「彼の位牌は、書斎に置いてあるわ」
明美ちゃんは、リビングに入っていった北川さんに向かって、隣の部屋へ通じるドアを指さした。
でも、北川さんの背中に立っている僕には、目を向けようともしない。明らかに、僕の視線を避けている。
「うん、ありがとう。さっそく田嶋に、お参りさせてもらうよ」
北川さんはショルダーバッグの中から数珠の入った布袋を取りだし、書斎のドアを入っていく。
僕も、彼の後に続いて書斎の中に足を踏み入れた。
三方の壁が天井までの本棚になっていて、その中に本や雑誌が整然と並んでいる。横向きに押し込んである本なんて一冊もない。田嶋さんの几帳面で繊細な性格が現れてると思った。
正面の本棚に、小さな仏壇がはめ込まれ、その中央に白木の位牌が立っていた。
僕と北川さんは、仏壇の前に置いてある丸イスに腰を下ろした。明美ちゃんが書斎に入ってきて、そっと僕らの背中に立つ気配が伝わってきた。
北川さんは、手慣れた手つきでローソクに火をつけ、線香を立てた。そして数珠を両手に巻き、口の中で念仏を唱え始める。
僕も彼にならって両手を合わせ、「ナンマンダブ、ナンマンダブ」と仏壇に頭を下げた。「ねえ、この戒名、なんて読むんだよ?」
念仏を終えた北川さんが、背中に立ってる明美ちゃんに尋ねる。
「ブンサイインシャクヒロトコジ、よ」
彼女は、一音ずつ区切って、ゆっくりと読みあげた。
僕は、改めて位牌の文字を見た。
『文綵院釈洋人居士』
「その『文綵院』って院号、太宰治と同じなのよ。あの人、太宰が好きだったから、お寺さんにお願いして特別につけてもらったの」
「そう言えば、あいつ、太宰の中でも特に『きりぎりす』が好きだったな」と呟いて、北川さんはローソクの火を手団扇で消し、丸イスから立ち上がった。
二十五年前、僕は、北川さん、田嶋さん、明美ちゃんの三人と、東京の神保町にある下請け編集プロダクションで出会った。
北川さんと明美ちゃんは、そのプロダクションで働く同僚の編集者だった。田嶋さんは、その会社にフリーのライターとして出入りしていた。
僕と明美ちゃんは同じ歳ということもあって、すぐに仲良くなった。彼女に特別な感情を抱いたことはなかったけど、二人で食事に出かけたり、一緒に飲んだこともあった。
北川さんは、僕らより五つ年上で、雑誌班のデスクをやっていた。雑誌向けの文章の書き方や、レイアウトの基本を僕に教えてくれたのは、すべて北川さんだ。
田嶋さんは、もともと北川さんとは高校時代の同級生で、そのツテでプロダクションの仕事を手伝うようになったという。
僕と田嶋さんは、二人とも創作という共通の趣味があって、ほどなく親しい間柄になった。
仕事のくぎりがついたときなど、よく二人で飲みに出かけて、小説や映画や音楽の話などをした。僕の書いた小説を読んでもらって、感想を聞いたこともある。田嶋さんは、僕の小説の優れたところも欠点も鋭く見抜いて、丁寧に教えてくれた。
そのうえ彼は、ただ表現の仕方だけではなく、書き手の姿勢だとか覚悟についても僕に教えてくれた。
「自分の恥部を曝す覚悟くらいなかったら、人の心を揺さぶる小説なんて書けないよ。でも、露悪趣味に傾くのもよくない。人それぞれの美醜を冷静に見極め、喜怒哀楽の感情をうまくかぶせながら話を作っていけば、まあまあ面白い小説って書けるもんだ」
ビールを飲みながら、そんな言葉を呟いたことを、僕は今でも鮮明に覚えている。
ほどなく田嶋さんは、僕にとって心から信頼できる大切な存在になった。
職場で出会った人たちで、悪い人なんていなかったけど、プロダクションそのものは劣悪な仕事場だった。給料は安いし、残業も半端なく多かった。一週間ぶっ続けの徹夜なんてのもザラにあった。そのせいで、編集者は二年もしないうちに次から次へとやめていった。僕も、二年半くらいはなんとか持ちこたえたが、体調を壊したのを機に退職した。
もうその頃には、編集の仕事にすっかり嫌気がさしていて、東京に残ろうなんて気もなかった。それで、十勝に帰ってきた。
実家で療養しながら、教員採用試験の勉強をして、なんとか中学校の先生になった。
田嶋さんと明美ちゃんから、結婚したという葉書をもらったのは、それから三年ほどたった後のことだった。
「で、あいつの最後って、どんなふうだったのさ?」と、リビングのソファに腰を下ろしながら、北川さんが明美ちゃんに訊いた。
明美ちゃんは、冷えた麦茶の入ったグラスをテーブルに置くと、北川さんの正面に静かに腰を下ろした。相変わらず、僕の方はチラリとも見ない。ずっと目を逸らしたままだ。
それは、もうしょうがないことだと諦め、僕は黙って座っていた。
「彼ね、腎不全の病状が進んできて、もう三年くらい前から腹膜透析をやってたの。腹膜透析って、お腹に入れたカテーテルの管と、透析液の袋を繋いで透析する方法のことなんだけど、一日に四回もしなくちゃならないの。それで、あの人、最近は外に出かけることもしないで、ずっと家に閉じこもって小説を書いたり、好きな本を読んだりしてた」
「あいつ、まだ小説なんか書いてたのかい……?」
「ええ、レモン文庫の仕事よ。二ヶ月に一冊くらいの割合で仕上げなくちゃならないから、いつもネタ探しに苦労してたわ」
「レモン文庫の仕事? あいつ、そのレモン文庫で、どんな話を書いていたのさ」と、北川さんは、明美ちゃんと僕の顔を交互に眺めた。
明美ちゃんは、黙ったまま何も言おうとはしない。
仕方がなく、僕が説明することにした。
「講談館から出てる女子中高生相手のライトノベル文庫のことですよ。出版社で呼び名は違うんですが、同じような文庫シリーズがあちこちの出版社から出てるんです。あれって隠れたベストセラーとも呼ばれていて、けっこう売り上げがいいらしいんですよ」
「へえ、それは知らなかったな。で、あいつ、そのレモン文庫で、どんな話を書いてたのさ? まさか真面目な恋愛小説ってことはないだろ?」
横目で明美ちゃんの様子を伺ったけれど、彼女は相変わらず口を閉ざしたままだ。
「主人公の女子高校生が、ボーイフレンドの男の子を助手に使って謎の殺人事件を解決してくっていう、そんなたぐいの話でした。前に田嶋さんから送ってもらって、二冊ほど読んだことがあるんです。田嶋さんは、女性のペンネームを使ってたんですけど、文体も女の子風にしてました」
「へえー、あいつ、最近そんな仕事してたんだ。ぜんぜん知らなかったよ」
そう呟くと、北川さんはしばらく押し黙ったまま、ぼんやりとテーブルの上を眺めていた。
「二人とも知ってると思うけど、あいつ、二十歳の時に『文藝界』の新人賞とってるんだ。当時、史上最年少の受賞者とか言われて、けっこうマスコミから注目されてたんだ」
北川さんは、テーブルから麦茶の入ったグラスを持ち上げると、一口、ゴクリと飲んだ。それから、また明美ちゃんに向かって尋ねた。「……で、あいつの最後って、どんな様子だったのかな?」
明美ちゃんは、ちょっと考える素振りを見せてから、おもむろに口を開いた。
「あの日、昼飯の後に、近くのスーパへに買い物に出かけようと思って書斎を覗いたの。そしたらあの人、ソファに横になって腹膜透析やってたの。それで私、『ちょっと買い物してくるわね』って声をかけて外に出たのね。買い物が終わって帰ってくるのに一時間くらいかかったかしら。家に戻ってきたら、書斎のドアが開けっ放しで、なんとなく人の気配がしないから、どうしたんだろうと思って中を覗いたら、あの人、私が出かけたときと同じ格好でソファに横になってた。あんまり静かだから近づいていったら、目をつぶったまま、まるで眠ってるような感じで……」
そこまで一気に話すと、ちょっと口を閉じて、その時のことを思いだしてる顔つきになった。
「ちょうどレモン文庫の新作を書き上げたばかりだったから、あの人にしてみたら、区切りをつけた、いい時だったのかもしれないわ。今回は、まあまあいい作品が書けたって、珍しくあの人、私に自慢してたの」
明美ちゃんは、横目で僕を鋭く睨みつけてから、窓の方へ視線を向けた。
僕は、突き上げてくる感情を抑えながら、明美ちゃんの横顔を眺めていた。
北川さんから、田嶋さんが亡くなったという連絡を貰ったのは三ヶ月前のことだった。ちょうど学校の仕事が忙しい時期で、東京まで出てくる余裕がなかった。
ゴールデンウィークになって、ようやく時間が取れた。それで、北川さんに連絡を取って、一緒に田嶋さんのお参りに顔を出したのだった。
僕ら三人とも、グラスの麦茶を飲みながら、なんとなく押し黙っていると、突然玄関のドアが開いて、ジーンズにTシャツ姿の中学生くらいの男の子が入ってきた。そして、僕と北川さんの姿に気づいて、ちょっと驚いたように立ち止まった。
「お客さんに、『こんにちは』って挨拶くらいしなさいよ」と、すぐに明美ちゃんが怒ったように声をかけた。
彼は、黙ったまま小さく頭を下げた。
「あんた、口はないの?」
明美ちゃんの言葉にも、彼は何も言おうとしない。
「昔、お母さんやお父さんと一緒に仕事をしていた北川って言います。ちょっと遅れたけど、お父さんのお参りに顔を出させてもらいました」と、北川さんが小さく頭を下げた。
僕も、「こんにちは、杉本です」と、彼に挨拶した。
戸惑ったような表情を浮かべたまま、彼はきびすを返すと、玄関ホールを通って隣の部屋へと入っていってしまった。
「今、中学二年生になるんだけど、反抗期のせいか、私の言うことなんてぜんぜん聞かないの。この前も、自分の部屋くらいちゃんと掃除しときなさいって言ったら、急に怒り出して、部屋の壁をけっ飛ばして穴を空けちゃうし。まったく困ったもんだわ」と、母親らしい顰めっ面で呟いた。
「俺んとこの息子だって、おんなじだよ。高校一年生になるけど、母親のことをバカにして、何にも言うこと聞かないんだ」と北川さん。
「ところで明美ちゃんは、今どんな仕事してるんだよ?」
「印刷所から直接、編集の仕事をもらってるの。洗濯機の使用説明書とか、化粧品のパンフレットとか、観光案内の冊子とか。もうありとあらゆる印刷物よ」
「稼いでるね」
「どれも割のいい仕事じゃないわ。でも、途切れなく仕事を回してもらえるから助かってる。親子二人、なんとか生きていかなくちゃならないしね。……北川さんは何してるの?」
「おれは毎朝新聞の校閲部だよ。朝から晩まで、ひたすら小さな活字をにらみつけてる」と、北川さんは口の中で小さく笑った。
「そういう仕事って、私には耐えられそうにないわね」
「時には資料を確認しに書庫までいくこともあるけど、朝の九時から夕方の六時までほとんどは座りっぱなしさ。もう自分は人間なんかじゃなく、誤字を見つける機械になったような錯覚に陥ってしまうんだ。
……そう言えば、杉本は中学校の先生をやってるんだったよな?」
また、北川さんが、僕の方に顔を向けて尋ねてきた。
僕は、仕方がなく答える。
「ええ、英語の教員です」
「それで、今でも小説は、書いてるのかい?」
明美ちゃんが、そっと聞き耳を立ててるのがわかる。
僕と田嶋さんの間で起きたトラブルは、その「小説」が原因だった。だから、あまりその話はしたくなかった。
「ええ、暇を見つけて、少しずつ」
「『文藝界』とか、今でも送ってるのかい?」
「いえ、もうそういうのには送ってません。僕には新人賞なんて無理です。そんな才能がないってことに、この年になってようやく気づきました」
「じゃあ、書き上げた作品はどうしてるんだ? 同人誌にでも載せてるのかい?」
「地元の図書館から出てる文芸誌に載せてもらってます」
「ふーん、そういう方法があるのか?」
僕と北川さんが話し始めると、明美ちゃんはじっと口を閉じて、何も話そうとはしない。 北川さんも、僕と明美ちゃんの気まずい関係を察したみたいで、「そろそろ失礼しようか」と言ってくれた。
僕と北川さんは彼女のマンションを出て、町田駅前の大衆居酒屋に入った。
僕らは焼き鳥や刺身などを注文して、とりあえず生ビールのジョッキで乾杯した。
運ばれてきた鳥串を頬張り、少し酔いが回ってきたところで、北川さんが僕に尋ねてきた。
「おまえ、明美ちゃんと何かあったのか? ぜんぜん言葉も交わさないしさ。ずっと気になってたんだ」
「そのことなんですが、ちょっと話してもいいですか?」
訝しそうな目つきで、北川さんは僕を真正面から見つめた。
「今から五年くらい前のことなんですが、田嶋さんと僕の間でちょっとしたトラブルがあったんです。で、そのことがあってから田嶋さんとも、明美ちゃんともずっと絶縁状態が続いてたんです。年賀状のやりとりも、ずっとしてません」
「トラブルって、いったい何があったんだ?」
それで僕は、五年前に起きたことを話し始めた。
若い頃から僕の夢は小説家になることだった。それで大学に入った頃から、小説を書き上げては、純文学雑誌の『文藝界』や『群衆』の新人賞に投稿するようになった。
でも、何度小説を送り続けても一次選考さえ通過することはなかった。東京のプロダクションをやめ、北海道に帰った後も、僕は諦めずに投稿を続けた。
でも三十代の半ばを迎えたころ、僕は文藝誌の新人賞に応募するのをやめることにした。自分には、小説を書く才能がないことに、ようやく気づかされたからだ。
そして、もうこれが最後の作品だと思って書き上げた小説を、文藝誌には送らず、地元の図書館から出ている文芸誌に応募することにした。すると、思いがけず入選となって、僕の小説は冊子に掲載されることになった。
片田舎の文芸誌ではあるけれど、自分の作品が他人から評価されたことが、僕に少しだけ自信を与えてくれた。まだ小説を書き続けてもいいのだと背中を押された気がした。
それが、十五年前のことだった。
その後も僕は、仕事の傍ら地道に小説を書き続けた。そして仕上がった作品を、その文芸誌や、地元の地方新聞に載せてもらった。
中央の雑誌でデビューするという夢は果たせなかったけれど、ここが自分の到達点なんだと思って、僕は創作活動を続けた。
そんなある日、田嶋さんから二冊の本が送られてきた。それは、田嶋さんがレモン文庫で書き下ろしたライトノベルだった。添えられた手紙には、僕にレモン文庫で小説を書いてみないかという、思いもよらない言葉が記されていた。書き手が不足していて、毎月新作が発行できず、出版社も困ってるという話だった。
レモン文庫くらいだったら杉本にも書けるはずだ、と田嶋さんは書いていた。
彼の手紙を読んだ時、これはチャンスかもしれないと思った。もしかしたらプロ作家としてデビューできるかもしれない。そう思った。
ところが、実際に彼の小説を読んでみて、また気持ちが揺らいできた。
レモン文庫の彼の本は、少女マンガ風の安易なミステリ小説だった。密室殺人事件が起き、その謎を女子高生が解くという、べつに珍しくもない筋書きだった。
最後まで読んでみたものの、べつに面白いとは思わなかった。こういった小説を、自分で書いてみたいとも思わなかった。
たとえこんな物語を自分が書き、全国の本屋さんに並んで、それを女子中高生が買ってくれたとしても、なにも嬉しくない気がした。 それだったら、これまで通り三、四十枚の短編小説をこつこつ書き続け、地元の文芸誌で発表できたら、それで十分だと思えた。
迷ったあげく、そんな自分の気持ちを正直に書いて、田嶋さんに送った。
すると、彼からすぐに返事が届いた。
『レモン文庫に挑戦しないという君の考えは、僕には理解できない。これは、君にとって、作家デビューできる、またとないチャンスなのだ。違うだろうか?
そもそも君は、大きな勘違いをしてることに全く気づいていない。
君が今まで書いてきた小説は、どれも暗く、惨めで、ウジウジとした失敗談ばかりだ。明るく楽しい小説なんて、ひとつもない。
そんな陰鬱な話を、いったいどこの誰が読みたいと思うのだろうか。そんなの誰もいない。
はっきり言うが、君の創作行為は、単なる自己憐憫のマスターベーションにすぎない。自分が悲劇の主人公になりきって、その物語に酔いしれてるだけだ。
君は、他人に楽しんで読んでもらえる小説というものを、最初から勉強し直すべきだ。
まあ、せいぜい北海道の片田舎で、いっぱしの作家を気取って、これからも暗鬱な小説を書き続けるがいい』
彼の手紙を読み、僕は声も出ないくらい激しいショックを受けた。
たしかに彼の指摘するとおり、僕の書く小説は、自分の体験に基づいた暗い話が多かった。楽しい話や明るい話なんてほとんどない。 でも、暗い小説の、いったいどこが悪いというのだろう?
それに、僕が知ってる田嶋さんは、こんなふうに他人を侮蔑するような手紙を書く人ではなかったはずなのだ。たしかに彼はライターとして高いプロ意識を持ってるけれど、他人への思いやりが深く、謙虚で礼儀正しい人物だった。
それが、この悪意に満ちた手紙は、いったいどうしたことなんだろう?
僕は、何度も彼の手紙を読み返した。でも、いくら読み返しても、田嶋さんが僕に伝えたいことが理解できなかった。
ただ、これで僕と田嶋さんの親密な関係が決定的に壊れてしまった事実だけが理解できた。
それっきり僕は、田嶋さんに自分の小説が載った文芸誌を送るのをやめた。彼からも、ぴたりと音信が途絶えた。
「僕は、べつに田嶋さんがレモン文庫に小説を書いてることを非難しようなんて気はありませんでした。そういう小説を書いて、収入を得ている彼の生き方を否定しようという気もありませんでした。
僕が田嶋さんに伝えたのは、中央から本を出したいっていう夢はもう持ってないということと、北海道の片田舎で、これからも自分の書きたい小説だけを地道に書き続けていくっていうことの二つだけだったんです。
でも、きっと田嶋さんは、僕がレモン文庫の執筆を断ったことが不満だったに違いありません。その理由はよくわかりませんが……」
話してから、僕は、ジョッキに残ったビールを一気に飲みほした。口の中にホップの苦みがしばらく残っていた。
「田嶋さんが、僕とのトラブルを、明美ちゃんにどんなふうに話したのかはわかりません。でも、その後、年賀状もプッツリ来なくなりました。きっと僕のことを非難するような話を明美ちゃんにしたんだと思います。それで彼女も、僕のことを軽蔑するようになったに違いありません。今日だって、彼女は僕の方を見ようともしませんでした。もちろん僕には声もかけてくれませんでした……」
北川さんは、僕の話が終わった後、口を閉じたまま、しばらくじっと黙っていた。
「二人の間に起こったことは、だいたいわかったよ……。これは、おれの勝手な想像だけど、もしかしたら田嶋も、女子中高生相手の安逸なライトノベルなんて書くのは、苦痛だったのかもしれないな」
「それって、どういうことですか?」
「さっきも話したとおり、あいつは二十歳の時に、『文藝界』の新人賞を取った。高校時代の自分の恋愛体験を描いた暗い私小説だった。
あいつ、高校時代につきあってた女の子を妊娠させてるんだ。でも、相手の親がそれを知って、赤ちゃんを堕ろさせた。それから校長に直談判して、あいつを高校から退学させたんだ。そりゃもう、家族を巻き込んでの大変な騒動だった。
あいつが『文藝界』の新人賞を取ったのは、そのことを書いた小説だったんだ。
まだ村上龍が『限りなく透明に近いブルー』でデビューする前のことで、あいつはマスコミから相当にもてはやされた。
でも受賞第一作が上手くいかなかったんだ。書いても書いても編集部から突っ返された。たしか五つほど書き上げたんだが、どれも誌面に掲載してもらえなかった。それで、あいつは純文学を諦めたんだ。
その後のあいつの人生は、君も知っての通りさ。フリーライターとして雑誌の記事を書いたり、有名人のゴーストライターみたいな仕事をやったり。そして最近は、女子中高生相手のライトノベルを書いてた。
でも、もしかしたらあいつ、心の奥では、純文学を書きたいって渇望してたのかもしれない。でも家族の生活費を稼ぐために、せっせとレモン文庫を書き続けるしかなかった」
北川さんは、そこまでいっきに喋ると、大きなため息をついてから、しばらく口を閉じた。
それから、また僕を見て、話し始めた。
「だから、書きたい小説だけを、これからも書き続けてくっていう君の手紙を読んで、君を妬ましく思ったのかもしれない。
君に送ってきた手紙の裏に隠されたあいつの本音って、もしかしたらそんなところじゃないだろうか。あくまで、おれの推測だけどな。でも、なんかそんな気がする。
あいつはあいつなりに、鬱屈した想いを抱えて生きていたってことさ……たぶん」
そう呟くと、北川さんは哀しげな声で笑った。