レフト・アローン (夢のかけら 2)

              1

「雪が降っているよ」
 僕と向かい合わせに座ってペンを動かしていたマンガ家の榎本さんが、窓の外を眺めながら、軽く溜め息をつくように言った。
 写植の陰画紙とハサミを持った手をそのまま机の上に置いて、僕も窓の外へ視線を移動した。
 暗い闇の中を、綿毛のような白い雪が、フワリフワリと音もなく舞っていた。まるで濃密な闇の抵抗でも受けているかのような、ゆっくりとした雪の降り方だった。軽やかに舞い降りてきた雪が、静かに地面に落ちる。すると、また次の雪片が空の高みからゆっくりと舞い降りてくる。ひとつひとつの雪片を、指を差して数えることができるような静かで優しい雪の降り方だった。
 僕は、雪片が地面に触れる時の音が聞こえるような気がして、そっと耳を澄ましてみたが、闇の向こう側からは何も聞こえてこなかった。
「ちょっと休憩にしようよ。コーヒーでも飲まない?」
 そう言いながら、彼はペン先のインクをティッシュで軽く拭き取った。
「あと何ページくらい残っていますか?」
 僕は、右手からハサミを抜き取りながら彼に訊いた。
「まだペン入れをしていないのが一ページ残っているだけ。あと二時間もあれば全部仕上がるんじゃないかな」
 彼はそう言いながら壁の時計を見上げた。重り式のハト時計の針は、一時四十分少し前を差していた。僕たちは、夜の八時から殆どぶっ通しで六時間近くも仕事をしていたことになる。
「だいたいめどがつきましたね」
 そう言って、僕はイスに座ったまま大きく伸びをした。
「もう二度と、こんな仕事の仕方はしないぞと思いながら、いつもこんな風になってしまうんだ」
 彼は、少し苦笑しながら呟いた。
「ところで、杉本さんはクリープも砂糖も入れるんでしたよね」
「ええ、お願いします」
 彼は、素早くコーヒーとクリープと砂糖をカップに入れると、ポットから熱湯を注いで、僕の前に置いた。
 コーヒーを一口啜ると、後頭部にぼんやりと広がっていた靄がスッと退いていくのが感じられた。前日は、別なマンガ家の原稿取りでアパートに帰ったのが午前二時。そして今日は貫徹だ。もう一人原稿の遅れているマンガ家がいて、そちらが終わらなければ仕事は一段落しない。睡眠不足で体は多少まいっているけれど、気力の方はそれほどでもなかった。
 以前、編集プロダクションで働いていた頃、毎月一週間くらいは入稿で徹夜状態が続いたものだった。入稿が終わる頃には体も心も絞り切った雑巾のようにボロボロになっていた。アパートに帰り、一昼夜死んだように眠る。そして燃えカスのような気力だけに縋って、再び起き上がる。そんな繰り返しが二年半程続いた。
 それが今の会社に移ってからは、一ケ月に徹夜が一度あるかないかだ。以前と比べると遥かに楽だった。
「ねえ、杉本さん」
 彼はコーヒーを啜りながら何気ない口調で言った。
「杉本さんは何か書いたりしていないんですか?」
(えっ?)と僕は心の中で絶句してから、彼に何と返事をしようかと迷った。
「何となくそんな気がするんですけどね」
 彼は独りごとを言ってるかのように静かに話し続けた。
「杉本さんの目って、なんて言うのかな、怒りというのか憤りというのか、何かそんなものが漂っているんですよね。それで、僕の感なんだけれど、何か書いたりしているんじゃないかなって気がしてたんだけど……」
「僕は、そんな目をしていますか?」
「ええ、なんとなく感じるんですよね……書いてませんでした?」
「いや……僕なんて、詩みたいなものを気紛れに書きなぐっている程度で、何か書いてると言えるような代物じゃないですよ」
 僕はやや当惑しながら、どのように言葉を続けたらいいのか考えていた。
 彼が、僕の目から『憤り』や『怒り』を感じ取ったというのは、あるいは彼の指摘した通りかもしれない。
 昨年の秋に、僕は二年半ほど勤めた編集プロダクションを辞めて、今の会社に移ったのだった。その頃、僕は大手出版社の言いなりのままに雑誌の編集をすることに耐え切れないほどの限界を感じていた。自分たちの考えとかアイデアはほとんど不要で、出版社の編集長や副編の言うなりに僕たちは雑誌を作っているだけだった。いわば彼らのロボットのようなものだ。睡眠不足と精神的な重圧で心も体もへとへとだった。毎日毎日、身を削るような思いで僕たちがしている仕事はと言えば、中学生相手のアイドル雑誌に過ぎなかった。僕の精神状態は、もうこれ以上引っ張れない程に伸び切ったゴム紐のようだった。『パチン』と弾けて、切断される寸前のところまできていた。
 ちょうどそんな時、SF小説の月刊誌やマンガ季刊誌を発行している今の会社の編集長に出会った。たまたま仕事で知り合った人が彼に紹介してくれたのだった。編集プロダクションではなく、普通の出版社で働きたいという僕の希望と、ちょうど編集者が一人辞めて欠員が出ていた会社の事情が一致してスムーズに僕の転職は決まった。
 もう出版社の編集長や副編の言葉にピリピリと神経を尖らせながら仕事をしなくてもいい。彼らの言う事に黙って頷き、働きバチのように脇目も振らず働かなくてもいい。これからは自分が企画を練り、自分で編集した本が自分の会社から出るんだ。そう思っただけで胸がわくわくした。
 でも、その出版社は僕が描いていたような理想郷でも何でもなかった。月刊のSF小説誌は売り上げ部数が1万部にも達せず、作家やマンガ家に支払う原稿料は何ヵ月も遅れ、社員に支払う給料が精一杯の経営状態だった。東販や日販などに雑誌を納入した時の仮払い金を次の号の印刷代に回すことで何とか雑誌の発行が続けられていた。いわゆる自転車操業ってやつだ。僕は、そんな会社の事情など露ほども知らないで入社してしまったのだ。
 自分のアイデアを発揮して自由に本を発行するなんていう状況ではなかった。原稿料を支払わずに、どれだけ長い期間、作家達に作品を発表し続けてもらうかがその会社の編集者の主な仕事だった。編集部には僕を含め、六人の編集者が働いていたが、部屋の中には活気など感じられず、いつも暗い雰囲気に沈んでいた。
 結局は、転職によって多少の環境の変化はあったものの、僕自身の精神的な閉塞状況には何の好転もなかった。ある意味では、以前よりも悪化しているくらいだった。僕は自分の考えの甘さと運の悪さと、そして僕を取り巻くあらゆる状況に呪わしいほどの腹立ちと諦めを抱え込んだまま毎日を送っていたのだった。
 そんな僕の精神的状況を、榎本さんは感じ取ったのに違いなかった。でも彼に何と言えばいいのだろう。彼は一定の地歩を確立したマンガ家で、僕は倒産寸前の弱小出版社にダニのようにすがりついているただの編集者にすぎなかった。
 様々な思いや感情が、僕の胸を通り過ぎていった。僕は曖昧な笑いを口許に浮かべたまま、何も言わずにコーヒーを啜った。
 しばらくして再び彼が口を開いた。
「ハングリー精神って、今の時代にはもうないような言い方をされるけど、何かを遣り遂げる人って、やっぱりハングリー精神を持っているんだよね。ハングリー精神というのは言い換えれば、今の自分自身に満足できないってことでしょ。今の自分や自分を取り巻く状況に満足できないという負のエネルギーが詩や小説を書かせたりマンガを描かせたりするんだよね。たとえ上手く書いたとしても、根っ子にそういうものを持ってない人の作品って他人の心は打たないと僕は思うんだ。……そういうハングリー精神を杉本さんは持っているような気がするんだけれどな」
「不満はありますよ……いっぱい」
「その不満をバネにして書けばいいんですよ。書いていれば、いつか誰かが必ずそれを認めてくれます」
「ええ、そうだといいんですけれどね」
「杉本さん、諦めちゃダメですよ。絶対に諦めないこと。そうすればきっと日の目を見る時がきますよ、絶対に」
「……ええ、でもやっぱり才能ってあるでしょう。僕には他人よりも優れた才能なんてないですよ。東京で働くようになって、それが痛いほどよく分かりました。僕より能力のある人間が掃いて捨てるほど沢山いる」
「でも、人の心を感動させるのは才能ではないでしょ。その人の中にある気持ちですよ。文章は下手でも、画は下手でも、人の心を感動させる作品を創っている人は沢山いるじゃないですか。杉本さん、とにかくあきらめないで書き続けることですよ」
「ええ」
 どうして彼が僕を励まそうとしているのか、その理由が僕には分からなかった。分からなかったけれど、彼の言葉ひとつひとつが僕の心を強く揺さぶっていた。
「榎本さんは、自分の好きなマンガで食えるからいいですよね」
「でも僕みたいに一部のマニアにしか名前が知られていないようなマンガ家は最低限の収入しかありませんよ。大友君みたいに有名になってしまえば別だけれどね。カミさんの収入があるから、どうにか人並みに生活しているけれど、僕の収入なんてほんとうに微々たるもんですよ。でもマンガは好きだから、お粥食べながらでもマンガは描き続けたいと思っています。ただし描くからには、人の心に何か自分のメッセージを伝えるような作品を描きたいと思う。僕は、ただ単に収入のためだけの作品は描けないんです」
 彼ほどの確固とした信念があれば、あるいは才能なんて二の次なのかもしれない。でも自分には彼ほどの信念もありはしない。僕には文学的な才能もなければ、それを補うほどの強い意志もない。
 結局、僕は自分の夢を追い求めることよりも、ただ単に収入の安定した生活を追い求めているだけなのかもしれない。
「とにかく杉本さん、頑張りましょう。人生なんて全力でぶつかっってみないと、どんな道が開けてくるかわからないものですよ」
 彼はカップに残ったコーヒーを飲み干すと、マイルドセブンに火を点けて、深く煙を吸い込んだ。
「ねえ榎本さん、あなたにとってマンガとは何ですか?」
 僕もマイルドセブンに火を点けながら彼に訊いた。
「芸術……って答えたいところだけれど、食っていかなくちゃならないという大前提があるからね。でも、メシのたね……とも言いたくはない。単にメシのたねに過ぎないんだったら、もっと金になる商売はいくらでもあるでしょう。だから僕は、マンガは僕自身の生活そのものだと定義しているんです。メシのたねでもあり、自分を表現する手段でもあり、自分と社会を繋ぐ絆でもあり、そして自分にとっては最大の課題でもある」
「最大の課題って?」
「逃れられない運命だということですよ。駄作であろうが失敗作であろうが自己嫌悪に悩まされようが、描き続けるしかないってことです。描き続けることが僕の使命なんです。マンガを描くことは好きだけれど、いつも楽しんで描いている訳ではないってことですよ。時には悶え苦しみながらアイデアを練ったり、ペンを走らせたりしているっていうことです。でも、それが僕にとってのマンガなんです」
 彼はそこまで一気に喋ると、自分の言いたいことを全て話し終えたとでもいうような微笑を口許に浮かべ、再び大きく煙草の煙を吸い込んだ。それから灰皿に火を押しつけて消した。
「さて、もう一息頑張りますか」
「ええ」と答えて、僕は窓の外を眺めた。
 雪は先程と同じように、闇の中を静かに優しく降り続いていた。家の前の狭い庭先の木々はすっかり雪に覆われ、小さな雪の丘がいくつかできていた。窓の光りに照らされた雪片が空気の抵抗を受けながらゆっくりと雪の丘の上に降り積もっていく。いつ終わるともなく舞い続ける雪が、暗い僕の心の底に音もなく降り積もっていく
イメージが脳裏に浮かんで、すぐに消えた。

 

              2

 彼の作品が仕上がったのは午前四時を少し回った頃だった。
 二十四ページ物のその作品のストーリィはざっとこんな内容だった。
 核戦争後の地球。大気を覆う厚い雲の層と、雪に覆われて荒れ果てた大地のせいで、僅かに生き残った人々も食料不足の前に絶滅寸前の状況だった。地上には植物の影もなく、大地にどんな種子を蒔いても決して芽を出そうともしない。雲のすき間から時折射す弱い太陽の光りでは、とうていどんな植物も育ちはしないのだ。
 そんなある日、生存者のコロニーに餓死寸前の旅人が辿り着く。彼は死ぬ寸前に次のような言葉を残す。核戦争時の影響で時空の裂け目が生じ、そこから魔族が地球上に復活してしまった。彼らは太陽光に弱いので、昼間は地底の洞窟の暗闇で休んでいて、夜になると地上に姿を現し、他のコロニーの人間たちを襲っているという。その彼らの洞窟に一本の木がある。それは彼らが暗黒界から持って来たもので、太陽光が弱くても成長し、その果実は人間でも食べることができ、栄養価も高く、我々人間がこの荒れ果てた地上で生き残るためにはぜひとも必要だという。
 それだけ言い終えると、その男は魔族の洞窟の場所を示した地図を残して死んでしまう。
 コロニーのほとんどの者は彼の話を信じようとはしなかった。僅かに彼の話を信じる者もいたが、あえてその洞窟に出掛けて行こうなどと言う者は誰一人としていなかった。ただし、たった二人の人間を除いては。その二人とは、六十過ぎの初老の男と、まだ十歳にもなっていない彼の孫娘だった。もしも旅人の話が本当ならば、いつかは魔族がこのコロニーをも襲うようになるだろう。このままじっとコロニーに閉じこもっていても、どっちみち食料不足でみんな死んでしまうだろう。それならば少しでも生き残る可能性を求めて魔族の洞窟へ行き、その木の果実を取ってこよう。それしか我々人間が生き延びる道は残されていない。
 彼ら二人は出発する。途中、魔族に襲われて全滅寸前のコロニーを通り過ぎ、何日間かの旅の後にようやく彼らは目指す洞窟に辿り着く。二人は夜を待って、魔族が洞窟から出掛けて行った隙に、松明を片手に洞窟の奥底深く降りて行く。そしてついに彼らはめざす木を見つける。その木の果実をもぎ取り、急いで洞窟を出ようとした時、たまたま魔族の一人が戻ってきて二人は見つかってしまう。男は、孫娘を逃がすために自ら魔族の犠牲となって死んでしまう。泣きながら、ようやく洞窟を出た少女の前に上空から眩い光りが降りてくる。その光りはコロニーに辿り着いた旅人の姿となって彼女の前に立ち、次のように言う。『我々神族は、人間たちが奢り高ぶる姿をずっと以前から眺めてきました。そして遂に人間は核戦争を引き起こし、自らの首を絞めてしまいました。僅かに生き残った人間たちも自分たちの行為を反省する様子もなく、そのまま死滅するのをただ待っているだけでした。でも、もう一度だけ生き残るチャンスを与えたいと思い、私は旅人という姿を借りてあなた達の前に現れたのです。あなたが魔族から持ってきた果実の種子をコロニーに持ち帰り、地面に植えなさい。種はすぐに芽を出し、やがて大きな木に成長するでしょう。その木には現在生き残っている全ての人類を賄うだけの果実がなる筈です。ただし魔族も、その勢力を伸ばしています。じっと待っているだけでは、人類は魔族に滅ぼされてしまうでしょう。あなたの勇気をまわりの人達と分け合って魔族と戦って下さい。そうすれば、あるいは人間たちにも生き残れる可能性があるかもしれません。健闘を祈っています』
 彼女がコロニーに持ち帰った果実の種子を地面に植え、そこから芽が出るシーンで彼の作品は終わっていた。
 消しゴムも入れ、セリフの写植も張りつけて完成した彼の作品を読み返してから僕は言った。
「短編にしておくのはもったいない物語ですね。もっと細かく描き込んで、この続きも描けば何百ページにもなる長編になるんじゃないですか」
「かもしれません。でも、それは他のマンガ家さんがやればいい。僕は自分のテーマが読者に伝わればいいと思っているんです。この作品をただのエンターテイメントとして読んでくれてもいいし、あるいは僕からのメッセージとして受け取ってくれてもいい。すぐに忘れられても仕方がないけれど、僕が手渡したメッセージの続きを
、その人の中で育てていってくれればありがたい。それだけです」
 彼は作品を仕上げた後の満足感に浸るような柔らかな口調で言うと、深く煙草を吸った。
「そうかもしれませんけれど、でも、もったいないですよ。これだけテーマがしっかりしているのに」
「杉本さん、もうそれ以上言わないで下さい。たとえもっと描きたいと思ったとしても、連載の注文がこないことには続きの描きようがないでしょう。僕みたいなところに連載の注文なんてこないんですよ。それが現実ってものですよ」
「でも……本当に残念だな」
 僕は何かいい方法がないかと思いめぐらせてみた。
「僕のところは季刊誌だし、毎回二十四ページずつだとしても、完結するまでに何年もかかるかもしれないですね。でも榎本さんがそれでもいいと言われるんでしたら、小野寺さんか曽我さんに頼んでみますよ」
「杉本さん、もう勘弁して下さいよ。これは短編のつもりで描いたものだから、急に連載にするといったって無理だし、それに僕の連載は小野寺君も曽我さんも『うん』とは言わんでしょう」
 小野寺さんというのは、僕と一緒にマンガ季刊誌を編集している三十過ぎの男だった。彼は、季刊誌の執筆者を決めたり、記事の内容を考えたりと、実質的には編集長のような仕事をしていた。原稿料も支払えない状況で、季刊誌を発行し続けているのは彼の力量に負うところが多かった。ただし一緒に何カ月も仕事をしているのに僕と親しくなろうという態度も見せず、どんな人とも一定の距離以上に近づこうとしない冷たいところがあった。
 それから曽我さんというのが、僕の会社の編集部の編集長で、これが実は大いに曲者だった。早稲田を卒業してから、この業界に入り、前の会社で営業を担当していた現在の社長と出会い、二人でこの会社を設立したという話だった。ビールに焼けたような赤ら顔に黒縁のメガネをかけ、いつもニタニタ笑っている。そして時折、息で喉が引きつったような笑い声を上げる。最初の印象では理解力もあり、心の広い人に見えたが、一緒に働いてみると時々ヘビのような目付きで人を凝視めることがあった。実際に性格もヘビのような偏執的なところがあった。僕と入れ違いに辞めていった編集部員の宮田さんというのが、実は曽我編集長に会社から追い出されたという噂だった。曽我編集長の了解を得た上でSF映画に関する本を編集し始めたが、内容の一部で曽我編集長と宮田さんの間で意見が食い違うことがあった。二人は何度か話し合って、結局は宮田さんの考え通りに進むことに落ち着いた筈だった。ところが内心、曽我編集長のプライドが許さなかったのかもしれない。ある日突然、宮田さんの机を書庫に移し、そこで一人で仕事をさせた。宮田さんとしては会社にもいずらくなり、その本が発行されると同時に辞めてしまったという訳だった。『自分の思い通りに部下が動かないからといって、黙って机を書庫に移すような方法で辞めさせるなんて、やり方が陰険で汚いと思わない?』と小野寺さんが酒を飲みながら僕に語ったことがあった。
「とにかく、二人に榎本さんの連載については頼んでおきますから」
 僕は、そう言って帰り支度を始めた。皮ジャンパーを着て、首にマフラーを巻き、肩からショルダーバッグを掛けた。そして榎本さんの原稿をビニール袋に包み、それから茶封筒に入れた。
「原稿、ギリギリになって申し訳ありませんでした。小野寺君にもそう伝えておいて下さい。それから前の号の原稿料、そろそろ戴きたいんですけどと彼に伝えておいて下さい。お願いします」
「分かりました。大至急お支払いするように伝えておきます」と僕は何気なく返事をして玄関に向かった。
 でも、多分彼に原稿料が支払われることはないだろうと僕は思った。僕たちは、人から原稿を騙し取って雑誌を発行している詐欺師なのかもしれない。哀しいことだけれど、それが今の僕たちの姿なのだ。
 それこそ榎本さんの連載の話だって、早く原稿料を払わなくては彼の方から断ってくるかもしれない。あるいは彼のような良心的な人には、もうウチの雑誌に作品など描いてもらわない方がよいのかもしれない。そう思うと、どうにも遣り切れない暗い気持ちになってきた。
 榎本さんが、奥の部屋のドアをノックして「おい、杉本さん、帰るよ!」と大きな声で怒鳴った。
「起こさなくてもいいですよ。奥さん、昼間は働いているんでしょう?」
「そんなことは関係ないです。編集者の方がわざわざ朝まで仕事を手伝ってくれたのに、その人を見送らんという妻はいないでしょう」
 そう言うと、彼はもう一度、奥に向かって怒鳴った。
 まもなくドアを開けて、まだ半分眠っているような顔をした彼の
奥さんが、ガウンを羽織り、ほつれ毛を手で撫ぜながら出てきた。
 榎本さんの奥さんというのは、彼のマンガファンだったのがきっかけで彼と結婚したという話を聞いたことがある。彼女がまだ大学生の頃に榎本さんと出会い、親の猛反対を押し切り駆け落ち同然で結婚したという。沢口靖子のような目鼻立ちのはっきりした美人で、以前、詩集を二、三冊出したこともあるということだった。でも今は子育てと昼間のパートに追われていて詩どころではないらしい。彼女ほどの器量と才能を考えると、今の暮らし振りは彼女にとって幸せなのかと思うけれど、これも彼女が自分自身で選んだ人生なのだろう。
「私だけ寝ちゃってすいませんでした。……原稿、いつも遅くなって申し訳ありません。これからも仕事の方、よろしくお願いしますね」と、彼女は玄関の板の間に跪いた。
「余計な事、言わんでもいい」
 榎本さんがやや強い口調で言う。
「俺は時間がかかっても納得のいく作品を描きたいんだ。そのためだったら遅くなるのは仕方がない」
「ええ、榎本さんには、いつも素晴らしい作品を描いていただいています」と僕は、とりなすように言った。
「でも、締め切りに間に合うように原稿を完成させるのも仕事のうちでしょう。そうすれば杉本さんに、こんな夜中までお付き合いしていただかなくても済むのに……」
 彼女は榎本さんに言い返すというよりも、独りごとのような淡々とした口調で呟いた。
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
 そう言って、僕は玄関のドアを開けた。これ以上、夫婦の会話を聞いているのは遣り切れなかった。
「あら、まだ電車の時間には少し早いんじゃないですか」
 彼女は、部屋の掛け時計を振り返って見上げた。
「五時過ぎまで、あと三十分ほどここで休んでいかれたらよろしいですよ。まだ始発電車の時間には間があるわ」
「そうだ、杉本君、コーヒーでも、もう一杯飲んでいったらいいよ」
「ええ……でも、駅まで歩いているうちに、すぐに五時くらいには
なってしまいます。やっぱりこれで失礼します。それじゃ、また」
 そう言って、僕は玄関の外に出て、ゆっくりとドアを閉めた。

 

              3

 外に出ると、もう雪は止んでいた。歩き始めてみると、雪はブーツの踵よりもやや深く積もっていた。僕は滑らないように小さな歩幅でゆっくりと歩いた。雪を踏む度に、靴の下で雪がキュッキュッと鳴った。
 空は真っ暗で、まだ夜明けまでには程遠いようだった。積もった雪が音を吸収するためなのか、あたりは深い静寂の底に沈んでいた。暗闇の中で、キュッキュッと雪の鳴る音だけが僕の耳に届いてくる。それ以外は何も聞こえてこなかった。
 榎本さんの家は、青梅駅から歩いて三十分程の丘の中腹にあった。あたりは塀に囲まれた住宅街で、ここに住む人はみんな東京に通うサラリーマンだという話だった。片道一時間半か二時間くらい覚悟すれば、都内のどこにでも行くことができるからだ。
 遠く東京の方を眺めると、低く垂れ込めた雲が街の光りに照らされて青白く染まっていた。その青白い反射光を眺めていると、東京の喧騒が聞こえてくるような気がした。
 人が溢れるほどに氾濫しているのに僕を孤独にさせる街・東京。雑音と喧騒に溢れ返っているのに、何もない街・東京。その東京の明かりが雲に反射して見える。あの明かりを目指して、蛾の群れのように沢山の人が東京に集まってくる。僕も、そんな蛾の一羽だったのかもしれない。実際に来てみると、東京なんてマスコミによって作られた蜃気楼のように実体のない街だということに気付く。でも、いったん始めた東京の生活はすぐに止める訳にもいかず、こんな筈じゃなかったと思いながら、時の中に流されていく。そうして三年が経ってしまった。
 そんなとりとめのない事を考えながら僕は誰も通らない雪の道を歩いた。街灯は所々にしか点いていなかったので、通りはほとんど暗闇に近かった。歩くにしたがって、体の奥から少しずつ温まってはきたが、手や指や耳などの寒気に晒された部分は、だんだんと痺れるほどに冷たくなっていった。
 まもなく細い通りを抜け駅に通じる広い街路に出たが、ほとんど車の影はなく、時折タクシーが雪煙を舞い上げながら遅いスピードで通り過ぎていくだけだった。僕は、雪に滑らないことだけを考えて駅に向かって歩いた。
 青梅駅に着いたのは、まだ五時前だった。駅の近くの線路の上を、赤い炎がところどころで揺れていた。僕は立ち止まって、それらの火を眺めてみた。火が燃えているのは、ちょうどレールが分かれていく分岐点のあたりだった。レールのポイントを凍らせないために火を焚いているのかもしれない。
 駅の待合室に入るとすでに十人ほど始発の電車を待っている姿があった。マフラーで肩から顔まで覆い、大きな風呂敷包みを持った中年の婦人。黒いオーバーに黒いズボン、そして黒い長靴を履いた卸商風の男。髪をポマードできっちりと撫でつけ、ネクタイをしめてコートを着込んだサラリーマン。それぞれが全く別な服装をし、別な目的で始発の電車を待っているようだったが、みんな一様にまだ眠たそうな薄い目を開けていた。そして寒さのせいか、自分の座ったイスに石膏像のように静止して座っていた。
 僕は電車の時間を電光板で確認してから、氷のように冷えきったイスに腰を下ろした。足を組み、両腕で体を覆うようにしたが、いっこうに冷えた体は温まってはこなかった。
 寒さで足が震え始める頃に、改札が始まった。ホームに出ると、すでに始発の電車が待っていた。電車に乗り込み、表面が白く擦り減ったイスに座ったものの、開け放されたドアから入ってくる冷気で、車内は外と同じくらい寒かった。イスの下に走るスチームのおかげで、かろうじてお尻の部分だけに火照ったような温もりが伝わってきた。
 僕は待合室でと同じ格好で、じっと電車が出るのを待った。時々、思い出したように乗客がドアから乗り込んで来たが、それでもひとつの長イスに二、三人くらいして座ってはいなかった。
 やがて、唐突にベルの音がホームに響き渡った。すぐに止みそうでいて、永遠に続くかと思えるほど長いベルの音が止むと、シューッと空気が抜けるような音がしてドアが閉まった。すると、突然ガクンと強い衝撃が車内に走り、その割にはゆっくりとしたスピードで窓の風景が横へ移動し始める。何度か電車が大きく揺れ、その度に僕の体は前後に揺れる。やがて一定のレールに乗ったのか、電車の揺れはおさまった。
 突然、バキッと電気がショートするような音が屋根の上から響いてきた。と同時に、窓外の暗闇に青白い閃光が走った。二、三秒を置いて、再びショート音と共に閃光が走る。電線に付着した雪と、電車のアンテナとが接触する時に発生するショート現象のようだった。そのショート現象は、それから何度も起きて、その度に窓の外に青白い光りが走った。でも車内の乗客は誰も特別な反応を示そうとはしなかった。みんな死人のように目を閉じ、電車の揺れにただ体を委ねているだけだった。
 僕の乗った電車が福生駅を通り過ぎる頃に、ようやく東の空に淡いオレンジ色の光りが射してきた。暗黒の空にルージュを引いたような淡い朝の光りだった。その光りは、だんだんと赤みを帯びてきたが、空を覆う雲にさえぎられて空全体にまで広がる様子はなかった。雲と街並みに挟まれたほんの少しの空間だけに、夜明けが近づいてきていた。
 車内は少しずつ暖まってはくるのだが、駅に着く度に大きく開け
放されるドアから入ってくる冷気で、すぐに寒くなってしまうのだ
った。
 立川駅を過ぎたあたりで、イスは人で満杯になり、やがて吊り革につかまって立つ人が現れ始めた。みんな一様に押し黙り、眠っている人から、朝刊を読んでいる人から、放心したように窓の外を眺めている人から様々だった。別な人生の同じ時刻に、たまたま同じ電車に乗り合わせている。ただ単にそういう事にすぎなかった。
 ちょうど武蔵小金井を過ぎたところで、街並みの彼方にオレンジ色の太陽が浮かび上がってきた。うっすらと白くかかった靄に下半分が隠された半円形の太陽は何の変哲もなく、まるで時刻表通りにやってくる電車のように、僕の心に何の情感も呼び起こそうとはしなかった。都会の太陽は、時間通りの電車と同じくらいの意味しか持っていないのかもしれない。
 昇りきった太陽は、まもなく東京の空に低く垂れ込めた雲の裏側へと消えて行ってしまった。
 三鷹駅で車内の三分の一くらいの人が降りた。そして、降りた五倍くらいの人が乗り込んできた。例によって開け放されたドアから入ってくる冷気に軽いいらだちを感じながら、僕はいつの間にかウトウトと眠ってしまっていた。
         *    *    *
 目が覚めた瞬間、『僕は、今どこにいて、何をしてたんだろう』という雲をつかむような疑問が胸の中に湧き起こった。それはとても簡単な疑問のようにも、一生答えることのできない疑問のようにも感じられた。そんな夢のような感覚がほんの一秒ほどあって、次の瞬間に僕は目を開けてあたりを見回していた。そして窓外の風景から、まだ新宿に着いていない事を知って僕はほっと安心した。
 時間にすると二十分足らずしか僕は眠っていないようだった。
 電車の中は、眠る以前よりも混んではいたが、まだまだ通路にはたっぷりと余裕があった。あと一時間もすると、身動きも取れない程に混雑してくる筈だ。
 新宿駅で、僕は電車から降りた。駅のホームを歩きながら、このまま新宿で時間を潰そうか、それとも一旦アパートに戻ってひと眠りしてこようか迷っていた。このまま新宿にいても二時間くらいは時間を潰さなくてはならない。アパートに戻って多少でも眠った方が、少しは疲れも取れるかもしれない。
 どうしようかと迷いながら僕は階段を降り、東口の改札を抜け、地下道に出た。
 アパートに戻ったとしても二、三時間ほど仮眠をとって、またすぐに出てこなくてはならない。だとしたら、どこかの喫茶店で本でも読んで時間を潰した方がいいかもしれない。今日の夜に最後の原稿が貰える予定なので、明日は昼頃までゆっくり寝ていられるだろう。
 このまま新宿にいよう。そう心を決めて、僕は地下道から階段を登って外に出た。
 厚い雲のせいで街はまだ薄暗く、舗道の水銀灯には白い明かりが燈っていた。まだ人も車もまばらで、新宿はようやく朝の眠りから覚めつつあるようだった。僕は、舗道の雪に足を滑らさないように慎重に歩いて、いつも行く喫茶店に向かった。
 その喫茶店は丸越デパートのすぐ脇にあり、三階建で店内も広かった。朝早くから夜中まで開いているので、僕は以前から人との待ち合わせや時間潰しなどによく使っていた。店内が広いので満席になることもほとんどなく、長時間でも気を使わずにいられるのが、僕は気に入っていた。
 僕は一階の奥の窓際の席に座った。そしてモーニング・セットを注文してから、カバンの中から本を取り出した。それはフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』だった。映画『ブレードランナー』は、映像では驚くような新鮮味が感じられたが、ストーリー自体はそれほど面白くはなかった。でも会社の本棚でその原作を手に取って読み始めてみると、まるで悪夢を見ているような不思議な現実感が非常に魅力的だった。
 僕はコーヒーを啜りながら、いつしかディックの描く悪夢の世界に没入していた。
 気が付くと、九時を過ぎていた。僕は本を閉じてグラスに残った水を飲みほした。それから煙草に火を点けた。物語の中の、十字架を背負い投石を受けながら丘を登る男のイメージが、妙に生々しく脳裏に焼き付いていた。
 窓の外を眺めると、いつの間にか青空が広がり、街には人も車も溢れ返っていた。舗道の雪は足跡のあたりから次第に融け始めていた。
 融けかけた雪が太陽の光りを反射してキラキラと輝き、その眩しさに目が痛くなるくらいだ。
 僕は、雪が融け始める北海道の春先の景色を、なぜか急に思い出していた。遥か彼方にまで広がる雪原のあちこちから土の色が顔を出し、明るい陽光が水溜まりに反射して眩しい。頬を通り過ぎていく風は生温く、春の薫りがする。
 僕の心は、そんな故郷の春の中を漂っていた。

 

              4

「西映動画に行って、これ貰ってきました」
 そう言いながら、僕は曽我編集長の机の上に、広報用のデュープ・スライドを二十枚ほど置いた。
 新宿の喫茶店を出てから、僕は西映動画の広報課を訪ねた。前の会社で働いていた時にアニメのページを担当していた関係で、広報課の担当者とは顔見知りになっていた。
 西映動画では春休みに長編オリジナルSFアニメを上映することになっていて、その映画の本を出すという企画を僕は練っていたのだった。
「何だい、これは?」
「西映動画が春に上映する予定の『銀河大戦』の宣伝用スライドです。今朝、新宿の広報課から貰ってきたんです」
 僕はスライドのいくつかを手で持ち上げて、曽我編集長が透かして見られるように窓側に掲げた。
「だから、これが何だって言うんですか?」
 彼は、張りついたような笑みを口許に浮かべたまま、スライドを見ようともせず、立っている僕を下からじっと凝視めた。
「ですから、先日ちょっとお話したように『銀河大戦』の本を出したいと考えているんです。でも、他の会社と同じような本を出しても面白くないので、紙芝居くらいの大きい判の紙にバラバラに印刷してはどうかと思うんです。そうすれば読者が気に入った絵を、ポスターのように壁に張って楽しむこともできます。裏側はストーリーだとかキャラクターだとか制作者のコメントなどの読み物にすればいいと思うんです。普通のアニメの本は、どうしても絵が小さくなってしまうのが難点です。気に入った作品は、やっぱり大きい絵で身近に持っていたいというのがファンの心理じゃないでしょうか?」
 そこまで説明して、僕は曽我編集長の返事を待った。
「君が西映動画から持ってきた、このスライドは一体何かね?」
「これは、どんな映画なのか曽我さんの参考になればと考えて貰ってきたものです。よければちょっと見て下さい」
「君ね、こんなもの見たって、どんな本を作るのか、参考になんかなりゃしないじゃないか」
 彼は不満そうに言うと、机の上の湯飲みを持ち上げてお茶を啜った。それから僕を小馬鹿にするような薄笑いを浮かべて、僕を見上げた。
「ところで、この『銀河大戦』って映画はヒットしそうかね?」
 彼は、相変わらず僕が手に持っているスライドを見ようともせず、僕を嘲笑するようにニタニタと笑った。
「それはどうでしょうかね。はっきりは分かりませんが、特別ヒットするという程ではないと思いますけど」
 それまでに僕が知り得た限りでは、この『銀河大戦』はそれほどヒットする様子は窺えなかった。でも、それは実際に蓋を開けてみなければ分からないものだ。だいたいアニメなんて、いい作品だからヒットするとは限らない。それほど出来がよくなくても大当たりして、逆に制作会社がびっくりすることだってあるのだ。誰が、上映前からヒットするとか、しないとか言えるだろうか。
「じゃあ、君が企画しているこの本は、かなり売れそうかね?」
「映画が、どの程度当たるかにもよりますけど、普通くらいには売れるんじゃないでしょうか。とりあえず最初の発行部数は2万部くらいではどうかと考えています。でも、どれくらい売れるかは、はっきり分かりません」
「はっきり分からんなんて、そんな言い方はないだろう!」
 彼は、急に大声を張り上げると、僕を怒鳴りつけるような勢いで話し続けた。
「だいたい君が企画している本じゃないか。会社の金を借りて本を出すってことを君はどう考えているんだ。本の売り上げが悪くて赤字になったら、誰がその赤字分を負担するんだ。君が給料から払ってくれるのかい。本を企画するんだったら、もっとそのあたりまで真剣に考えてから僕に相談してくれ。だいたいこんなスライドなんか貰ってきたって何の役にも立ちゃしないんだよ」
 彼は左手で机の上のスライドを払いのけると、プイと机に向かってしまった。
 僕はそのまま曽我編集長の横に立っていたが、彼は僕のことなど眼中にないかのような様子で、手帳を取り出すと何かを書き始めた。僕は仕方がなく自分の机に戻ることにした。
 ひと月ほど前に、僕は別な企画を出してボツにされていた。それは、谷川一彦というマンガ家の単行本を出すという企画だった。谷川一彦というのは反体制的なバイオレンス作品で一時大活躍したマンガ家だった。最近は、田舎に引っ込んで目立った活動はしていないが、彼の作品でまだ単行本になっていないものがあったので、それをまとめたいと僕は考えていた。でも彼の本を買う人はかなりのマニアだと予想されるので、発行部数を限定し、一冊当たりの単価を上げて出版するしかないと僕は考えていた。そうすれば充分に元は取れる筈だった。
 その時、曽我編集長は「そんな売れるかどうか分からない本じゃダメだね。杉本君、もっと沢山売れて、会社が儲かるような本を考えてもらいたいんだ」と、僕の企画など鼻から受け付けようとはしなかった。
 それで今回のアニメの企画になったという訳だ。それが、あの編集長の態度は一体どうなっているんだ?
 彼の怒鳴り声で一瞬たじろいでしまったが、時間が経ち気持ちも落ち着いてくるにしたがって、だんだんと腹が立ってきた。
 先日、この新しい企画の話をした時には、「その案、もう少し細かく詰めておいてくれ」と言っておきながら、今日のあの態度はいったい何だ? それに、少しでも『銀河大戦』のことを知って貰おうと思って西映動画まで行ってスライドを取ってきたのに、見もしないなんて、いくら編集長でも傲慢すぎる。売れるような本を考えろと言うから僕なりにアイデアを練った上で、曽我編集長に相談しているんだ。これ以上、どうやって売れる本の企画を出せと言うんだ?
 考えれば考えるほど益々腹が立ってきた。
 そもそも何でもいいから売れる本の企画を出せという、あの態度は何だ? 本は売り上げがよければ、それでいいのか。そんなに金が欲しければ、エロ本でも何でも出せばいいんだ。だいたい僕は、最初から今回のアニメの本は乗り気じゃなかったんだ。あんな本、出版できなくて、却ってよかったくらいだ。
 気がつくと、目の前の灰皿に火の付いたタバコが一本。そして右手の指に挟んだ煙草からも煙が上がっていた。それを見て、僕はプッと吹き出してしまった。そして、俺ってアホだなあと心の中で苦笑すると急に心が軽くなってきた。
 こんなことでいつまでもくよくよ気にしていてもしょうがないと思い、顔を上げて部屋の中を見回した。いつの間にか、曽我編集長の姿が消えてしまっていた。
 僕は気を取り直して、夕方に原稿を取りに行く予定のマンガ家に電話を掛けることにした。呼び出し音が鳴り続けてもなかなか相手は出なかった。そして、もう切ろうかと迷い始めた頃に、ようやく相手が出た。僕はさっそく、予定の原稿のことを尋ねた。
「ああ、流星出版さんの原稿ねえ……ちょっと申し訳ないんだけれど、少し遅れているんだよねえ」
 相手は、困っている様子などないような機械的な口調で答えた。
「遅れているというと……あと何ページくらい残っているんでしょうか?」
「あと何ページかというと、えーっと二十ページくらいかなあ。けっこう残っているんだよね」
 相手の軽い言い方と二十ページという言葉を聞いて、一瞬心臓が縮んだ。そして急に脇のあたりに冷汗が滲み出てくるのを僕は感じていた。二十四ページ物の二十ページといったら殆ど出来ていないに等しい。十日前にセリフのネームが上がっていたので、あとはペン入れだけが残っているものとばかり考えていた。三日前に電話した時には、順調に進んでいるので今日の夕方には上がるだろうという話だったのだ。
「二十ページですか……。急いで仕上げるとして、いつ頃にはできるでしょうか?」
 絶望的な気持ちで、僕は尋ねた。
「そうだねえ、精一杯急いでやったとしても明後日くらいだろうかなあ」
「明後日ですか……」
 印刷所に原稿を入れる締め切りは、もう五日前に過ぎてしまっていた。三日前ほどからは、毎日二回も三回も電話が掛かってくるようになった。間違いなく今日の夜までに最終原稿も入れますと約束しておいたのだ。それが、あと二日も遅れるなんて……こりゃ、印刷所から見放されるかもしれないぞ。
「ところでねえ、前の原稿料、まだ戴いていないんだけれど、どうなっているんですか? 流星出版さんは季刊誌だから、いくら遅くても、もう支払ってくれてもいいんじゃないですか?」
 えらい所をつっ突いてきたと僕は焦った。
「えーっと、それは只今手配しているところなんですけれど」
「原稿料、払ってくれないところに、無理して作品を載せる必要なんてないんだよね、僕としては」
 こりゃ、要するに原稿料の催促だなと僕は直観した。もしかしたら原稿は仕上がっているのかもしれない。でも、どうする……?
「ちょっとお待ち下さい」
 僕は電話を保留状態にして、向かいに座っている小野寺さんに声を掛けた。
「小野寺さん。今、園田さんと話してるんですが、前の号の原稿料はどうなってるんだって言ってるんです。それで要するに原稿料、貰えないのなら今回の原稿もいつ仕上がるか分からない、っていうような言い方なんです……」
 机に向かって校正刷りを読んでいた小野寺さんが、ゆっくりと顔を上げて、どうしようかという表情をした。そしてきっかり三秒間、眉毛を寄せて上目使いに天井のあたりを睨んでから、「よし、その電話、俺が代わろう」と決断するように言って、受話器を取り上げた。
「もしもし小野寺です。その後、御無沙汰しています。『エポック』に載った先生の作品、読みましたよ。あれ、なかなか素晴らしい作品でしたね。今度、あんなやつをウチのにも描いてくれませんか。ところで今、杉本から聞いたんですけど前号の原稿料まだ支払われていませんか。原稿料の支払い明細書はとっくの昔に営業の方に回っているんですよね。さっそく営業に確認して、大至急支払うようにさせます。……はい、遅くなって大変申し訳ありませんでした。……ええ、間違いなく、すぐにご返事します。……はい、本当にすみませんでした。……原稿の方も、もう印刷所に入れる締め切りはとっくに過ぎておりますので……はい、よろしくお願いします。ではまた後ほど……はい、失礼します」
 受話器を置いてから、彼は大きな溜め息をついた。
「中堅マンガ家も、もうウチの雑誌では手に負えなくなっちゃったな。原稿料なんて貰えなくても作品を発表したがっている新人をもっと探さなくちゃ」
 彼は、独りごとのように呟くと、「ちょっと社長のところに行ってくるよ。とにかく何がなんでも、今すぐ原稿料を払って貰わなくちゃ、雑誌に穴が開いちゃうからな。編集長も社長も、月刊誌の方の作家連中には多少の原稿料は払っているくせして、こっちのマンガ家の方は、全然金を出そうとしないんだから」
 彼は、不満とも怒りともつかないような口調で言うと、やや緊張したようにドアに向かって歩いて行った。そして、ドアのノブに手を掛けようとした時、ドアが急に開いて曽我編集長が現れた。
「ちょっと社長のところに行ってきます」
 彼は、擦れ違いざまに曽我編集長に小声で囁いて、ドカドカと階段を踏み鳴らして降りて行った。
「何かあったのかね?」
 曽我編集長は、ちょっと怪訝そうな笑みを口許に浮かべて、編集部の部屋の中を見回した。そしてちょうどドアのあたりを見ていた僕と目があった。
「何かあったのかね?」
 今度は、明らかに僕に訊いていた。
「マンガ家の園田さんの原稿が遅れているんです。本当は、今日の夜に上がる予定になっていたんですけど、今電話したら、前回の原稿料が入らなければ、今回の原稿は渡せないというような口振りなんです。それで社長のところに原稿料を支払って貰うように頼みに行きました」
「ほう、園田さんの原稿料ねえ」
 彼は、自分には全く関係ないという軽い調子で言ってから、ゆっくりと僕のデスクに近づいてきた。そして僕のイスの横に立ち止まった。
「杉本君、ちょっと一緒に昼メシを食べに出ないかい?」
 彼は、僕をからかうような笑いを口許に浮かべて言った。
 彼が、部下を食事やコーヒーに誘う時は、何か話があるという事なのだ。僕は、不吉な予感が胸を横切るのを感じながら「はい」とだけ答えた。

 

              5

 僕と曽我編集長は会社から歩いて三分ばかりのところにある食堂に入った。そこは昼間はサラリーマン相手の昼食メニューを出し、夜は居酒屋に変わる、あまりぱっとしない店だった。昼のメニューは和食専門だが味の方も今ひとつなので、入社当時二回ほど昼食を食べにきて以来、一度も来たことはなかった。
 僕たちが入っていったのは、まだ正午前の時間だったので、薄暗い店内には僕たちの他に誰も客はいなかった。僕たちは小上がりの畳の上にテーブルを挟んで向かい合わせに座った。
 徹夜明けのせいか、あまりお腹は減ってはいなかったけれど、メニューを眺めて僕は刺身定食を食べることにした。
 お茶を運んでくれた女の人に注文を伝えると、曽我編集長がいつものように、やや人を小馬鹿にするような笑みを浮かべて最初に口を開いた。
「あれだね、杉本君は、あんまり編集者には向いていないようだねえ。最初は、もっとバリバリと仕事をやってくれるかと期待してたんだけど、ちょっと期待はずれだったかなあ。杉本君の欠点は、自分の意見を相手に納得させるまで自分を貫き通そうとしないところだな。すぐに相手の意見に合わせて、自分の方から折れてしまう。今日だってそうだよ。ああやってアニメの企画を出したのなら、編集長の僕が出版すると言うまで何としてでもねばらなくっちゃ。僕がちょっと反論したら、すぐに自分の企画を諦めてしまうようじゃ、これから編集者としてはやっていけないよ。こんな本を出そうと思ったら、何がなんでも編集長を納得させて発行してやるという気持ちにならなくっちゃ。あんな風にすぐに自分の考えを引っ込めてしまうようじゃダメだな。この前のマンガの本の時もそうだよ。この本をどうしても出したいと思ったら、どうにかしてこの僕を説得しなくっちゃ。絶対にこれくらいは売れます、と自信をもって言えるくらいじゃなくちゃダメだよ」
 彼はそこまで一気に言うと、湯飲みを持ち上げてちょっと中を覗き込むようにしてからお茶を啜った。そしてその湯飲みを両手で抱
えるように持つと、顔を上げて僕を凝視め、ニタリと微笑んだ。
「それでだ、君がウチの会社に来てから五ヵ月間、色々と君の仕事振りを見させて貰ったんだけれどね、結論として言えば、ウチの会社では君を正式に採用できないということになったんだ。今ね、社長と相談してね、そう決まりましたから……」
 彼はそこまで喋ると、再び大きな湯飲みからお茶を一口啜った。そして、またニタッと軽く微笑んでから口を開いた。
「それで、君をこのまま辞めさせようという話も出たんだけれどね、君にも生活というものがあるだろうし、このまますぐに首を切るのもかわいそうだということで、今やっている季刊誌の入稿が終わり次第、営業に移って貰おうということになったんだ。まあ考えてみればさ、編集者なんて勤務時間があってないような職業だし、意外と営業の方が仕事の区切りもはっきりしていて楽かもしれないよ。ただし編集者のようにジーンズ履いて歩き回るという訳にもいかないけれどね」
 そう言ってから、彼は手に持っていた湯飲みをテーブルに置いた。
「あれだね、君は以前、北海道で教員をやっていたという話だけれど、君を見ていると、案外そっちの方が合っていたんじゃないかねえ。それに君は自分で小説や詩を書いているとか言ってたけど、編集者なんてやっていたら忙しくて書く暇がないでしょ。それこそ学校の先生でもやっていた方が、小説を書く時間もあったんじゃないのかなあ」
 彼は、ニタニタ笑うと僕の顔を眺めた。
「曽我さんの話というのは、それでお終いでしょうか」
 僕は、できるだけ感情を押し殺した低い声で訊いた。
「うん、まあそういうことなんだけれど、どうだい、営業の方へは移ってくれるかねえ?」
 彼は、相変わらず人を小馬鹿にしたような笑いを顔に浮かべてい
た。
 僕は、彼の顔をじっと睨みつけながら、できるだけ機械的な冷たい口調で次のように言った。
「営業へは移りません。僕はこの会社に編集者として入ったんです。だから編集者として役に立たないと言うんでしたら、季刊誌の入稿が終わり次第、会社は辞めさせていただきます」
 そこまで言ってから、僕はひと息ついた。それから、今度はやや声を荒らげ、ひとつひとつ断言するように強く言った。
「それからですね、僕がどんな趣味を持っていようと、あなたには全く関係ないことです。それから僕の昔の職業についても、あなたにとやかく言われる筋合いは全くありません。僕は確かに以前、教員をやっていたことがあります。でも、それが曽我さんとどんな関係があるというんですか? 冗談じゃないですよ」
 僕は、じっと彼の顔を睨みつけた。
「もうこれで、お話がないのでしたら、お先に失礼します」
 僕は、刺身定食の代金をテーブルの上に叩きつけるように置き、靴を履いてそのまま店から出てきた。
 店を出た途端、抑えていた感情が急に込み上げてきて、目頭が熱くなった。僕は涙が目から流れないように、一歩一歩踏みしめて歩いた。
 心の中で渦を巻く怒りの感情で、胸が張り裂けそうだった。
 確かに、僕は自分の企画に対して、絶対にこれは出版するんだという強い気持ちは持っていなかったかもしれない。曽我編集長を何としてでも説得して本を出してやろうというほどの強い信念は持っていなかったかもしれない。でも曽我編集長の態度には、最初から僕の企画を受け入れようというところなど全くなかったのだ。僕は自分の企画を編集長に伝え、彼は発行できないと判断した。僕は、上司の考えに従った。ただ、それだけだ。その僕の態度の、いったいどこが編集者として失格だというんだ。だいたい僕を辞めさせる理由は、もっと別なところにある筈なんだ。本当は、もう会社には今の数の編集者を雇うだけの金もなくなったということなんだ。それで、まず最初の犠牲者が僕という訳なんだ。何が営業に移ってくれないかだ。僕が営業に移るなんて了解しないことが分かっているくせに。
 心の中で、曽我編集長に対する怒りの言葉を反芻しているうちに、いつの間にか僕は会社の前に来ていた。
 僕は改めて、この五ヵ月間通った会社の建物を眺めた。それは会社というよりは、木造の普通のアパートに過ぎなかった。その一階と二階の一部をまとめて借り、真ん中に階段を作りつけて、会社として使っているのに過ぎなかった。一階は社長室と営業部と倉庫に、そして二階の一室が編集部になっている。以前は二階にもう一つ別な部屋を借りて書庫として使ってが、今は普通の貸し部屋として中年の夫婦が入っている。経営の行き詰まりは部屋の数にも現れているという訳だった。
 大きな地震がくれば、すぐに潰れてしまいそうな木造アパート。でも、この会社だけが特にそうだという訳ではない。小学館だの講談社だの有名な出版社を除いて、ほとんどが似たりよったりの規模で、ささやかに経営されているのに過ぎないのだ。
 この業界で三年近くを過ごし、やっとこの僕にも出版界というものが分かってきた。そして、この僕に編集者の資質があるのか、ないのかということも、うすうす分かりかけてきたような気がし始めていた。
 曽我編集長への怒りと、将来に対する不安感を心に抱いたまま、僕は編集部に戻った。自分のイスに座ると、すぐに小野寺さんが声を掛けてきた。
「園田さんの原稿料の件はオッケーだ。すぐに電話して、なるべく早く原稿を貰ってくるように手配してくれないか」
 彼はそれだけ僕に伝えると、何事もなかったかのように、再び校正の仕事に戻った。
 僕は、彼に自分のクビの話を伝えようかと思ったが、彼は僕に同情を寄せてくれるほど、僕に親近感を持ってはいないだろうと考えて止めることにした。
 この会社の編集者は、お互いにビジネスライクで、クールなのだ。
 僕は、すぐに受話器を取って、園田さんに電話を入れた。そして彼に、原稿料をすぐに支払うことになった旨を伝えた。すると彼は何事もなかったかのような淡々とした口調で「じゃあ、今日の夜八時くらいに、僕の家に原稿を取りに来てください。用意して待っていますから」と答えた。僕も、何事もなかったかのように「それで
は、よろしくお願いします」と丁寧な口調で言って電話を切った。
 受話器を置いて、すぐに僕は小野寺さんに、今日の夜八時頃に園田さんの原稿を取りに行くことになったと伝えた。彼は、自分の仕事を続けながら、顔も上げずに「はいよ」とだけ答えた。
「ところで小野寺さん、今朝、榎本さんの原稿もらってきたんですけど、あの人のマンガ、連載にできませんかね」
 その言葉で、初めて彼は顔を上げた。それから、ややしばらく考え事をしているような焦点の合わない目で、僕の背中の壁を眺めてから、無関心そうな口調で言った。
「そりゃ止めた方がいいよ。彼の連載は危険だからね」
「危険、って言いますと?」
「最近は、榎本さんに連載を頼む出版社はどこにもないよ。この業界では有名な話があってね、三年ほど前のことなんだけど、彼は週刊マンガ誌にSF物を連載していたんだ。僕も読んでいたんだけれど、結構面白かったし人気もあったんだよね。それがある時、急に彼の連載が途中で終わってしまったんだ。それで後から聞いた話なんだけれど、実はストーリーに行き詰まっていたらしくて、編集者がアイデアを出したりしてなんとか続いていたらしいんだ。それが、もうこれ以上描けないと言って諦めてしまったらしいんだよね。彼には、そういう精神的に弱いところがあるから、連載は頼むなというのがこの業界の暗黙の了解なんだ。まあ、そういうことで、彼の連載は無理だと思うけどね。毎回、読み切りの短編を描いてもらっているのでいいんじゃないかな」
「そうですか……なかなかいい作品を描くんですけどね、残念だなあ。今朝もらってきた作品、本当にいい出来だったんですよ。彼の連載だったら、雑誌の売り上げもよくなるんじゃないかなと思うんですけどね」
 僕の言葉に、彼は何も答えようとはしなかった。そして、すぐに視線を机に移すと、何事もなかったかのように校正の仕事に戻った。
 もうこれ以上話すことはない。結論は出ている。そういう事だった。

 

              6

 結局、昼食は近くの喫茶店のカレーライスとコーヒーになった。ランチタイムをはずして行ったので、店の中は割に空いていた。
 陽の当たる窓の脇のイスに座っていると、温室の中にでもいるように暖かく、とても心地よかった。コーヒーを啜りながらP・K・ディックの小説を読んでいるうちに、文字が上下に揺れ始め、後頭部のあたりから靄がかかってきた。僕は、かろうじて本をテーブルに伏せて置き、イスの背凭れに寄り掛かって目を瞑った。瞑ったところまで覚えているが、その直後、僕は無意識の暗闇にストンと落下していた。
 僕は、白い雪原の中に立っていた。遠く雪原の彼方に、白い雪を被った山脈の青い影が連なっている。日差しは強く、その輝きは春の到来を感じさせる。あたりを見回すと、雪の融けた地面には、秋蒔き小麦の緑色の列が並んでいた。
 遠くで誰かが僕の名前を呼んでいる。振り返ってみると、里美がすぐ近くに立っていた。「バスが出ちゃうから、急がないとダメよ」と僕をせきたてる。乾いたアスファルト道路の上を、僕は里美と一緒に走る。「バスに乗り遅れると、大変なことになるのよ」何が大変なことになるのか、理由は分からないけれど僕は直観的に理解する。急がないと、とにかくダメなのだ。遠くにバスの影が見えてくる。もう少しで間に合うというところで、バスは動き出してしまう。バスの一番後ろの席で、里美が窓から顔を出して「杉本さんのこと本当に好きだったの。さようなら」と呟いていた。一緒に走っていた筈なのに、どうして里美だけがバスに乗っているんだろうと不思議に思っていると、僕の隣で曽我編集長が「君のやる気がないから、こういう事になるんだ」と言ってニタニタと笑った。「仕事も恋愛も同じ。要はやる気の問題だよ」何とかしてバスを追いかけなくてはならないが、体が思ったように動かない。どうして動かないんだと焦っているところで、目が覚めた。
 僕は、ガックリと首を垂れ、腕と足を組んだままの格好で眠っていた。目が覚めて僕はおもむろに顔を上げ、腕時計の時間を確認した。時計の針はまだ二時前を差していた。三十分くらいも眠っていただろうか。
 ぼんやりとした意識で、今見た夢の記憶をまさぐってみた。バスの窓から、悲しそうな顔で僕を凝視めていた里美のことだけが、僕の脳裏に強く残っていた。どうしてあんな悲しそうな顔をしていたんだろう。
 一年前に、声優をしていた里美に取材でインタビューをしたことがきっかけで僕たちは付き合い始めた。僕にとって里美は、恋人とか結婚相手というよりも、この東京という戦場で共に戦っていく戦友のような存在だった。彼女もこの大都会・東京の一角で頑張っているという事実が、いつも僕の心の支えになっていた。彼女と会って、お互いの苦労話をしたり、愚痴をこぼしたり、キスをしたり、体を重ねることで、僕は励まされ、再び戦場に出ていく勇気を与えられた。彼女の女性としての魅力にのめり込むということはなかったけれど、東京で生活している僕にとって、彼女はかけがえのない大切な存在だった。
 それにしても、あんな別れの夢を見るなんて、いったいどういう事なんだろう。何かの予知的な夢なんだろうか。それとも他の無意味な夢と同じように、単に偶発的に脳細胞が作り出したイメージの連続に過ぎないのだろうか。
 そんなとりとめのない事を考えているうちに、だんだんと現実感が戻ってきた。そして、僕はもうすぐ失業者になるのだということを思い出した。
『失業者』。そんな言葉なんて自分には縁のないものだと、ずっと信じていた。それが、突然自分の上に落ちてきた。他人の着古したオーバーを、突然僕のものだと言って渡されたような気分だ。袖はきついし、裾はちょっと長そうだ。それに胴回りはダボダボ。こんなサイズのオーバー、僕には合いそうもない。でも曽我編集長の一言で確かに僕のものになってしまった。
 社会からのはみ出し者。自分の働くべき場所がない。自分の席もない。『失業者』。
 これから先どうしようか。
 編集プロダクションに戻って、再び大出版社のロボットのように仕事をするのはもうゴメンだった。かと言って、経営状態の定かでない小さな出版社で、編集長や作家の機嫌を取りながら、売り上げだけを心配して仕事をするというのも気が進まない。
 編集とは全く別の仕事に就いてみるというのも僕には全く考えられなかった。だって編集という仕事をするために、親の反対を押し切ってまで、北海道での教員生活にピリオドを打ち、はるばる東京まで出てきたのだから。
 とすれば、これからどんな道があるというのだろうか。
 いくら考えても、名案は浮かんできそうになかった。
 暗い棚の奥に吊り下げられたあやつり人形のような気分のまま、僕はレジでお金を払って外へ出た。空は相変わらず抜けるように晴れ渡っていて、路面の雪は日陰の一部分の除いて、ほとんど融けてしまっていた。
 僕は、野良犬のような気分でブラブラと会社へ歩いた。
 編集部には、曽我編集長ともう一人、関根さんという女性の編集者しかいなかった。予定黒板を見ると、小野寺さんは原稿を取りに出掛けていて、夕方には戻ってくることになっていた。僕は自分の机に戻り、引き出しの奥からタオルを一枚取り出してショルダーバッグに突っ込んだ。それから予定黒板に『榎本原稿受け取り、帰社夜十時頃』とチョークで書いて、そのままドアに向かった。
 ドアを開けようとした時、曽我編集長の声が背中から飛んできた。
「ねえ、杉本君……」
 僕は彼の声を無視したまま、背中越しにドアを閉めた。それから階段を降り、玄関のドアから外に出た。
 僕は、会社から歩いて三分程のところにある銭湯に向かって歩き始めた。熱いお湯にでも浸かって心をほぐし、頭をからっぽにしてみたかったのだ。
 会社の前の道路を東に三百メートルほど下ってから、僕は立ち止まった。そしてきびすを返し、再び会社に向かって歩き始めた。
 玄関を入り、営業部の部屋を通り抜け、社長室のドアをノックする。
「杉本ですが……」
 もう一度ノックをしようとした時、「はい、どうぞ」と中から掠れたような声が聞こえてきた。
「失礼します」と言いながら、僕はドアを開けた。
「おう、杉本君かね」
 社長は、やや驚いたような表情で僕を見てから、慌てて立ち上がり、部屋の隅のテレビを消しに行った。
「いやあ、杉本君には本当にお世話になったね。まあ、ソファにでも座りなよ」
 彼は、片手で僕に座るように促しながら、自分から先に座った。
「いえ、ここで結構です」
「そんなこと言わずに、まあ座りなさいよ」
 彼は、ニコニコと微笑んでいたが、目が落ち着きなく動いていた。僕が、今回のことで何か文句でも言いにきたと考えて、不安に思っているのかもしれなかった。
 僕はソファの脇に立ったまま話し始めた。
「今日は、園田さんの原稿料を払っていただけることになって、どうもありがとうございました。お陰で、今日の夜に原稿を貰えることになりました。ところで、もう一人、同じような状態のマンガ家さんがいるんです。榎本さんって言うんですが、この人も今日の夜に原稿を取りに行く予定だったんですが、前号の原稿料が払えないなら、渡してくれないって言い出したんです。それで、何とか前号の原稿料を払っていただきたいんですけど……」
「えっ、何? エノモトさん?」
 彼は、慌てて、名前を繰り返した。
「はい、榎本秋生というマンガ家です。大至急、払っていただけな
いと、新しい号が予定通りに出せなくなるかもしれません」
「よし、榎本さんね。分かった、すぐに手配しておくよ」
 彼は、僕の要求だったら何でも受け入れてくれるような満面笑みのニコニコ顔で答えた。
「ところで杉本君、君にはぜひとも営業の仕事を手伝って貰いたかったんだけども、本当に残念だったなあ。君みたいな人材が営業にはぜひとも必要なんだよねえ。いやあ残念だなあ」
 僕は、彼の言葉に何も返事をせず、黙って彼の顔を見ていた。
「ところで、いつ辞める予定になっているのかな?」
「曽我編集長から、今やっている季刊誌の入稿が終わり次第、辞めてくれと言われました。明日くらいには全て入稿が終わる予定でいるんですが」
「そうかい……」社長はややしばらく考える様子を見せてから「じゃあ、一応今月の給料日までの勤務ということにしましょう。あと一週間ほどしかありませんから。それまでは一応会社に出勤してください。今月の給料日にいつも通りのお金を渡して、それでお終いということにしましょう」
「はい、分かりました」
「それから、退職後の失業保険の手続きの方は、給料日までに会社の方で準備しておきますから。それじゃあ、短い間だったけれど、本当にお世話になりましたね」
 そう言って、彼はソファからゆっくりと立ち上がった。
 僕が、文句を言いに来た訳ではないことを納得して、心の底から安心した表情だった。
「では、失礼します」
「はい、どうも御苦労さんでしたねえ」
 僕は社長室のドアを閉め、先程と同じドアから外に出た。それから再び銭湯に向かって歩き始めた。二分ほど道路を下り、狭い路地を左に曲がってすぐの『神楽湯』という風呂屋の暖簾をくぐる。
 脱衣場の中は薄暗かった。僕は、番台に座っている四十過ぎの女性から、使い捨ての石鹸とシャンプーを買った。
「随分、早いですね」
 その女性は、服を脱ぎ始めた僕と、彼女の正面に置いてある小型テレビの両方を交互に眺めながら言った。
「まだ誰も来ていないんですね。僕が今日の一番風呂という訳だ。生まれて始めてかな、銭湯の一番風呂なんて」
「お兄さん、学生さん?」
「学生に見えます? 日曜日でもないのに、こんなジーンズ履いて、真っ昼間から風呂に入りにくると、学生に見えるよね。でも、一応は労働者なんですよ、これでも」
「じゃあ、休みですか?」
 僕は、含み笑いをした。
「普通は、仕事中にきませんよね。でも、只今勤務中。ウチの会社、倒産寸前でヒマなんです。それで僕の上司が、風呂でも浴びてこいって言うもんだから、ちょっと来てみたんです。それに、もう四日も風呂に入っていなくて頭も痒かったし」
 僕はほとんど裸になりかけていた。僕は下着を脱いで、浴場のガラスドアを開けた。
 浴場の中は、まだひんやりと肌寒かった。足元のタイルも冷えている。浴槽からもうもうと舞い上がる湯煙が、天窓からの陽光に反射して乳白色に輝いていた。
 僕はドアの横に積まれた桶を取って浴槽のお湯を汲み、両足に掛けた。お湯はやや熱めだった。僕は、水道の蛇口をひねって水を入れ、二、三回手で掻き回してから浴槽に両足を入れた。そして今度は両足であたりのお湯を掻き混ぜる。お湯がややぬるくなってきた頃を見計らって、思い切って湯船の中に首まで浸かった。
 冷えた体が、お湯の熱で急激に温められて、まるで天にでも昇るような快感が体の底から湧き上がってきた。
 僕は、ゆっくりと顔を上げて天井を眺めた。霧状の湯煙が黄金色に輝きながら、ゆっくりと舞い上がっていく。その湯煙の向こう側に、天窓がぼんやりと映っていた。開いた窓の彼方には、抜けるような青い空が続いている。
 その青い空を眺めながら、もうくたくたに疲れてしまったな、と僕は思った。

 

              7

 五時過ぎの渋谷の街は、すでに宵闇に包まれていた。西の空には仄かに赤味が漂っていたが、街の底は夜の一歩手前だった。
 公園通りの坂を登りながら、僕は自分の髪に触ってみた。もう髪の毛はほとんど乾いていたが、根本のあたりはまだ湿気っているようだった。風呂上がりの汗が背中で冷えて、ついさっきまではゾクゾクと寒かったけれど、それも今では乾いてしまっていた。
 僕は人の流れに乗って、やや早足で坂を登った。舗道は、いつものように坂を降りる人と登る人との流れで、立ち止まることもできないほど混み合っていた。道路には車のライトが溢れていて、僅かずつしか移動していなかった。そして、あちこちからクラクションの悲鳴が響き渡ってきた。
 僕は、パルコの向かいの『サンジェルマン通り』という喫茶店に入った。舗道からきっかり五段のステップを登り、ガラスのドアを押して中に入った。細長く奥に伸びる店内にはシャンデリア風のランプが灯り、木の柱と梁に囲まれた壁は白い漆喰になっていて、どこかヨーロッパのお城のような雰囲気だった。僕は、板張りの通路を奥まで歩いて行ってみたが、どこにも里美の姿は見えなかった。それから、もう一度入り口のところまで戻り、ドアの横の階段を登って二階に上がってみることにした。
 二階のフロアーに上がってあたりを見回すと、すぐに里美の姿が見つかった。里美は、窓の席に座り、頬杖をついて外を眺めている様子だった。まだテーブルの上には水の入ったコップしかないところをみると、彼女もまだ来て間もないようだった。僕は、急ぎ足で彼女に近づいていった。そしていつものように軽く声を掛けようとしながら、僕は、里美の頬杖をついた姿に、何かいつもと違うものを感じていた。
「ゴメン、待ったかい?」
 その声に、里美は振り返って僕を見上げた。彼女の、いつもと同じ和やかな笑顔と黒く輝く瞳を見て、僕は内心ホッと安心した。彼女の姿から、なぜか暗く沈んだ顔を思い描いていたからだ。
「ううん、今来たばっかりよ。ほら、水だってまだ一滴も飲んでいないでしょ」
 彼女は右手でコップをつかんで、僕の顔にかざしてみせた。
「まだ、約束の時間の五分前なんだよね」
 僕は、腕時計を眺めながら、彼女の向かいの席に座った。
「ねえ、雑誌の入稿、全部終わったの?」
「まだ終わっていない。今日の夜に、あと一人、最後の原稿を取りに行かなくちゃならないんだ」
 五日前に彼女と電話で話した時には、今日の夜までには入稿も終わっている筈だから、食事をしたり軽く飲んだりして、二人だけの時間を楽しみたいという話をしていたのだった。
「ゴメン。予定では、本当に昨日の夜に全部終わっている筈だったんだから」
「なんか、そうなるんじゃないかなあって思ってたんだ」
 彼女は、そう言って、鼻で軽く笑った。
 いくら僕の仕事が、前の会社よりも楽になったと言っても、忙しいことに変わりなかった。だから、ゆっくりと夜を過ごすことができるのは入稿が終わった頃か、校正が終わった頃かの、月にほんの何日かだけだった。彼女の仕事にしても、次から次へといろんな声の吹き込みが入ってきたり、星占いの原稿書きの手伝いが急に入ってきたりと、結構忙しかった。それで、二人の時間がゆっくり取れるというのは、月に二、三回ほどしかなかった。
 そんな二人の忙しい合間を縫って、僕たちの付き合いはどうにかこうにか続いてきていた。
「原稿の受け取りは、何時までに、どこに行くの?」
「成城学園に八時まで。だから、七時くらいには渋谷の駅を出たいんだ」
「そう……今日は原稿を取りに行くだけ?」
「いや。それから会社に戻って、ネームの写植を張って、全部できたら印刷所まで届けなくちゃならない。だから、今日の帰りも、また夜中過ぎになっちゃうだろうな」
「そう」
 彼女は、呟くように言って、窓の外へ顔を向けた。
「本当にゴメンね。今日はゆっくりできると思ってたんだけど」
「ううん、別に気にしないで。そんなこと、あなたのせいじゃないでしょう。それより、夕食どうする? ここで何か食べる? それとも、どこかレストランに行く?」
 彼女は、再び笑顔を作って、身を乗り出すようにして僕に訊いた。でも彼女の笑顔の中に、何か空洞のようなものがあるように感じられてならなかった。
「お腹は空いているんだ。だから、何かしっかりしたものが食べたいな。それから、できればビールの一杯くらいは飲んでみたい」
「分かったわ。じゃあ、ここはすぐに出ましょ。どんなものが食べたい? 和食、洋食、それとも居酒屋みたいなことろがいいのかしら」
「そうだな、こってりしたイタリア料理ってのはどう?」
 彼女は二、三秒の間、眉毛の間に皺を寄せて、ちょっと上目使いに虚空を睨むような表情で考え込んでから、
「オッケー、あなたが気にいるかどうか分からないけど、イタリア料理を出してくれるお店があるわ。そこへ行ってみましょう」
 結局、僕は何も注文せずに、彼女が頼んだコーヒーを二人で飲んで、すぐにその店を出ることにした。
 入り口のステップを降りると、彼女の腕が僕の腕に絡ってきた。そして彼女の頭が、僕の肩に寄り添ってきた。それは彼女が僕と歩く時に、いつも取る姿勢だった。
「ねえ、仕事は忙しいのかい?」
 街の騒音に負けない程度の声で僕は訊いた。
「春休みのアニメとか、外国映画の吹き込みなどがこのところずっと続いているの。だから、もう疲れてくたくた」
「星占いの仕事は?」
「しているわよ。部屋に帰っても、その仕事があるでしょ。外でも中でもてんてこまい。あなたに私のアシスタントをしてもらいたいくらいよ。……あなたの方はどうなの?」
 僕が、曽我編集長にクビを言い渡されたことは、まだ言わないつもりだった。今ここで、その事を話し始めたら、曽我編集長への怒りと、これから先に対するの不安の言葉しか出てこないだろうと思ったからだ。後日、僕自身の気持ちがもう少し落ち着き、先々への見通しが立った時に、改めて彼女に話すつもりでいた。
「まあまあってところかな。忙しいといっても、今回の入稿では徹夜が一回しかなかった程度だし……原稿が予定通りに入らないのも、いつもの事だしね。こんなところだよ」
 話しながら、時々彼女は、空いている方の手で僕たちが進むべき方向を差してくれた。そして絡めた腕で、僕の体を曲がる方へと押したり引っ張ったりした。
 僕たちは、公園通りを駅の方へ少し下ってから、細い路地を西へ入った。そして、その路地の突き当たりの階段を降り、薄暗い通りを五分ほど歩いたところにある小さなレストランに入った。
 板張りの壁に囲まれた店内は、それほど広くはなかったけれど、ほとんどのテーブルは人で埋まっていた。表通りから離れた、こんな小さなレストランに、人が沢山入っていることに、僕は少し驚いてしまった。
 僕たちは、店のやや奥まったところにある壁際のテーブルに座った。
「ねえねえ、何食べる?」
 里美は、ウェイトレスが持ってきた大きなメニューを広げながら僕に訊いた。
「実はさ、さっきイタリア料理が食べたいなんて言ってみたけど、よく分からないんだよね、どんな料理があるのかさ」
 広げたメニューの向こう側で、クスッという笑いが起きた。
「だから、料理選びは君に任せるよ。美味しくて、ある程度量があるものだったら何でもいいからさ」
 里美は何も返事をしなかった。僕は、里美がテーブルに立てたメニューを引いて倒した。そこには、笑いを堪えている里美の笑顔があった。
「私もね、一度、人に連れられてここに来たことがあるだけで、イタリア料理ってよく分からないのよ」
 僕たちは、五分以上も迷ったあげく、結局シェフのお薦めメニューというやつを幾つか選ぶことにした。そして、間もなくやってきたブーツグラスのビールで乾杯した。
 このところの疲れで、僕はすぐに快い気持ちになった。そして、いつものように彼女との取りとめのない会話を楽しんだ。ただ、時
折彼女が見せる暗い表情だけが、心のどこかに引っ掛かっていた。
 僕たちは、仕事の話、友達の話、最近読んだ本の話(僕はP・K・ディックで、彼女は村上春樹だった)、それから映画の話(彼女は、レンタルビデオで見た『カサブランカ』に泣いてしまったそうだ)などをした。
 気がつくと、もう六時半を過ぎていた。僕は、いつまでもこうやって彼女と楽しく話をしていたかったけれど、そろそろ原稿を取りに出掛けなくてはならない時間だった。
 僕たちは、いつものようにワリカンで食事代を出し合い、そしていつものように僕がレジで金を支払って、外に出た。
 僕と里美は腕を組み、先程と同じ格好で歩き始めた。夜気はやや冷たくて、ビールで軽く火照った頬にはちょうど気持ちよかった。僕は、里美の指示のままに、来る時とは違った道を通って渋谷駅に向かった。
「ねえ、私達が初めて出会った時のこと、覚えている?」
 里美は囁くような口調で僕に訊いた。
「覚えているさ。君のブーツの踵がポッキリと折れて、仰向けに転んだ君の姿は二度と忘れられないな」
「そんなことじゃなくて……」彼女はやや不満そうに言った。「私、あなたのこと、とっても生き生きと仕事をしている人だなって思った。編集の仕事に、随分とファイトを燃やしているんだなあって……」
「あの頃は、もうファイトなんてなかったよ。プロダクションの仕事に行き詰まっていたしね」
「ううん、問題なのはその迷い方よ。真剣に仕事して、真剣に悩んでるなって、私感じたわ。そんなあなたの姿、とっても新鮮だった」
「そうかなあ。疲れてたけどね。今でもそうだけどさ」
「それで、私、逆にあなたのことインタビューしちゃおうって思ったの。あなたのことに興味が湧いたのね。この人、どんな人なのかなあって」
「僕は、仕事として君に質問していたから、特にそんなことは考えていなかったよ。話しているうちに、だんだと君に興味が湧いてきたけどね。でも懐かしいなあ。あれからもう一年以上経つんだなあ」
「ねえ、私と出会って、よかったと思ってる?」
「思ってる。君がいるおかげで、随分と精神的に助けられているんだよ、本当を言えばさ」
「そう……」
 しばらく黙ったまま歩いた後で、再び彼女が口を開いた。
「ねえ、私のこと、好き?」
「うん」
「どれくらい? 少し、ふつう、それとも、とっても?」
 僕は少しの間、考えてから答えた。
「ふつう……くらいかな」
「そう……」
 それから、僕たちは再び黙ったまま歩いた。
 僕は、心の一方では彼女の奇妙な質問に疑問を抱きながら、また他方では僕に寄り添って歩く彼女のぬくもりに満足感を覚えながら、彼女の歩調に合わせてゆっくりと歩いた。
 まもなく僕たちは、京王電鉄の駅の階段の下までやって来た。
 里美の体が離れてから、僕は彼女に訊いた。
「ねえ、今度はいつ会えるかな」
 訊いてから、どうしてこんなことを言ったんだろうと僕は不思議に思った。『今度はいつ会えるのかな』なんて質問を、僕は今まで言ったことがなかったからだ。そんな事は訊かなくても、二週間か三週間経って、お互いが暇になる頃に、僕たちはお互いに連絡を取り合って、デートの日時を決めるのだった。それが、これまでの僕たちのやり方だった。こんな事、訊く必要なんてなかったんだ、と思っているうちに、里美の顔が人形のように無表情に変化していった。その無表情な人形の顔の中で、黒い目だけが、何かに脅えたように小刻みに震えていた。そして、喉に詰まったものでも出すかのように、彼女は微かに口を動かそうとしていた。
 ぼんやりとした不安が、だんだんと僕の心の中で、手に触れられるような形を取ろうとしていた。
「ねえ、今度、いつ会える?」
 僕は、もう一度、優しい口調で訊いた。
 里美は、しばらく僕を凝視めた後で、ゆっくりと顔を俯けてしまった。
「さっきから、気になっていたんだけれど、何かあったの?」
 僕は、彼女の両肩に手を乗せて、俯いた彼女の顔が見られるように顔を傾けた。
「ねえ、何があったのか言ってくれよ」
 里美は何も言わずに、軽く頭を振った。僕は、人の流れの邪魔にならないように、彼女を建物の壁際に連れて行った。そして、もう一度、同じことを訊いた。
「何があったの?」
 小さな里美の声が聞こえてきた。でも、街の騒音に掻き消されて、何を言っているのか聞こえなかった。
「うん、何だって?」
 里美は、何度か頭を左右に振ってから、ゆっくりと顔を上げた。街灯の弱い光りに照らされて、彼女の両目が涙に濡れて光っていた。そして涙が一筋、頬を伝って流れ落ちていくのが見えた。彼女は、濡れた瞳を大きく見開いて、僕をじっと凝視めてから、ほとんど涙声で言った。
「私、もうあなたと会わない方がいいと思う」
 頭から血の気が引いていくのが分かった。心臓が、一瞬ドキンと高鳴ってから、カタカタと空回りするような鼓動に変わった。
「どうして、もう会わない方がいいと思う?」
 冷静になれと自分に言い聞かせながら、僕は何とか口を開いた。言いながら、声が震えているのが自分でも分かった。
「ごめんなさい。私が悪いの。だけど、もうあなたと会わない方がいいと思う」
 彼女は、そう言うと、彼女の肩に置いた僕の手から離れるように一歩退がり、ハンカチで涙を拭った。そして「さようなら」と呟くと、くるりと振り返って歩き始めた。
 僕は慌てて彼女の後を追った。
「ねえ、何があったんだよ?」
 彼女の横を歩きながら、僕は訊いた。でも、彼女は何も答えようとはしなかった。
「正直に話してくれよ。ただ、会わない方がいいなんて言い方はないだろう?」
 二十メートル程歩いたところで、僕は彼女の腕をつかんで舗道の隅に連れて行った。そして彼女の両腕をつかみ、建物の壁に彼女の背中を押しつける格好で、僕たちは向かい合った。
「ねえ、どうして僕たちは、もう会わない方がいいと思う?」
「本当のことを話したら、あなたを傷つけてしまうわ」
 彼女は、僕の顔を見ようともせずに俯いたまま低い声で答えた。
「傷ついてもいい。このまま訳も分からず君と分かれられないよ。その方が、よっぽど僕は傷ついてしまう」
 彼女は、じっと俯いたまま何かを考えている様子だった。
 長い長い沈黙が続いた。このまま世界の終わりまで続くかと思われる長い沈黙だった。
 僕はじっと彼女の顔を凝視めながら、彼女が返事をしてくれるのをひたすら待った。やがて長い沈黙に終わりがきた。
「あの……私、ある人に結婚してくれないかって言われたの」
 雑踏の音に掻き消されそうな弱々しい声が聞こえた。
 僕の心臓は、再び大きく高鳴った。口の中がカラカラに乾いて、唾が思うように飲み込めなかった。
「ある人って……?」
 僕は、はやる気持ちを抑えながら静かに訊いた。
「声優さんの仲間の人。あなたも名前くらいは知っていると思う」
「それで?」
 心の中で、もうこれ以上聞きたくないという気持ちと、最後まで聞きたいという気持ちがせめぎ合っていた。
「私、とても嬉しかったわ。その人、声優さんとしてずっと以前から知っていたし、仕事熱心で、私、以前から尊敬していたの」
「で、その人から結婚してくれって言われたんだ」
「そう。私のこと、ずっと以前からとても好きだったって。それで結婚してほしいって」
「それで、どうした?」
 彼女が、これから言おうとしている事を、僕は聞かなくても推測できるような気がしていた。そんな気がしながら、でも僕は問いたださずにはいられなかった。
「私、あなたに相談しようと思っていたんだけれど、その人、毎日毎日、私に電話を掛けてきたり、私の仕事場に来たりして、私……」
 彼女は、次の言葉をためらうように、じばらくの間、口を閉じてじっと下を凝視めていた。
「君も、その人が好きになった?」
「分からない。よく分からなくなってきたの。あなたのこと、ずっと好きだと思っていたんだけれど、でも、その人と家庭を持ってもいいという気持ちにもなっているの」
「そう」
 僕は、彼女の前に立っていながら、自分が今、どこにいるか分からなくなっていた。暗い井戸の底にいるような気もしたし、北極の夜の闇の中にいるような気もした。時の流れが、僕のまわりだけ凍りついていて、音も時間も意識も存在しない無の空間に、僕は立っていた。
 永遠の静寂の後で、再び彼女が口を開いた。
「それで、その人が、私の部屋にやって来たことがあるの……」
「もういい。もう、それ以上聞きたくない。分かった……」
 彼女の腕をつかんでいた手の力が抜けて、僕は手を下ろした。手ばかりではなく体中の力が抜けて、まるで案山子のように茫然と僕は立っていた。
 頭の中が、冴えているのか混乱しているのか僕は分からなかった。そして、目の前にいる里美が、以前の里美ではないような気がした。まったく知らない赤の他人。外側は同じでも、中身は以前の里美ではない。
 しばらく経った後で、何か言わなくてはならないという気持ちが、僕の口を開かせた。何を自分が言おうとしているのか、声が出るまで分からなかった。
「今日ね、編集長に会社辞めろって言われたんだ。だから今度の給料日で、今の会社クビになるんだ」
 僕の意識とは別に、口が勝手に喋っていた。
「編集の仕事がしたくてさ、東京に出てきただろう。でも、プロダクョンの仕事は僕には厳しすぎて辞めてしまったし、出版社では僕なんか役に立たないってクビにされた」
 話しながら、急に涙が溢れてきた。
「お前はクビだって言われて、正直言って、今とっても不安なんだ。これから何をしていったらいいのか、何でメシを食っていったらいいのか、全然分からないんだ」
 涙が、頬を伝わって流れ落ちて行った。
「こんな今の僕に、君と結婚したいなんて言える資格はない。これからの自分の生活さえも分からないくらいなんだから」
 口の中が塩辛かった。
「だから、今君が、その人と結婚して、幸せになれるって思うんだったら、ぜひその人と結婚してほしい……」
 僕の声は、もうほとんど涙声だった。
 しばらく、そのまま立っていると、次第に気分が落ち着いてきた。腕時計を眺めてみると、もうじき七時半になろうとしていた。
「原稿を取りに行かなくっちゃ。じゃあ、もうこれでお別れだね」
 僕は息を深く吸い込んで、気持ちを落ち着かせようとした。そして、自分の心に最後の力をふり絞った。
「さようなら。幸せになってね」
 そう言いながら、僕は彼女から離れた。
「あの……」
 里美が、訴えかけるような悲しい目で、僕を凝視めながら、何か言おうとしていた。
 彼女の言葉を聞いたら、自分の心がすぐに崩れてしまうようで、僕は、彼女の言いかけた言葉を無視するように、彼女に背を向けて歩き始めた。
 僕の背後から、里美の掠れた声が聞こえたような気がした。でも
街の騒音に掻き消されて、何を言っているのかは分からなかった。
 僕は、ひたすら足を前に出すことだけを念じながら、駅に向かって歩いた。

 

              8

 会社に向かう電車は、どれもみんな空いていた。乗客は誰もが一日の疲れに押し潰された様子で、しわくちゃな紙袋のように力なくイスに座っていた。駅に着くたびに乗客の何人かが、かろうじてイスから立ち上がり、幽霊のように音もなくドアから出ていった。そして、また同じように疲れ切った顔をした男女が、夢遊病者のように入ってきて、空いている席に座った。
 僕は、新宿と高田馬場で乗り換えて、東西線の神楽坂で降りた。地下鉄の駅の階段を登り、会社に向かう僕の体に詰まっているのは疲労と落胆と絶望だけだった。
 街灯もほとんどない薄暗い通りを、僕は会社に向かって歩いた。通りに人影はなく、ブーツの乾いた靴音だけが、背後霊ように僕の後ろからついてきた。
 会社は真っ暗で、人の気配は全くなかった。僕は外の階段を登って二階の編集部に入った。僕は、預かってきた原稿を机の上に置いてから、僕の席の背中にある石油ストーブに火を点けた。しばらくストーブの脇に立っていたが、冷えた部屋の中はすぐには温まりそうにもなかった。
 僕は皮ジャンパーを着たまま、自分の机に向かって仕事を始めた。あらかじめ用意しておいたセリフの写植を切り、もらってきたばかりのマンガの吹き出しに、その写植を張りつけていく。
 二ページほど終わったところで、僕は壁の時計を見上げた。もう少しで十一時になろうとしていた。受話器を取り上げて、少し迷ってから里美の部屋の番号を押した。二回の呼び出し音が鳴った後で、里美の弾んだ声が聞こえてきた。いつもの留守番電話のテープの声だった。
 成城学園駅を出る八時半頃にも、僕は彼女の部屋に電話を入れてみたけれど、その時も彼女は留守だった。渋谷から、そのまま自分の部屋に帰っていれば、着いていてもいい時間だった。そして、今もまだ帰っていない。
 渋谷で、彼女を残したまま来てしまったことを、僕は何度も後悔していた。原稿のことなどより、彼女のことの方が何倍も大切だったのだ。原稿の受け取りなど遅くなっても、彼女ともっと話をするべきだった。
 よくよく考えてみれば、本当に僕と分かれる気があるのならば、わざわざ声優の男のことなど僕に話す必要はなかったのだ。そうではなくて、僕との関係を望んでいたからこそ、洗いざらい話してくれたのではなかったのか。彼女は、僕に許しを求めていた筈なのだ。でも、僕はそんな彼女の心を見事に裏切ってしまったのだ。考えれば考えるほど、自分の取った軽はずみな言動が悔やまれてならなかった。
 もう一度、もう一度ゆっくり彼女と会って話がしたかった。時間をかけて話し合えば、きっと今の僕の気持ちが分かってもらえるに違いない。何とかして、少しでも早く彼女と連絡を取って、もう一度会いたかった。
 僕は、手に持った受話器をいったん置いてから、手帳を広げ、別な番号を押した。
 呼び出し音が何回か鳴って、女性の声が聞こえてきた。
「はい、榎本でございます」
「あの、こんばんわ。流星出版の杉本です。今日は、朝までお世話になりました」
「あら、杉本さんですか。こちらこそ本当にお世話になりました。原稿、いつも遅くなって本当に申し訳ありませんね」
「いいえ、先生にはいつも素晴らしい作品を描いてもらっていますから……。あの、先生はいらっしゃいますか?」
「はい、ちょっとお待ち下さい」
 遠くで、奥さんの声が榎本さんを呼んでいた。
「電話、代わりました。榎本です」
 いつものように、低くて明瞭な彼の声だった。
「流星出版の杉本です。今日はお世話になりました」
「いいえ、こちらこそ。印刷所には間に合いましたか?」
「ええ、充分に間に合いました。原稿の方はよかったんですが…」
「他に何か?」
「あの、先生の連載の件なんですが、小野寺に訊いたところ、読み切りでいいんじゃないかと言われました。僕としては残念なんですが」
「ああ、その件ですか。僕の方は、最初からそれでいいと思っていたんですよ。でも、小野寺君から聞いたでしょう?」
「聞いたって……」
「以前、僕が連載を中断してしまったことがあるということですよ」
「……ええ、聞きました」
「別に、その事を僕は弁解するつもりはないんだけれど、結局、僕は編集者の意のままにマンガを描くことはできなかったということなんですよ。僕は、僕の主張したいテーマで、僕の納得のいくようなストーリー展開で作品を描きたかった。編集者に、こう描けば読者に喜ばれるから直してくれとか、こんな風に物語を進めたら面白いとか言われても、僕は人の指図でマンガは描けないんです。あの連載で、僕ははっきりとそのことに気付きました」
「ええ……」
「僕らは、編集者の奴隷ではない……まあ、そういう事なんですよ」
 彼は、力みすぎたことを反省するかのように、やや軽い調子で言った。
「ところで、突然なんですが、今月でこの会社を辞めることになりました。先生には短い間でしたが色々とお世話になりました」
「それはまた随分と急な話ですね。それで辞めてから何をするかは決まっているんですか?」
「いえ、まだです。少しボーッと休んでみたいという気持ちもありますし、ボチボチ考えていきますよ」
「そうですかあ。ねえ、杉本君、前にも話したことだけれど、書きたいことが心の中にある限り、とにかく書き続けることですよ。諦めちゃダメです。まずは自分のために書き続けること。君が正しいと信じることを書き続ける限り、必ずそれを評価してくれる人が現れる筈です。決して諦めちゃダメですよ」
「はい、ありがとうございます」
 彼の言葉を聞いていると、目頭が熱くなってきた。
「先生、変なことを尋ねますが、今日いただいた作品の続きを描くとすれば、あの人間達は魔族に勝って生き残ることはできるんですか?」
「あの続きは特に考えてはいなかったけれど、魔族に滅ぼされるギリギリのところまで行って、やっと覚醒する人間が増え始め、最終的には魔族に勝って生き残るんじゃないかなあ。人間って愚かで自己本位で我がままだけれど、でも最終的には、その身勝ってさを乗り越えられる力を持っていると僕は信じたいんです」
「そうですか……分かりました。それとですね、前号の原稿料のことですが、すぐにお支払いするように手配しておきました。明日ぐらいには振り込まれると思います。では、本当にお世話になりました。多分、もうお会いすることはないと思います。お体に気を付けて、これからもご活躍下さい」
「杉本君も……」
「じゃあ、失礼します」
 僕は、受話器を置いた。
 胸の中から熱い感情が急に込み上げてきた。視界が涙で潤み、温かいものが頬を伝わって流れ落ちていくのを、僕は感じていた。

【帯広市図書館「市民文藝」第31号1991年発行 掲載】