ニョーケン

 「今日は、なんか学校に行きたくねえなぁ」
 いつものように自分の部屋の隅にある、ベッドの中で目覚めた瞬間に、ふとそんな想いが天からポトリと落ちてきた。
  学校に行くのが嫌だなんて小学校・中学校を通して一度も感じたことはない。まあ勉強は好きじゃないにしても、友達とワイワイ騒いだり、部活の野球をするのが何より楽しみだからだ。それが「学校に行きたくない」なんて、いったい俺はどうしちゃったんだろう? 試しに自分の掌を額に当ててみた。べつに熱はない。体もだるくはない。いつものように健康そのものだ。「バカは風邪なんてひかない」って言うけど、俺は、小学校四年生以来、もう五年以上、風邪なんてひいたことがない。これが俺の唯一の自慢だったりする、実を言えば。
 とりあえずベッドから起き上がり、大きな「のび」をしてから、思いっきり屁を吹いた。うん、今日も健康そのものだ。俺は、そう自分に言い聞かせた。でも、胸の黒いモヤモヤは、まだ消えてはいなかった。
 後から考えてみると、俺は、その時、学校で自分の身に降りかかってくる世にも忌まわしい出来事を、なんとなく予知していたのかもしれない。野生の本能で。
 部屋を出て階段を下りていくと、台所でオフクロが朝食の準備中だった。「オーッス!」と、背中に声をかけて、後ろを通り過ぎた。
「親に、『オーッス』はないでしょ!」と怒鳴るオフクロの声が聞こえたが、そんなのは軽く無視してトイレに入った
 パジャマのズボンをズリ下げたところで、窓に置いてある白い紙コップが目に入った。そうだ。今日は尿検査の日だっけ。
 俺の尿のかわりに、家で飼ってる犬のケンタのオシッコを持ってったら、一体どういう結果が出るんだろう?なーんて、そんな楽しいヒラメキが頭の隅をよぎった。一瞬、胸がワクワクしたけれど、そのアイデアは忘れることにした。一年前のぎょう虫検査での苦い経験を思い出したからだ。
 あの時は、肛門の穴に貼り付ける青いシールを、犬のケンタの肛門にペタリと貼り付けて持ってったんだ。
 そしたら、十日ほどして保健室に呼び出され、深刻な顔をした養護の先生から、すぐに大きな病院に行って、胃腸の精密検査を受けるようにと言われた。なんでも人間には寄生しないはずのぎょう虫卵が発見されたとかいう話だった。
  翌日、俺は、オヤジから一時間以上も説教を喰らったあげく、ひと月分の小遣いまでカットされてしまった。
  あれは本当に悲惨な事件だった。俺にしてみたら、ほんの軽いノリだったんだけどな。
 俺は、オシッコの途中から、紙コップに尿を注ぎ、それを試験管の形をした紫色の採尿管に移した。
 悪い予感があるからこそ、今日は地味に目立たず過ごそう自分に言い聞かせた。

 朝飯を食っているところで、玄関のチャイムが鳴った。と、間もなくアキラが「はよございま……」と口の中でモゴモゴ呟きながら入ってきた。
「あらあ、アキラ君、おはよう!今日も早いわねえ!」とオフクロが大げさに声をかける。
 オフクロは、朝食ギリギリまで寝ている俺のことが気に入らない。だから、早い時間にやってくるアキラのことを、わざとらしく誉めたりする。まったくイヤミな母親だ。
 アキラは慣れた態度で、そのまま階段を上がり俺の部屋に入っていった。奴は、俺の準備が終わるまで、いつもマンガの本を読んでるんだ。
  身支度が整い、俺とアキラはチャリに乗って学校に向かった。
「今日は、何回サユリちゃんの顔が見られるかなあ!」と、やけに嬉しそうな声でアキラが呟く。アキラは、三ヶ月くらい前から、C組の山崎サユリにゾッコン状態だ。
  確かに、サユリがニコリと微笑んだ顔は、チャーミングで可愛らしい。それは、俺も同感だ。でも、人には好みというものがある。残念ながらサユリの笑顔は、俺の心を揺さぶらない。俺の好みは、もっと知的で、キリッとしたしっかり姉さんタイプだ。それを言うと、アキラは俺をマザコンだとバカにするんだけど。

 

  学校に着いて、生徒玄関を入ると、廊下に採尿管を立てる器具が並んでいた。
「まずっ!俺、家に忘れてきちゃった」と、隣でアキラが泣きそうな声で呟いた。
「バーカ、いくら早く家を出たって、忘れ物しちゃ、意味ないべや」
「俺、家に戻って、取ってくる」と言い残すと、アキラはやや焦り気味に生徒玄関から外に飛び出していった。
 俺は、アキラの背中を見送ってから、紫色の採尿管を取り出して、自分のクラス名のところに挿した。
  今のところ、災いの予兆がないことに安心して、俺は自分の教室へと向かった。

「おい、ちょっと付き合えや」とアキラに声をかけられたのは、一時間目が終わった休み時間のことだった。俺は、ちょうど二時間目の国語の教科書とノートをカバンから取り出して、机の上に置いたところだった。
「なんだよ?」と俺はアキラに尋ねた。
「まあ、来たらわかるって」と、アキラは喜びをじっと抑えてるような奇妙な笑みを口許に浮かべてる。何かあったな。俺はヤツの顔からピンときた。
 俺たちは、すぐに体育館の男子トイレへと向かった。俺とアキラが内緒の話をする時は、人目に付きにくい体育館トイレと場所が決まってるんだ。
 トイレのドアを閉めるなり、
「やったぞ!見てみぃ!」と心底嬉しそうな笑顔で、アキラが学生服の上着の内ポケットをチラリと俺に見せた。
「なんだよ、それ?」
「とうとう手に入れたぜ!愛するサユリちゃんのだぞ!」
「はぁ……?」俺は、アキラが何を言ってるのか、まだわからなかった。
「おい、ちゃんと見せろよ!」
 下卑たニタニタ笑いを顔中に広げながら、アキラが、内ポケットの物を、3センチばかり上に持ち上げた。キラリと光るガラス管状の物体。それは、尿検査用の採尿管に間違いなかった。
「お、おい、それ。ま、まさか、サユリの、ニョーケン……?」
「ピンポーン!」と甲高い声で答えると、アキラが素早い動作で、その物体を内ポケットに納め、上着のボタンを留め直した。
「どうだい!すげーだろう。こんな宝物、滅多なことじゃ手に入らないぞ」
 アキラの、明らかに常軌を逸した興奮ぶりに、俺は、しばらく声も出なかった。驚いたというよりも、呆れてしまって、どういう反応をしていいかわからなかったからだ。
「どうやって盗ったんだよ?」
「ほら、あれから家に帰って、遅れて学校に戻ってきたらさ、廊下に誰もいなくって。こりゃあ、絶好のチャンスだなと思ってさ」
「……お、おい、まずいぜ」
「へ?どうして?何がまずいんだよ?」
「だって、それ、サユリのニョーケンだろ?サユリが朝に間違いなく出したのに、なくなってるってことがわかったら、センコウ達が盗難調査に動き出すかもしれないべや」
「こんなニョーケンの一つや二つ、なくなったって、誰も盗難調査なんかしねーよ。それ、心配しすぎ!」
「そうかなぁ?」
「そうだって、全然心配なし!」
「……それで、お前、それ、どーするんだよ?」
「俺の一生の宝物にするさ。だって、愛するサユリちゃんの生のオシッコだぜ」
「……あのなあ、お前、少し変態の気があるんじゃねーか?サユリが好きなのはわかるけどよ、オシッコは関係ねーだろ?」
「いや、断固関係ある」
「そっかなぁ……俺には、お前の考えてること、わかんねーよ」
「それじゃあ、また後でな」と、嬉しげな笑みを残したまま、アキラは、スキップでもするような軽い足取りでトイレを出ていった。
  このまま大騒動にならずに済めばいいんだけど、と悪い胸騒ぎを覚えたまま、俺もアキラの後を追ってトイレを出た。
 
 校内で盗難物があったらしいという噂が飛び始めたのは三時間目が終わった頃のことだった。さすがに、盗難物がサユリのニョーケンだというところまでは、まだ噂になっていない。でも。もしかすると昼休みくらいに、抜き打ちの盗難調査が行われるかもしれない。そんな噂も一緒に流れ始めていた。
 盗難調査となると、カバンの中の持ち物はもちろん、衣服のポケット内まで、全てを先生方に見せなくちゃならなくなる。採尿管くらいの大きさだったら、あっけなく発見されるのは火を見るより明らかだ。
 こりゃあ、まずい事態だ。そんなことを考えていると、四時間目が終わり、給食の準備をしている時に、再びアキラが俺のところにやって来た。
 さすがにアキラも、さっきまでの歓喜に満ちた表情ではなかった。困惑し、弱り切った顔つきを浮かべてる。この鈍感なアキラのオツムにも、ようやく事態の深刻さというものが見えてきたのかもしれない。そう考えると、ちょっとだけ可哀想な気持ちになった。
 俺は、アキラに目配せして、すぐに体育館のトイレへと移動した。
「なあ、どうしたらいいべ?盗難調査なんてされたら、サユリちゃんのニョーケン、見つかっちゃうよ!」
 トイレのドアを閉めるなり、アキラが眉を八の字にして呟いた。
「だから言ったべ、ニョーケンはまずいって」
「どうしよう?」
「なげるしかないべや」
「え?これ、なげちゃうの?だって、こんなお宝モノ、もう二度と手に入らないんだぜ」
「アホ!もう、そんなこと言ってられないべや!」と、俺もいささか切れ気味にアキラを怒鳴りつけた。
「いいか、お前がサユリのニョーケンなんて持ってるの見つかったら、ただじゃ済まないんだぞ。来春の高校受験どころか、お前の将来だって真っ暗闇になるんだぞ!……とにかく、すぐに中身を流してから、採尿管をゴミ箱になげるんだ」
 アキラは、仕方がなさそうに、学生服の内ポケットからニョーケン用の採尿管を取り出すと、目の高さにまで持ち上げて、物欲しそうな目つきでじっと見つめた。採尿管の中の液体は、アキラの指の震えに応じて、小さくユラユラと揺れている。
「早くしろったら!」
 アキラは、ゆっくりとした動作で、採尿管の蓋を取った。
「せっかく手に入れたのに……」
「お前が捨てられないんだったら、俺が代わりにやってやるよ!」と言いながら、採尿管に手を伸ばそうとした時のことだった。
 アキラは、採尿管の開口部をパクリと口にくわえると、試験管を持ち上げて、中身を飲み込もうとした。
「おい!待てっ!」
 瞬間的な速さで、俺の手が動いて、採尿管の動きを止めた。斜めに傾きかけてるが、まだ茶色の液体は、アキラの口には入っていない。
「おい、アホなこと、考えるなって!」
 採尿管の口をくわえたまま、アキラが、モゴモゴと必死の形相で唸っている。
「そんなもん飲んだことが、後になってばれてみろ!お前、二度とサユリちゃんの笑顔も見られなくなるぞ!」
 アキラは、なおも必死な形相で、採尿管を傾けようとする。
「やめろったら!」
 俺は、なかば強引に採尿管をアキラの手からもぎ取った。
「バカか、お前は!」 
 アキラが、哀しげな目つきを俺を睨んでいた。まあいい、そのうち、俺の深い思いやりってもんが、わかる日もくるだろう。
「中身は流して、管は捨てるからな」と言いながら、流しに向かって歩きかけた。
 その時のことだった。
 突然にトイレのドアが開いた。
 歩きかけていた足が、一瞬フリーズした。見ると、開いたドアの向こう側に、クラス担任の「ゴリラ」が、いつのも睨みつけるような赤ら顔で立っていた。
「お前ら、こんなところで何やっとるんだ!もう給食の時間だぞ……」と怒鳴りかけたところで、ゴリラの視線は俺の手にある採尿管でピタリと止まった。
「そうだったのか!お前だったんだな、犯人は!」 
 俺は、右手に試験管をしっかりと握ったまま、首を激しく左右に振ったが、もう全ては手遅れだった。

  朝に感じた不吉な予感は、こういった経緯で、まさに実現するハメになった。
  この後、俺とアキラは、すぐに相談室に連行された。そこでゴリラから二時間以上に渡って事件の成り行きを訊かれ、「これで、お前ら二人の高校進学は消えた。ここを卒業したら、社会の荒波にもまれながら頑張って働け」と宣告された。

 更に、その夜には、俺たち二人の両親が学校に呼ばれ、俺とアキラは涙を流しながら、反省の決意を表明させられることになった。

 もちろん、こんなことくらいで俺とアキラの友情にヒビが入るなんてことはなかった。
 俺とアキラは、「ゴリラ」の脅しにもかかわらず、なんとか同じ高校に進み、野球部では俺がライトで、ヤツがレフトというコンビも続いた。

 

 さて、その後日談だけど、大学を卒業した翌年に、中学校時代の同窓会が開かれることになった。
 東京に就職したアキラは残念ながら参加できなかったが、なんと例のサユリちゃんが会に顔を出していた。昔は、ただ可愛いだけの女の子だったのだが、いつの間にか知的でキリリと凛々しい大人の女性に変身していた。
 まるで狐にでもつままれたような気持ちで、俺はサユリちゃんに近づいていった。そして昔話なんかをしてるうちに二人の意気がすっかり投合し、その後つき合う関係にまで至ってしまった。
 というわけで、俺の今の奥さんが、実はサユリちゃんだったりするわけだ。
 子供も二人生まれて、今は、まあまあ幸せに暮らしている。
 時々ふと、昔のニョーケン事件のことを思い出して、妻のサユリに、事の顛末を全て話してしまおうかなんて考えることもある。でも、今のところは、まだ話していない。
 というのも、アキラの奴が結婚して帯広に帰ってきて、俺の家の近くに新居を建てたからだ。
 腐れ縁だといっても、まさか悪友の顔を潰すわけにはいかないだろう……?

 

【十勝毎日新聞 2010年(平成22年)7月4日掲載】