20年目のクラス会

  クラス会が終わり、レストランから外に出たところで、明日香が僕に近づいてきた。
「杉本君、話したいことがあるの。今から、私につきあってよ」
「これからみんなで二次会に流れようって言ってるのに、二人だけ抜けてしまっていいのかい?」  
「ダンナから、遅くなるなって言われてるの。だから、どっちみち二次会に出るつもりはないわ……ねえ、話って葵のことなの」
 僕は、あらためて明日香の顔を、まじまじと見つめてしまった。
 大学を卒業して二十年後に開かれた初めてのクラス会だった。フランス学科四十人のうち、十六名ほどが集まった。僕は北海道の帯広から、はるばる名古屋までやってきた。
 みんな、体型も顔つきもすっかり中年のオジさん、オバさん姿に変貌していた。
 居酒屋に行くという仲間と別れて、僕と明日香は駅前のカフェに入ることにした。
「葵のこと、何か聞いてる?」
 窓際のテーブルに座るなり、明日香が身を乗り出すようにして訊いてきた。
「大学を卒業して、名古屋にやって来たのは本当に二十年ぶりなんだ。だから、葵のことなんて何も聞いてないよ」
「そうよね」と、一人で納得するそぶりを見せてから、明日香はどこか遠くを見るような目つきを浮かべた。

 大学の三年生から四年生の頃にかけて、僕らは仲のよい男女四人のグループを作っていた。男は僕とヒカル、女の子は明日香と葵の二人だった。僕らは、たまたま同じゼミの受講生で、ゼミが終わった後に学生会館の喫茶ルームでお喋りをしているうちに、なんとなく四人の気があったのだ。
 葵は、勝ち気で頭の回転が速く、物事の核心をズバリと見抜くような話し方をした。ハッキリとものを言いすぎる傾向があるので、もしかすると女子の間では、煙たがられる存在だったかもしれない。
 それに反して明日香は、まわりの人たちに人一倍気をつかうタイプで、波風の立たない人間関係を維持するのに全力を注いで生きている女の子だった。
 ヒカルは、日に焼けた色黒のテニスボーイで、物事をあまり複雑に考えずに、人生は楽しめればそれでいいと考える明朗快活なスポーツマンだった。
 僕はといえば、一人で本を読んだり音楽を聴いているのが好きな、どちらかといえば孤独癖の強い内気な男だった。
 性格の全く違う四人が、二年近くもの間、どうして仲のよいグループを作っていられたのか、今でも僕にはその理由が説明できない。 でも実際に僕ら四人は、男女の分け隔てなく打ち解けた友人関係を維持し続けた。それは本当に、奇跡的とも言える友情の絆で結ばれた四人の仲間たちだったのだ。
 僕らは、一緒に映画を見に行ったり、美術館や動物園に出かけたり、栄のパブスナックで夜中まで飲んだり、大学そばの喫茶店で三時間も四時間も話しこんだりした。
 その二年間に、僕ら四人の間で、男と女の恋愛感情が、まったく湧き起きおこらなかったとは言わない。たぶん、それぞれの胸の中では、多少の葛藤だとか自己抑制がなされていたのだろうと思う。
 僕個人に即して言えば、グループができ始めた当初から、葵に対して強い恋愛感情を抱いていた。
 葵の目鼻立のしっかりした美しく整った顔だちも、裏表のない直線的な性格も、僕には眩しいほど魅力的だった。
 でも四人一緒にいるときは、絶対に自分の感情は外に出さなかった。それどころか、葵に対しては、できるだけそっけない素振りを見せるようにしていた。葵から「どうして私を、そんなふうに軽くあしらうの?」と真顔で二、三度訊かれたこともある。
 僕の中では、うまく均衡のとれた四人の関係を、何があっても壊してはならないという強い自制心が働いていた。
 それに、所詮これといって何の取り柄もない平凡な自分が、葵の相手にされるわけがないという諦めに似た気持ちもあった。
 だから僕にしてみれば、四人のグループを利用して、葵のそばにいられるだけで、最高に幸せだったのだ。
 男女四人の奇跡的な友情関係が、あっけなく壊れたのは、卒業を間近に控えた一月のことだった。正月を北海道で過ごして名古屋に戻ってきた僕のところに、突然ヒカルから呼び出しの電話がかかってきた。
 待ち合わせの喫茶店に入って、ヒカルの向かいに腰を下ろすなり、
「葵と個人的につきあおうって考えてるんだけど、お前、いいか?」と訊かれた。
 ヒカルが何を言わんとしてるのか、まったくわけが分からなかった。
 個人間の恋愛は、僕たちグループの中では暗黙のタブーだった筈だ。そして大学を卒業した後も四人のグループは、これまで通りの状態で続いていく筈だったのだ。
 だからこそ僕は、北海道には帰らず、就職先も名古屋市内に決めたのだ。
 ヒカルへの不信感を抑えながら、良いとも悪いとも言えずにいると、突然彼はテーブルに両手をつき、頭を深々と下げた。
「ごめん、オレたち、もうそういう関係になってるんだ。ワリい、一人で抜け駆けしちゃって」
 頭を激しく打ちのめされるほどのショックだった。しばらくの間、何も考えられなかった。僕は、二人に裏切られたんだ。そんな怒りに似た感情しか湧いてこなかった。
 しばらくするうちに、混乱した気持ちが少しずつ落ち着いてきた。冷静になって考えてみると、男女四人のグループなんて、いつかは壊れる運命だったことに気がついた。二年間も続いたことの方が奇跡なのだ。
 仲良し四人組がいつまでも続いていくものと勝手に信じ込んでいた自分が愚かだったのだ。だからヒカルも葵も、べつに悪いわけではないし、僕を裏切ったわけでもないのだ。
 そう考えると、心の踏ん切りがついた。
 その後、三人から誘いがあっても、二度とグループに顔を出すことはなかった。
 キャンパスで、二、三度葵とすれ違うことがあった。でも、ヒカルと「そういう関係」を持っている女としてしか、葵を見ることはできなかった。
 僕は、父親に頼んで急きょ帯広に就職先を探してもらった。そして三月の卒業式が終わるのと同時に、三人の誰とも会わずに帯広へ帰って行った。

「大学卒業して一年もしないうちに、葵とヒカル君は結婚したのよ」
「多分そうなるだろうと思ってたよ」
「私は、二人の結婚に反対だったんだけどね……だいたい、あなただって悪いのよ」
「どうして僕が悪いんだよ? 僕は何もしてないじゃないか」
「あなたが何もしなかったからよ……まあいいわ、この話は後でする。で、二人の結婚生活っていうのが、けっこう悲惨な結末でね」
「悲惨な結末って?」
 明日香は、グラスの水を一口飲んでから、大きく溜息をつくと、再び喋りはじめた。
「半年もしないうちに、子どもが生まれたの。でも、その子、生まれつき病気だったの。遺伝性だか染色体異常だかっていう、そんな重い病気よ」
「それは大変だな」
「大変どころの話じゃないわよ。ヒカル君ったら、赤ちゃんの異常が分かった途端、それは葵の家の血筋が原因だとか言って、家を出て行っちゃったのよ。サイテーな男だわ」
「じゃあ、子どもは葵一人で育ててるってわけかい?」
「ええ、そうよ。でも葵一人じゃ無理だし、実家の両親にも協力してもらってるわ。子どもは、もう二十回以上も手術を受けてるって話よ。成長とともに、何度も繰り返し手術を受けなくちゃならないの。でも、手術を受けたからといって完治するわけじゃないしね。手術は、一時しのぎでしかないらしいの」
「苦労してるんだな、葵は」
「今じゃ、大学時代のように可愛くて利発だった葵ちゃんなんかじゃないわ。くたびれた顔をして、人生に悪戦苦闘している四十過ぎのオバちゃんよ」
 僕は、四十過ぎの葵の顔を思い浮かべようとしてみた。でも、春風のように爽やかだった葵の笑顔しか浮かんでこなかった。
「それでヒカルは、どうしてる? 今日のクラス会でも、奴の話題は全く出てこなかったけど」
「誰も、ヒカル君のことは話したくないのよ」「どうして?」
「……彼、自殺しちゃったの」
 とっさに息が詰まった。相づちも打てなかった。
「何があったんだ?」
「さあ、詳しい話は私、知らないわ。……彼、葵と別れた後に、別の女性と再婚したんだけど、その女性とも二年ほどで離婚してるの。それで、しばらくしてまた別の女性と結婚したらしいって噂も聞いたけど、その女性ともうまくいかなかったみたいなの。同時に二人くらいの女性とつきあってたって話も聞いたことがあるし。彼が自殺したのは、その後のことよ」
「女性関係がこじれたのかな?」
「さあね。慰謝料を支払うために、あちこちのサラ金から借金していたって噂も聞いたことがあるわ。本当のところはわからないけど」
 そこまで話すと、明日香は暗い顔つきを浮かべて、大きな溜息をもらした。
「ヒカルが、それほど女にだらしない男だとは思わなかったな。家庭を大切に守りながら、営業の第一線に立ってバリバリ働いていくタイプだと思ってたよ」
「私は、そうは思っていなかったわ。表向きは爽やかなスポーツマンを装っていたけれど、人一倍勝ち負けにこだわる神経質な人だったわ。心の裏側では、いつも他人の成功を羨んだり妬んだりしてた」
「僕には、そんなふうに見えなかった」
「大学時代のあなたって、脳天気なお人好しだったからね。人の本心を覗こうなんて考えたこともなかったでしょ?」と呟いて、明日香は口の中で小さく笑った。
「ヒカル君は女にだらしないんじゃなくて、美しい女性を見ると、自分の手に入れたくなるだけなのよ。手に入れて勝利感を味わいたいの。だいたい葵の時だってそうよ」
 明日香が何を言わんとしてるのか、すぐにはわからなかった。
「あなた、どうして葵をヒカル君に譲ってしまったのよ? どうして、葵を自分のものにしなかったの?」
「何言ってるんだよ? だいたい僕なんて、葵の相手にされるような男じゃなかったよ。僕みたいな、見た目も十人並みで、何の取り柄もない男なんて……」
「あんたって本当にヌケてるわね。鈍感もいいところだわ。たしかに葵って、美人だし、頭もいいし、何でも思ったことをハッキリ喋ってしまう勝ち気な女の子だったわ。でも、だからこそ、あなたみたいに思慮深くて、物事をひとつひとつ丁寧に考えていく男の人に惹かれていたのよ。あの子、あなたに対して、時々シグナルを送っていたでしょ? 私のことを守ってほしいって。そういう目つきや仕種、気がつかなかったの?」
 僕は、ポカンとしたまま明日香の顔を眺めた。
「ったく、あきれちゃうわね」
「……でも、卒業前の正月に帯広から帰ってきた時、ヒカルから言われたんだ。葵とは男の女の『そういう関係』になってるから、認めてくれって」
「あなた、まんまとヒカル君に騙されたのよ。卒業するまで葵とヒカル君は、個人的なつきあいなんてしてなかったわ。だって、葵は、あなたに対して気があったんだもの。
 だから、あなたが何も言わずに四人のグループから抜け出してしまった時、彼女すっかりしょげかえっていたのよ。
 四月になってヒカル君から猛烈なアプローチを受けて、なんとなくつきあい始めたの。で、すぐに子どもができちゃったから、とりあえず籍を入れたってわけ。それが真実よ」
 世界がぐるりとひっくり返って、自分が別の場所にいるような気がした。自分が思っていたのとは全く異なった過去の景色が、僕の目に映っていた。
 二十年前、帯広に帰ってからも、僕はずっと葵のことが忘れられなかった。でも、そんな生活をいつまでも続けていてもしょうがないと考えて、たまたまお見合いで出会った女性と結婚した。そうすれば葵のことが忘れられると安易に考えてしまったのだ。
 でも、心の中から完全に葵の姿が消えることはなかった。このままでは、相手に申し訳ないと考えて、一年もしないうちに離婚した。
 以来、僕は、葵の影を心の奥底に抱えながら、ずっと孤独に生きてきた。
 そんな二十年間だった。
 でも、本当は、そんな二十年間を送るべきではなかったのかもしれない。僕は、どこかで道を踏み間違えていたのだ。
「ねえ杉本君、お願いがあるの。ぜひ葵に会ってあげてほしいのよ。彼女、昔とは別人のように変わったわ。やつれた顔してるし、皺は増えたし、白髪は多いし、お尻もデカくなったし。でも、心の中にいる彼女は、大学時代の溌剌と輝いていた頃の葵そのままよ。
 本当は彼女、今日のクラス会にも出たいって言ってたの。でも、一週間ほど前に子どもの体調が悪くなってね、それで急に来られなくなったの」
「今さら、葵に会っても、何を話していいかわからないよ」
「どんな話でもいいのよ。あなたに会えるだけで、彼女、きっと元気になると思うわ」
 明日香は、テーブルの上に、葵の電話番号と住所を書いた紙片を置いた。
「ああ、遅くなっちゃった。急いで帰らないと、ダンナに叱られる。あの人、私がそばにいないと、すぐに怒るのよ」と呟きながらイスから立ち上がった。
「君は、幸せな結婚生活を送っているんだな。羨ましいよ」
「私だって、仕事と家庭の両立で悪戦苦闘の毎日よ。でも、こんなありきたりな毎日が、じつは一番幸せなんだって、最近少しずつわかってきたわ。だてに四十二年生きてきたってわけじゃないのね」と、明日香は、片目を大きくウィンクしてみせた。
 僕らはカフェの前で、向かい合って立ち止まった。
「杉本君、大学時代に私の好きだった人、誰だかわかる?」
「さあ、誰なんだろう? さっきの話を聞いてると、どうもヒカルじゃなさそうだし」
 明日香は、プッと噴き出すと、「あなたの鈍感さには、ほんと勝てないわ」と呟きながら、地下鉄の入り口に向かって歩き始めた。
 翌朝の九時過ぎ、僕はホテルの部屋のソファに座って、スマホの画面に葵の電話番号を押していた。
 呼び出し音が三回ほど続いたところで、電話が繋がった。 
「あの僕、杉本です。お久しぶり。今、名古屋に来てるんだけど……」と、僕は、二十年ぶりに葵に向かって話しかけた。