黎子

 浴槽に沈めて殺したはずの黎子から電話ががかかってきた。

 撮影スタジオの隅でパソコン作業をしている時のことだった。室内にはバッハの「ミサ曲ロ短調」が静かに流れていた。

 事務机の右隅にあるFAX兼用の電話機がひっそりと鳴った。その鳴り方で、なんとなく黎子からだとわかった。

 受話器を取ろうか、しばらくためらっていた。呼び出し音が九回まで鳴ったところで、ゆっくりと受話器を持ち上げた。

「私です」

 いつもの黎子のセリフだった。

「やあ、元気かい?」

 言ってしまってから、自分の行為とセリフとの矛盾に、つい苦笑してしまった。

「ええ、なんとかやってますわ。少し体調を崩して、一週間ほど会社を休んでいましたけれど、なんとか今日から仕事に復帰しました」

「そりゃあ大変だった。それで、体調の方は、もうすっかり良くなったのかい?」

「ええ、普通に仕事ができるくらいにはなりましたわ」と答えながら、フフフと黎子の含み笑いが漏れた。

 屈託のない黎子の笑い方に、ゾクゾクと悪寒が背中を駆け上がってきた。

「先生の方は、その後、お変わりありませんか?」

「うん、まあ、いつも通り元気にやってるよ」

「それはよかったですわ……ところで先生、今夜はお忙しいですか? もしもご都合がつくんでしたら、ぜひお会いしたいわ」

「君に会えるんだったら、ビヨンセの撮影が入っていてもキャンセルするよ」

 受話器の向こうから、黎子の含み笑いが伝わってきた。

  「じゃあ、今夜七時、いつものレストランで」と言うなり、電話はすぐに切れた。

 

 外は霙まじりの雨だった。針のような細い雨が、アスファルトの舗装を冷たく打っていた。オレンジ色の街路灯を反射して、路面は油染みたように滲んで見える。

 僕は傘をさしてゆっくりと歩いた。

 地下鉄の駅から、目指すフレンチレストランまで五分ほどかかった。     ガラスドアを開けて薄暗い店内に入ると、窓際の席で、ぼんやりと外を眺めている黎子の姿が目に入った。

 僕は、わざと足音を立てずに、そっと彼女の背中から近づいていった。

 明るいブラウン色の髪をポニーテールにまとめた後ろ髪と、薄い耳たぶに揺れている紫色のイヤリングが目を引いた。体の豊満なラインが浮き出るようなぴったりとしたカシミアのセーターも、黎子にとてもよく似合っている。

 やっぱり僕は黎子を愛している。他の誰にも黎子は渡したくない。欲望とも愛おしさとも区別のつかない激しい情動に、心が強く揺さぶられる。

 小さく息をつき、いつものように彼女の肩先を二度トントンと叩いてから、僕は黎子に声をかけた。

「やあ、待たせたね」

 僕は、黎子の顔を真正面から見つめながら、イスに腰を下ろした。薄いバイオレット色のアイシャドウが、黎子の顔に巫女のような深い陰影を与えている。

「私も、今しがた着いたところですわ」

「それはよかった。今日はとっても腹が空いてるんだ。何かボリュームのあるものが食べたい」

 ウェイターを呼んで、彼女はオマール海老のグリエーを、僕は鴨の胸肉のエギュエットをそれぞれ注文した。飲み物は、ボルドーものの赤ワインをボトルで頼んだ。

 乾杯を交わしてワインを一口飲んだところで、黎子が薄い微笑を口許に浮かべ、僕に小声で訊いてきた。

「ねえ、先生。どうしてさっきから、私をそんなにジロジロ見てるんですか? 死んだ筈の女が、こんな場所をまだウロウロしているから、不思議に思ってるんですか?」

「まさか、そんなことはないよ。だって、君は、いま僕の目の前にいて、僕と一緒に食事をしてるじゃないか。僕は、さっきから君の美しさに見とれてるのさ」

 無理に笑みを取り繕って僕は言ってみる。

「でも、心の底では、やっぱり疑ってらっしゃるんでしょう?」と小声で言いながら、黎子はさらにワインを一口そっと啜った。

「先生に、無理矢理バスタブのお湯の中に押し込まれたとき、私、最初は死に物狂いで抵抗しました。でも、途中で気がついたんです。早く死んだふりをしたら、きっと両手をすぐに放してくれるだろうって。だから、まだかろうじて意識が残っているうちに、暴れるのをやめて、死んだふりをしたんです。そしたら、案の定、先生はすぐに手の力をゆるめてくれました」

 僕は一週間前、ホテルの一室で黎子の首を両手で掴んで、浴槽のお湯に沈めた時のことを生々しく思い返す。

 あのとき、黎子は大きく黒目を開いて僕を見つめ、両腕を激しく振ってあらがった。でも一分もすると、ぐったりと動かなくなってしまった。 僕の両手の指先には、今でも黎子の柔らかな首すじの感触が、鮮やかに残っている。

「先生、私、先生に殺されそうになって、本当はとても嬉しかったんですわ。 やっぱり先生は、私のことを他の男には絶対渡したくないんだってわかりましたから。他の男に奪われるくらいなら、私を殺してしまうんだって。それくらい私のこと必死に愛してくれているんですね」 僕は、黎子の言葉に、大きく溜息をついた。殺そうとして喜ばれるなんて、あり得ないセリフだ。でも、黎子の言葉が不条理であればあるほど、その愛の言葉が、僕の胸を重苦しく締めつける。

 「あの男との結婚話は、その後も続いてるのかい?」

「ええ、もちろんですわ。私、普通に結婚して、自分の子供を産んで、幸せな家庭を作りたいですもの」

「結婚したら、もう君とは会えなくなる」

「そんなことありませんわ。先生が私と会いたいってご連絡してくださるのなら、私いつでもお会いに行きますわ。だって、私、先生のことが好きですもの」

「僕のことは好きだけど、その男とはどうしても結婚するんだね」

「好き嫌いと、結婚とは、もともと次元が違う話ですわ」

「だったら、もう一度言うけど、僕と結婚しよう。君が望むのなら、妻と別れるよ」

「前にもお話しした通り、それはできません。私、自分の幸せのために、先生のお子さんを不幸にしたくはないんです。そんな十字架を背負うような結婚したって、幸せになれるはずがないじゃありませんか」

 きっぱりとした黎子の口調に、僕は何も言い返せない。

 僕は、窓外の街路を車のライトが通り過ぎていく様子を、ぼんやりと眺める。濡れたアスファルト道路に光が乱反射して、火の玉が乱舞でもしているかのように見える。

 黎子も口を閉じたまま、窓の外をぼんやりと眺めている。

 ふと気がつくと、どこからかバッハの「ミサ曲ロ短調」が聞こえてきた。朝に聴いていた曲を、こんな場所で再び耳にするなんて不思議な偶然があるものだ。それにしても、こんな宗教曲が、フレンチレストランでBGMとして流れることがあるのだろうか。

「ねえ先生、昔話をしてもいいですか?」

「もちろん」

「私が小学校三年生くらいの時の話です。 七月末の夏の暑い日に、私、仲の良い友達と学校のプールに遊びに行きました。プールの中で鬼ごっこをしたり、水かけっこをしたりして、一時間くらい遊んだ頃、突然、右の太ももが激しく引きつってしまったんです。立ってることもできず、私の?は、ブクブクと水の中に沈んでいきました。私、だれかに助けを呼ぼうと思って、両腕を水の上に突き出して、激しく振りました。でも、誰も私に気づいてくれません。

 必死に両腕をバタバタと振ってるとき、不思議な現象が起きたんです。

 私は、プールの端につっ立っていて、溺れていく自分自身を眺めていました。水面で動いていた手が、ゆっくりと水の中に沈んでいく様子を、私はぼんやりと見ていました。

 私の友達が、プールの端に立っている私を見つけて、『レイちゃん、水の中で鬼ごっこしよう』って私に声をかけてきました。私は、もう一人の自分が溺れかけているのを無視して、友達と鬼ごっこを始めたんです。

 ふと気がつくと、上級生の男の子が、水の中に沈んでいるもう一人の私を水の中から引き上げてるところでした。私は鬼ごっこをしながら、その様子を遠くから眺めていました。プールサイドに引き上げられた私を、監視員の先生が走ってきて、あわてて人工呼吸を始めました。あたりに叫び声や泣き声が湧き起こってきて『あら、これはまずい』と思った瞬間、私は、プールサイドに横たわっている自分の身体に戻っていました。

 そんなことがあったんです」

 そこまで一気に喋ると、黎子は喉の渇きを潤すように、グラスの水をゴクリと飲んだ。

「ねえ、溺れてる自分を眺めている別の自分って、いったどういうことなんだろう?」

「さあ、それは私にもわかりませんわ」

「魂が、身体の死を予感して、そこから離れてしまったということなんだろうか?」

 僕は、ワインを一口飲んでから、気になってることを思い切って尋ねることにした。

「……ねえ、はっきり訊くけど、今の君は、本当に生きてるのかい? じつは、もう死んでしまっていて、目の前にいる君は、もう一人の方なんじゃないのかい?」

「何をおっしゃるんですか? 私が本当に先生に殺されているのなら、今頃殺人事件して大きなニュースになっている筈じゃないですか?」

 そう言いながら、黎子はそっと小さな微笑を口許に浮かべた。

 黎子の曖昧な笑みは、風に揺らめくローソクの儚い炎のようだった。
 レストランでの食事を終えて、僕らは、どちらから誘ったというわけでもなく、近くのホテルへと向かった。

 部屋に入って、黎子はベッドの上に仰向けに倒れると、視線の合わない目で天井を眺めながら口を開いた。

「ねえ、私たちが初めて出会ったときのこと、覚えてますか?」

「だいたいは覚えてるよ。でも細かいところは忘れてしまっているかもしれない」

 ベッドの端に腰を下ろしながら、僕は黎子のほっそりした白い指に触れた。しっとりと濡れている生あたたかい温もりが指の先に伝わってくる。黎子は間違いなく生きている。僕は安心感を覚えるのと同時に、欲望が芽生えてくるのを感じた。

「私は、全て鮮明に覚えてますよ。あれは、四年前のゴールデンウィーク、五月四日のことでした。たしか午後の二時過ぎくらいだったと思います。先生は、駅前の交差点で、赤信号で立っている私に声をかけてきたんです。もしもよかったら。写真のモデルになってくれないかって。左肩から、大きな赤いカメラバッグを下げていました」

「よくそんな細かいところまで覚えてるね」

「私、最初は断ったんですけれど、先生は、なかなか諦めてくれなかったんです」

「なんとしてでも君の写真が撮りたかったんだ」

「それで、とりあえず赤レンガの前まで行って、何枚か写真を撮ったんです。

 ねえ、先生、どうしてあの時、あれほど私の写真を撮ることにこだわったんですか?」

「君の横顔がね、若い頃の僕の母親の面影にそっくりだったんだ。それで、なんとしてでも君の写真が撮りたいと思った」

 僕は、黎子の掌を持ち上げて、僕の頬に押し当てた。柔らかな掌の感触が、僕の内側に沁みてくる。

「……なあ黎子、頼むから俺のこと、許してくれないか?」

「許すって、何をですか?」

 黎子がじっと僕の目を見つめている。

「僕が、君を殺そうとしたことを。

 この一週間、僕はずっと苦しんできた。どうして君を殺してしまったんだろうって、ずっと後悔してたんだ……」

 黎子は、ゆっくりと目を閉じた。

「あの時、お前が、他の男のものになってしまうのかと思ったら、狂おしくて、哀しくて、辛くて、つい正気を失ってしまった。だから、頼むから僕のことを許してくれないか、頼む」

 黎子は両目をうっすらと開けると、僕を不思議そうに見つめた。「私、シャワーを浴びてきますわ」

 黎子は、僕の両手から素早く身を離すと、ベッドの脇に立ち、手早くセーターとスカートを脱いでベッドの上に放り投げた。それから、背中を僕に向けたまま紫色のレースが入った下着も脱ぐと、バスルームの中へと入っていってしまった。黎子の青白くほっそりと痩せた肢体を、僕は目で追った。

 しんと静まった部屋で、テレビから流れてくる微かな音が気になって、僕は画面へと目を向けた。どこか外国のオーケストラが、バッハの「ミサ曲ロ短調」を演奏してるところだった。

 今日この曲を聴くのは、これで三度目だ。 ……いや、この曲は、ちょうど一週間前、黎子を浴槽に沈めていた時にも、テレビから流れていたような気がする。

  ふと、違和感を覚えた。……何かが変だ。 僕は、一週間前に黎子を殺してから、いったい今まで何をしていたんだろう。誰と会って、どんな仕事の打ち合わせをして、どんな撮影の仕事をしていたんだろう。家に帰ったとき、妻や子供と、どんな話をして、どんな食事をしていたんだろう。

 思い出そうとしたが、どれもうまく思い出せなかった。一生懸命思い出そうとすればするほど、頭が痛くて割れそうになる。

 僕は、テレビの電源を切った。

 室内に不気味なほどの静寂が広がる。

 そっと耳を澄ます。

 バスルームで、黎子がシャワーを浴びてるはずなのに、水音がまったく聞こえてこない。

 しばらく耳をそばだてていたが、やはり何も聞こえてはこない。

 僕はおもむろに立ち上がり、バスルームのドアを開けた。

 シャワーカーテンは引かれたままだった。

 僕は、バスルームに足を踏み入れ、ゆっくりとカーテンを開く。

 お湯が満杯に入った浴槽の底に、黎子が仰向けの格好で横たわっていた。両腕を途中まで上げ、開いた指先は、何かを掴みかかるような角度で止まっている。大きく見開いた両目は、瞬きもせずに天井をじっと睨んでいる。そして黎子の青白い首には、手の形に紫色の痣が残っていた。

「なあ黎子、たのむから冗談はよしてくれよ」

 僕は、黎子に向かって呟いた。