二十一歳の光と影

 香織は、アップライトピアノに向かって、折れそうなほど細い指を巧みに動かしている。

 文学部棟四階にあるピアノ練習室は、横長に四畳半ほどの広さがある。僕は、入り口横のパイプイスに座り、人形のように端正な香織の横顔を眺めながら、バイエルの曲を聴いている。

「ちょっと疲れちゃった」

 ふいに、香織の声が聞こえた。

「お腹もすいたし、そろそろお昼にしない?」

「うん、いいよ。そうしよう」

 僕たちは、窓に向き合うようにイスを横に並べてから、腰を下ろした。香織が、家で作ってきたサンドイッチを、膝の上に並べる。

 窓の外は、冬の兆しを感じさせる透き通った青空が広がっている。

「昨日、久しぶりにパパが早く帰ってきてね、いい話を教えてもらったの」

「どんな話?」

「パパの知り合いのツテを使えば、ピアノ教室の指導員の仕事ができるかもしれないって」

「へえ、それはラッキーだ。でも就職なんて、まだ一年も先の話だよ」

「一年も先ではないわ。あと、たった一年しかないのよ」

「でも、そんなに慌てる必要はあるのかな」

「ほら、先んずれば人を制すって言うじゃない。なんでも早いほうがいいのよ」

「たしかにそうだけど。僕は、まだ就職のことなんて考えられないな」

 年が明けたら、僕らは大学四年になる。そうなったら、そろそろ就職活動を始めなくちゃならない。でも、自分がどういう仕事に就きたいのか、それがまだ僕にはよく分かっていない。

 サンドイッチを食べ終わって、僕らは部屋の片隅に移動した。そこは、入り口ドアの小さな丸窓から、死角になる場所だった。僕と香織は抱き合って、ゆっくりと口づけをした。

 いつも香織は、柔らかい唇の動きで、僕の唇に吸いついてくる。すると不思議な快感が体の芯から湧き上がって、下半身が勃起してしまう。

 もし香織を、僕のアパートに誘ったなら、彼女はついて来るだろうか? そんな考えが、口づけをしてる間中、いつも頭の隅に湧き起こる。

 そんな行為に五分ほど没頭してから、僕らは、ゆっくりとお互いの顔を離した。

 火照った体をゆっくりと冷まして、僕らは自分のバッグを持ち、ピアノ練習室を出る。そして、それぞれ午後の講義へと向かう。

 

 その日の講義が終わり、アパートに帰るため、キャンパスの裏門に向かって歩いていた。五メートルほど先を行く女の子の後ろ姿が、目にとまった。ショートカットにまとめた髪、キャメル色のコート、すっと伸びた後ろ姿を見て、すぐに久美だとわかった。

 声をかけようかと、少しだけ迷った。

 大学に入学して、すぐに入ったワンゲル部で、僕は久美に出会った。彼女に一目惚れして、一方的に熱を上げた。でも、彼女の気まぐれな性格や、思わせぶりな態度にさんざん振り回されたあげく、僕の恋は、みじめな結末を迎えた。

 それが二年生の夏のことだ。

 僕がワンゲル部をやめた後は、ほとんど彼女と顔をあわせることもなくなった。そんな相手だった。

 迷ってる間に、久美は裏門を出ると、左へと姿を消した。いつも乗ってるバス停に向かうためだ。僕は、心を決めると、駆け足で久美の背中に近づいていった。

「やあ、久しぶり」

 久美は、振り向いて僕を見ると、「あら、三島くんじゃない」と、ちょっと驚いた表情を浮かべた。

 僕は、彼女の横にならんで、おむろに歩き始めた。

 どんな話題を投げかけようかと考えていると、久美の方から話しかけてきた。

「三島君、最近、女の子と楽しそうに歩いてるじゃない? 時々、見かけるわよ」

 久美の口調に、どこか僕を嘲笑してるような響きを感じてしまう。

 でも、彼女にそんな意図はないのだろう。たぶんこれは、フラれた側の被害妄想というものなのかもしれない。

「彼女とはさ、ひと月前くらいからつき合い始めたんだ」

 僕は、ありのままを正直に答える。

「工藤香織さんでしょ? 私、彼女のこと、知ってるわよ。同じ高校だったから。顔を合わせたら挨拶くらいはするわ」

「へえ、そうだったんだ」

「三島くん、香織さんみたいな子が、タイプだったの? 知らなかったわ」

 やっぱり久美の言葉には、悪意のようなものが込められてる。そう僕は確信して、少し苛立ちを覚える。

「タイプかどうかは、分からないけどね」

 僕は、わざと言葉を濁した。

「香織さんって、見た目がお人形さんみたいに可愛いから、昔から男の子に人気があったのよ」

「ふうん……」

「香織さん、高校時代のこと、話したりしてくれないの?」

「話してくれないよ。彼女って、君みたいにお喋りタイプじゃないし」

「あら、お喋りで悪かったわね」

 不満そうに言ってるけど、べつに腹をたててるわけじゃないことが、僕にはわかる。

「でも、女の子って謎が多い方が、魅力的だって言うから、べつにいいじゃない?」と、久美は口の中でフフッと笑った。

 気がつくと、僕らは久美が乗るバス停に着いていた。久美はちょっと迷った風を見せてから、戸惑いがちに呟いた。

「ねえ、今池に美味しいスパゲッティー屋さんを見つけたの。よかったら、これから一緒に食べに行かない?」

 久美の意外な誘いに、ちょっと驚いた。

 新しい恋人ができた僕に、あえて食事を誘うなんて、久美は何を考えてるんだろう? 

 いつもの気まぐれなんだろうか。

 ただ、じつを言えば、僕の中にも、もう少し久美と話していたい気持ちがあった。

「いいよ」と、僕はおもむろに答えた。

 久美が案内してくれたのは、今池の交差点から一本東へ入った裏通りの、白い塗り壁の洋風レストランだった。

 僕らは、料理をつつきながら、山登りのこと、最近聞いてる曲のこと、読んだ本のことなどを、思いつくままに喋った。

 食事が終わりかけた頃、久美が不意に、真面目な顔つきで僕を見た。

「ねえ、三島くん、香織さんのことなんだけど、ちょっと話してもいいかな?」

 久美の神妙な目つきから、あんまり楽しそうな話題じゃないのが分かった。

「いいよ、どんなこと?」

「さっきも言ったんだけど、香織さん、お人形さんみたいに可愛い顔してるでしょ。だから、高校時代も、けっこう男の子にもてたの」

「うん、それはさっき聞いた」

「それで、一時期なんだけど、同時に複数の男の子とつきあったりして、女の子の間では、あんまり評判がよくなかったの」

 やっぱりそんな話だったのかと、どこかで納得する思いがあった。  

「二股っていうのは、僕もあんまり好きじゃないな」

「……二股っていうか、三人くらいの男の子と、同時につきあってたりしてた。べつに私が確かめたわけじゃないけど、そういう噂が流れてた」

 僕は、何も言えずに、フォークをテーブルに置いて、久美の顔を見た。

「それで、まだ先があるんだけど、このまま続けてもいい?」

「もちろん。ここでやめたら怒るよ」

 僕にとって、キツい話になるかもしれない。でも、最後までちゃんと聞こうと覚悟した。

 久美は、考えをまとめるような表情を浮かべてから、また口を開いた

「でも、複数の男子とつきあってるのがバレちゃって、その子達から、相当強くなじられたり、問い詰められたりしたらしいの。

 それで香織さん、それが原因で、体調を崩しちゃって一年ほど学校を休んだの。だから香織さんって、じつは私たちより一年先輩なの」

 僕は、相づちを返せないまま、久美の顔をぼんやりと見ていた。

「知らなかったでしょ、そういう話?」

 僕は、久美に向かって首を横に振った。

「うん、知らなかった」

 どこか体の奥底が、ひんやりと冷めていくのがわかった。

 そこまで喋ってしまうと、久美は、もう何も言おうとはしなかった。

 しばらくして、ふと気になることが浮かんだので、僕は、久美に訊いてみた。

「ねえ、どうして、彼女の昔のことなんか、僕に話してくれたの?」

 久美は、ちょっと驚いた表情を浮かべた。

「どうして、かしら?」

 でも、それ以上、久美は何も言おうとしなかった。

 

 アパートに戻ってからも、僕は、ずっと香織や久美のことを考えていた。

 同じフランス学科に入学した三年前、女子学生の中に、フランス人形のように整った顔だちの女の子を見つけた。それが香織だった。

 でも、彼女に特別な興味をもつこともなく三年生になった。たまたま九月の前期試験が終わった打ち上げコンパの席で、彼女と隣合わせに座った。ツンとしたお澄ましタイプかと思ってたのが、意外と気さくな態度で、楽しそうに僕との会話に乗ってくれた。

 ちょうど久美に対する気持ちも整理できていた頃で、そろそろ誰か女の子とつき合いたいと思っていた。それで、なんとなく香織とつきあい始めることになった。

 でも、と僕は自分に問いかけてみる。

 僕は、香織のことが好きだったんだろうか。

 たしかに香織と一緒にいると、とても楽しい。それは嘘じゃない。

 ただし、久美に対するような、恋い焦がれる激情に駆られたことは、一度もなかった。

 これって、どういうことなんだろう。

 そんなことを色々と思い巡らせていると、朝まで眠れなかった。 

 

 翌週、月曜日の昼休み、僕と香織は、ピアノ練習室の中にいた。

「ピアノの練習の前に、ちょっと大事な話があるんだ」と香織に伝えて、僕と彼女はアップライトピアノの前に向かいあって座った。

 香織は、神妙な顔つきで、じっと僕の顔を見ている。

「君は、英米学科の杉田久美って子、知ってるよね。君と同じ高校だったっていうから。

 この前、部屋に帰ろうと裏門に向かって歩いてた時、たまたま久美と顔を合わせたんだ。それで、一緒に夕食でも食べようかって話になって、二人で今池まで出かけたんだ」

 僕は、いったん口をつぐんで、心の中にある気持ちを確かめた。

 全て打ち明けたら、香織をひどく傷つけることになるだろう。でも、そうなったとしても正直に話さなくてはならない。僕は、そう自分に言い聞かせた。

「じつは久美と僕は、一年の時からワンゲル部で一緒に活動してたんだ。僕は、彼女のことが好きで、二年の夏に、つきあってほしいって告白したんだ。でも、うまくはいかなかった。

 つまり、久美って、僕にとって、そういう相手なんだ。

 それで、ひさしぶりに久美と顔を合わせて、二時間くらい夕食を食べながら、色々と雑談したんだ。本の話だとか、音楽の話だとか、そんなありきたりの話さ。べつに特別な話なんて、何もしなかった。

 それで、アパートに帰ってきてから、じつは、あることに気づいたんだ。僕は今でも、久美に惹かれてるのかもしれないなって。彼女のこと、もう諦めたつもりだったんだけど、もしかしたら、まだ彼女に未練を持ってるかもしれないって。そういう自分の気持ちに、気づいたんだ」

 そこまで話をして、僕は香織の顔を見た。

 彼女の顔に、感情の動きは表れていない。

「それで、こんな気持ちのまま、君とつき合い続けるっていうのは、もしかすると君を騙すことになるんじゃないかなって、そう思ったんだ。不誠実なんじゃないかって」

 僕は、またひと息ついた。

「それで、色々と悩んで、僕は、君とのつき合いをやめるべきだろうって考えた」

 香織は、その無表情を変えようとしない。

 僕は、「ゴメンね、申し訳ない」と言いながら、香織に向かって深く頭を下げた。

 香織が、わかったよと言ってくれるまで、いつまでも頭を下げているつもりだった。

 三十秒くらい過ぎた頃だった。突然、老婆のような低く嗄れた声が聞こえた。

「嘘言うんじゃない。本当のこと、言いなさいよ!」

 憎悪がこもった声音だった。

「私と別れたいのは、ホントはそんな理由じゃないんでしょ!」

 僕は、俯いてた頭を、ゆっくりと上げた。

 見ると、人形のように整った香織の顔つきが、大きく崩れていた。眉は吊り上がり、両目は大きくギョロリと見開いている。小さく開いた口から、赤い舌先が覗いて見えた。

「ホントは久美から、私の昔の話を聞いたんでしょ。そうなんでしょ。だから、私が嫌になったんでしょ!」

 香織の口から、老婆の声が吐き出される。なにか別のものが、香織に取り憑いて、喋らせてる。そんな感じだった。

 僕は、何も言えないまま、小さく首を横に振った。

「私が、たくさんの男子とつきあってたとか、妊娠して高校を休学したとか、病院に入院してたとか、そんな話を聞いたんでしょ。だから、私に嫌気がさしたんでしょ!」

「そんな話、久美から聞いてないよ」

 僕は、素知らぬふりで答えた。

「また嘘ついてる。私には、ちゃあんとわかってるのよ!」

「久美から、君の昔の話は、何も聞いてないよ。僕は、ただ自分の正直な気持ちに気づいて、これ以上君とは付き合えないって思っただけなんだ」

「そんなデタラメ、言っても、ちゃんと私にはわかるよの!」

 大きく見開いた黒目が、くるりと裏返って白目になった。

 香織は、ヒィーっと、獣のような高い唸り声をあげると、不意に両手で顔を覆い、低い声で泣き始めた。

 僕は、呆然としながら、ただイスに座っていた。彼女の中で、いったい何が起こっているのか、まるで訳がわからなかった。

 十分ほど、香織は泣き続けた。

 泣くのをやめると、香織は、のっそりと顔を上げた。生気の抜けた、まるで死人のような表情だった

 香織は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。それから、自分のバッグを持ち、おもむろにドアを開けて、部屋から出て行った。