう、こうなったら仕方がないな。お前、母親役をやれよ」
「ええ? 何バカなこと言ってるんだよ。俺ができる訳ないべや!」
「でも、どうしようもないじゃないか。劇をやめるっていうのか? 今まで、みんなで頑張ってきたのに、こんなことで諦めちゃうのか? そんなわけに行かないべ。お前が責任者なんだから、最後の責任をとって、お前がやるしかないだろ?」
「だって、俺は演技なんかできないぞ」
「大丈夫だって。お前が演出してきたんだから、配役の動きは頭に入っているさ」
「だってよ……」
「だってもクソもないって。はやく母親役の衣装に着替えろよ。もう時間がないぞ」
 僕は、カオルに腕を掴まれ、控室になっている教室に強引に連れて行かれた。
「杉本に、母親役の衣装を着せろ!」とカオルが怒鳴ると、担当の女子生徒が飛んできた。僕は着ていた服を脱がされ、白いブラウスやらスカートやらを纏わされ、おまけに頭にはこんもりも盛り上がった髪の毛を被せられ、顔に白粉と真っ赤な口紅を塗られた。
 僕は茫然と立って、まるでリカちゃん人形のようにされるがままになっていた。
 カオルは僕の格好を見て、プッと顔をふくらませたかと思うと、反対側を向き、腹を抱えてクククと笑いをこらえている。
 もうこうなったら、どうにでもにしてくれと、やけくそ気味の心境になった。改めて自分の格好を見る。スカートの下に、すね毛の太い足が覗いている。こりゃあ悪夢だ。
「準備できたわよ」と衣装の子の合図で、僕らは体育館に向かって移動を始めた。スカートの裾が広がらず、とても歩きにくい。仕方がなく、僕はスカートの裾を持ち上げる。
「お前、格好悪いからやめろよ」と、カオルが、激しく笑い出しそうなのをじっと堪えたまま呟く。
「これじゃ、まるでピエロだよ」と、僕はため息をつく。「喜劇だぜ、俺が出てったら」「まあまあ、仕方がないだろう」
 舞台の上は準備が整っていた。すぐに開幕のブザーが鳴り、幕が上がった。
 母親役の出演は五回ほどある。袖幕の陰に立っていると心臓が高鳴ってきた。
 自分の出番が来て、僕はステージ上に歩き始める。観衆側を見ると、暗い体育館の底から人のざわめきが迫ってくる。赤と黄色のスポットライトが目にも眩しい。母親らしく柔らかな物腰を作ろうと思って歩いていくと、靴の爪先が、組み立てたステージの割れ目に入って、転びそうになった。あっと思って左足を前に突き出すと、スカートの裾がビリッと不気味な音を立てて裂けてしまった。
 場内に爆笑が湧き起こる。
「おい、ありゃあ男だぜ」という声が、どこからか聞こえてくる。
「オーイ、すね毛が見えてるよー!」
「スギモト、頑張れ!」
 とても演技どころではなかった。セリフの声に合わせて動くだけでやっとだ。身体中にどっと汗が噴き出してくる。
 劇が終わり、控室で衣装も着替えて、僕は、形容しようのない暗い気持ちに浸ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
 劇は完全な失敗だった。高校生最後の華麗なフィナーレになる筈だったのに、それこそ『せんこう花火』のようにあっけなく燃えつきてしまった。
 背中から声がかけられたのは、その時だ。「今日は、本当にご苦労さまでした」
 振り返ると、衣装を担当していた一年生の女の子が、神妙な表情を浮かべたまま僕を凝視めていた。
「ああ、君もご苦労さん」と僕も応えた。
「あの……先輩の演技、なかなかよかったですよ。みんな笑っていたけれど、杉本先輩が一生懸命やっているの、痛いほど伝わってきました。台本もよかったし、最後に拓郎の『せんこう花火』が流れる場面もよかったし、色々あったけれど、劇としては成功だったと私は信じてます」と、その子は、目に涙を溜め、痛々しいほど真剣な口調で呟いた。
「……ありがとう。そう言ってくれると嬉しいよ」と答えながら、僕はほんの少しだけ救われた気持ちになった。
「それから……もしよろしければ明日の後夜祭で、私と一緒にフォークダンス踊ってもらえませんか」と言いながら、その子は恥ずかしげな微笑を、口許に小さく浮かべた。
「うん……」と僕は頷いて、窓外の眩しいほど青く澄んだ初秋の空を見上げた。