復讐

晩秋の風が、窓の外を吹いていた。
 黄葉したイチョウの葉が、風に巻き上げられるままに舗道を流れていく。陽光を反射して、まるで黄金色に輝く絨毯が路面を舞っているようだ。
 建物の陰になったあたりにも、イチョウの葉が数枚、クルクルと渦を巻いている。
 街路樹の枝にしがみついている葉の数は、昨日から極端に減って、裸同然となった枝が小刻みに揺れていた。
 街の上は青空である。秋らしい澄んだ藍色が一面に広がっている。その中を、小さなちぎれ雲が、足早に東へと移動していく。
 時折、強風に煽られて病室の窓枠がゴトゴトと揺れ、隙間から冷気が押し寄せてくる。
「 ねえ、あなた。……お茶、もらえないかしら」
 晶子の弱々しい声に、ふと我に返った。見ると、ベッドに横たわった晶子が、酸素マスクを横にずらして、私を見ていた。
「うん?……ああ」と応えながら、私は吸い口のついたカップを手に取って、晶子の口元に運んでいった。
 吸い口をくわえ、ふた口ほどゆっくりと呑みこむと、晶子は「もういいわ、ありがとう」と小さく呟いて、目を閉じた。
 私は、酸素マスクを元の位置に戻してやってから、カップをテーブルの上に置いた。
 強い日差しを浴びて、やせ細った青白い晶子の顔が、まるで幽霊のように透き通って見える。肌の奥に広がる静脈の網の目までもが、うっすらと見えるほどだ。
 水を飲んでしばらくするうちに、晶子は眠りについたようだった。
 静かな室内には、酸素弁がゴボゴボと唸る音だけが微かに響いている。

 昨夜、晶子は断続的に襲ってくる激痛で、「痛い、痛い」と呻き声を上げ、ベッドの上で体を左右に激しく捻った。そして、ボサボサの髪を掻きむしるような仕草を繰り返しながら、「苦しくて苦しくて我慢できない、もう死なせて」と何度も私に訴えた。
 私は、晶子の背中をさすりながら、「これぐらいで死んでどうするんだ。もっと頑張らなくちゃ」と声をかけた。
「なに言ってるの、もう私は死ぬだけ。……だから早く死なせて」と、呻き声の合間に、懇願する口調で叫び上げた。
 そんなことの繰り返しが、明け方までずっと続いた。
 晶子の発作が治まってきたのは、窓の外がうっすらと明るくなってきた頃のことだ。

 晶子が、今のような状態になってから、もう三週間ほどが過ぎている。発作が改善されていくような気配は一つもない。素人目に見ても、夜ごとに痛みが激しくなり、死期が近づいているのがわかる。
 四十前くらいの医者にナースステーションに呼び出されて、話を聞いたのは二日前のことだった。
「奥さんなんですが、この一週間くらいが、山になると思います」
 私が丸イスに座るなり、無表情を装った顔つきで、医者が私に語りかけてきた。
 他人の死を宣告するなんて、きっと勇気のいることなのだろう。そんなどうでもいいことを、私はぼんやりと考えていた。
「それで、今後の治療なんですが、どのようにしていきましょうか?」
「今後の、治療、ですか……?」
 私は、医者が何を言わんとしているのか全く分からない振りを装って、オウム返しに訊いた。 
 医者の顔に、戸惑いの表情が浮かぶ。
 ひと呼吸おいてから、医者はおもむろに口を開いた。
「ええ、ですから、今のままの治療を継続していくのか……あるいは少しでも痛みを和らげるような治療をしていくのか、ということなんですが……」
 私は、なおもとぼけた振りをする。
「少しでも可能性があるんなら、妻には、なんとか治ってほしいんです」
 不審そうな目つきで、医者が私を見つめる。
「ええ、ですから、この一週間くらいが、死ぬか生きるかの山なんですよ」と医者は、私の理解力を疑うような目で見つめ、噛んで含める口調で言う。
 私は黙ったまま、なにも答えない。貝のように口を閉じて、じっと足元を見る。
 妻の回復を請い願う夫を、私はひたすら演じ通す。
 重い沈黙の中で、一分くらいが過ぎた。
「妻のこと、何とか治してください。お願いします」と、私は頭を深く下げた。
「……いや、わかりました。とりあえず、今の治療はそのまま続けることにしましょう。……今後、発作が強くなって、もっと苦しむようになりますよ。それでもいいんですね」
 念押しをする口調だった。
「はい……なんとか、助けてやってください」
 俯いたまま、それだけ言った。
 死ぬ寸前まで、晶子には、激痛に悶え苦しんでもらわなくてはならない。鎮痛剤だとかモルヒネなんかを使って、晶子の痛みや苦しみが軽減されては困るのだ。死に至るその瞬間まで、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた上で死んでもらわなくてはならない。
 そうじゃなければ、心の奥底で身悶えしているもう一人の私は、とうてい満足できない。

「妻の晶子が」、と言えばいいのだろうか、「かつて妻だった晶子が」と言えばいいのだろうか……その「晶子」が、私たち家族の前から突然に姿を消したのは八年前の夏のことだった。
 上の息子が中学二年生、下の娘が小学四年生だった。あまりにも思いがけない妻の失踪で、私は当初、何が起きたのかさえ全く分からなかった。
 しばらくして、妻の会社の同僚から、以前から妻と付き合っていた男がいて、二人が同時に姿を消したということを教えられた。それで、ようやく事の経緯を理解したというわけだ。私は、本当に間抜けでトンマな夫だった。
 妻が姿を消した日から、この八年間、私は誰にも頼らず必死で二人の子どもを育ててきた。掃除、洗濯、食事の支度はもちろん、子どもの弁当作りだって何だってやった。子どもたちを養うために、必死で頑張った。
  妻が姿を消して一年ほど過ぎた頃、函館で晶子らしい女性を見たという噂を人づてに聞いたことがあった。
 私は、すぐに休暇を取って函館に出かけていった。晶子を連れ戻すためなんかではない。見つけ次第、ナイフで刺し殺すつもりだった。
 そこまでしなければ、とうていトンマな夫を裏切った妻への憎悪は消えそうになかった。私は、そのために、ちょうどポケットに入る大きさのナイフも手に入れた。
  一週間、函館の街を探し続けたが、晶子を見つけることはできなかった。
 その後、三年ほどして、小樽に晶子がいるという噂を聞いて、探しに行ったこともある。
 その時も、ポケットにナイフを入れて歩いた。
 しかし残念ながら、晶子を見つけることはできなかった。

 ぷつりと途切れたままの糸が繋がったのは、ついふた月ほど前のことだ。
  札幌にいる親戚が癌で入院したお見舞いに、駅近くの総合病院を訪れた。
 病室から出て、エレベーターの前に立っていた時のことだった。目の前で開いたドアから、晶子が青白い顔をして出てきた。
 以前に比べてすっかり痩せ細り、眼窩が落ちくぼみ、頬骨が異様に飛び出していた。でも、一目で晶子だとわかった。
 晶子はギョッとした表情で私を見たが、きっと私も同じような表情で彼女を見ていたのだろう。
  渋る晶子を誘って、ロビーに連れて行き、二人で話をした。
 最初、晶子は何も喋ろうとはしなかったが、時間がたつにつれて少しずつ口を開くようになった。彼女の話によると、家を出てから函館に行ったが、男とは間もなく別れたという。その後、札幌にやって来て水商売などをしながら生活していたらしい。
 体調が優れなくて、近くの病院を訪れたのがふた月ほど前のことで、検査の結果、進行性の癌が膀胱にできていることがわかった。この病院には、ひと月ほど前から入院して、ずっと治療を受けているのだという。
 晶子と話した後、私は、すぐに担当の医者に会い、しばらく別れて住んでいた夫だが、彼女の病状を詳しく教えてほしいと頼み込んだ。
 医者の話では、すでに癌細胞が臓器のいくつかと脊髄に転移しているため、もう治療のほどこしようがないということだった。
 その話を聞きながら、私は、晶子への復讐心が、心の奥底でめらめらと赤黒く燃え上がるのを感じていた。
 間抜けな夫を騙し、別な男と駆け落ちした晶子を復讐するのに、これはまたとない絶好のチャンスだ。晶子が、じわじわと苦しみ抜き、とことん痛みを味わい尽くして死んでいくように上手く仕組んでやるのだ。
 簡単には死なせはしない。晶子には、安楽死なんてありはしない。安らかに眠るような死は絶対にあり得ないのだ。死ぬその瞬間まで、もがき苦しみ、激痛に耐えて死んでいくのだ。それが、夫を裏切った妻の哀れな末路というものだ。
 私は、いぶかる晶子をなんとか説得して、帯広市内の病院に転院する手続きを取った。

  高校の帰りがけに制服姿の娘が病室に顔を出した。
「お母さん、どう、調子は?」
 娘は、屈託のない口調で晶子に訊きながら、ベッド脇の丸イスに腰を下ろす。
「ああ、香織かい……背中が痛くて痛くてね、たまらないの」
 晶子は、今にも死にそうな掠れ声で答える。「だいじょうぶよ。頑張って治療を受ければ、きっとよくなるから」
「もうダメだわ。もうすぐ死ぬだけよ」
「そんな弱気でどうするの。絶対病気になんかには負けないって強い気持ちで頑張らなくちゃ」
「もうこれ以上なんて頑張れないわ……痛くて痛くて、昨日の夜もひどかったし……もう、早く楽に死なせてほしいの」
「そんな、弱気じゃダメだって」
 娘は、あくまで明るい口調で母親を励まし続ける。  
 間もなく、晶子は、香織との会話に疲れたのか、グッタリとした様子で目を閉じてしまった。
  私は香織を連れてロビーに行き、自動販売機で飲み物を二つ買った。
「お父さん、いったい何を考えてるのよ?」
 イスに腰を下ろすなり、香織が私を睨みつけてきた。
「何考えてるって、ただ、お母さんがよくなってくれるように看病してるだけだ」
「そんなの嘘でしょ。娘の私だけは騙せないわよ。そんな殊勝な気持ちで看病なんかしてないでしょ?」
 香織の言葉に、内心ドキリとする。娘は、私の本心をどこまで見抜いているんだろうか。たかが高校生だと侮ってはいけない。私は娘の次の言葉を見守ることにする。
「家族を置き去りにして、他の男と駆け落ちしたお母さんのことを、お父さんはまだ許していないんじゃないの?……本当は、今も怨んでるんでしょ?」
 なかなか鋭いところを突いてくる。娘の前で、うっかりしたことは喋れない。
「じゃあ、逆に訊くが。お前はどうなんだ?お前は、お母さんを許せるのか? 小学四年生の小さなお前を置いて、他の男と姿をくらましたお母さんのことを、お前は心から許せるのか?」
 一瞬、娘は押し黙った。
「……そりゃあ、確かに許せないし、今でも怨んでるわ。それが正直な気持ちよ。
 でも、それと、病気で苦しんでいるお母さんのことは別でしょ。お母さんが辛そうにしてるのは、可哀想で見てられないの。早く楽にしてあげた方がいいんじゃないかって思うのよ……でも、お父さんは、痛み止めを断ってるって言うじゃない。それって、どういうことなの?」
「俺は、少しでも、お母さんに長生きしてほしいんだ。それだけだよ」と答えると、娘は、それ以上何も言わなかった。
 
  その夜も、次の夜も晶子は激しい発作に苦しめられた。ひと晩中、晶子はベッドの上でもがき苦しみ続けた。
 晶子は、左右に激しく身をくねらせながら「苦しい、苦しい。早く死なせて」と呻き声を上げた。
  看護師が何度か病室にやってきて、痛み止めを処方するかと訊いてきた。私は、そんなものは必要ないと断った。
  私の復讐が、もすぐ完遂しようとしているのだ。その悦楽を、誰かに邪魔されてたまるものか。
 かつて深く愛していた晶子。私の深い愛情に、裏切りをもって報いた晶子。そんな晶子を簡単に許すわけにはいかない。苦しんで苦しんで、苦しみ抜けばいいのだ。

 夜だけではなく、昼間も晶子は発作に襲われるようになってきた。
 再び医者に呼ばれ、この二、三日が山になるだろうと言われた。そして、再度、痛みを緩和する治療はしなくていいのかと訊かれた。
 そんな必要はない。一日でも長く晶子を生かしてほしいのだと、私は答えた。

  その夜も、晶子は身を激しく捻って苦しみ続けた。
「苦しい、苦しい……」と、酸素マスクを外して晶子は呻き声を上げる。
(苦しめ、苦しめ、もっと苦しめ)と心の中で呟いている時、不意に私の脳裏に若い頃の晶子の笑顔が鮮明に蘇ってきた。
 息子が、まだ一歳くらいで、公園に出かけた時の情景だった。
 妻の晶子が息子を両腕に抱き、緑色の芝生をゆっくりと歩きながら、私を見て微笑んでいた。眩しいほどの陽光が、あたり一面に降り注ぎ、晶子の笑顔が緑の光に包まれて輝いていた。
 あの時、その笑顔を眺めながら、私は、心の底から妻を愛おしいと思った。
「苦しい、苦しい……もう殺して」
 愛おしかった妻。心の底から愛していた妻。
 ……いや、私は、あの日から今日までずっと同じくらい妻の晶子を愛していた……。
 気がつくと、勝手に私の両腕が伸びて、悶え苦しむ妻の首を掴んでいた。
 それは、ひ弱で、か細い首だった。
「苦しい、苦しい、ねえ、早く殺して……」
 薄目を開けて、妻の晶子が私を見ていた。
 不意に視界が潤み、涙が一気に溢れてきた。止めどなく涙は次から次へと頬を流れ落ちていく。
 私は嗚咽を堪えながら、渾身の力を込めて、愛する妻の首を絞めた。