ギックリ腰ラプソディー

 ハーッ、ハーッ、ハァーックション!

 鼻水と唾が、激しい勢いで飛び出した。

 背中を大きく折り曲げた姿勢のまま、春夫はズズッ、ズズズッと鼻水をすすり上げた。そしてズボンのポケットからハンカチを取り出し、ていねいに鼻の下を拭いた。

 次に春夫は、右手で腰のあたりを撫でた。くしゃみをした瞬間、背中の右腰付近にグギッと軽い痛みが走ったからだ。

 そのあたりを指先で軽く押してみた。ピリピリッと微かな痛みが伝わってくる。

 ヤバイ!だいじょうぶか?

 春夫は細心の注意をはらいながら、おもむろに腰を伸ばした。直立の位置まで戻すのに十五秒ほどかかった。

 よーし!痛みはない。ぜんぜんオーケーだ。 春夫は、独りごちるというよりも、自分を元気づけるように心の中で呟いた。そして誰もいないトイレ内を見回してから、深い安堵の吐息をはいた。

 ここは市内最高級ホテルの男性用トイレである。小用を終え、手洗い場に向かう途中、激しいクシャミに襲われたのだ。

 先日、六十歳の還暦を迎えたばかりの春夫は、これといった持病もなく、いたって健康体である。ただしギックリ腰だけは、もうかれこれ二十年以上も悩まされている。

 庭の雑草を引き抜こうとした時、低い椅子から慌てて立ち上がった時、靴箱から靴を取り出そうと屈んだ時、スコップで雪を放り投げた時……とまあ枚挙に暇がないくらい色々な場面でギックリ腰になっている。激しいクシャミでギックリ腰になったことも二度や三度では済まない。

 軽いギックリ腰程度だったら、湿布を貼って三、四日も静かにしてたらすぐ治る。でも時には、一ミリも動けないくらい重度のギックリ腰に襲われることがある。そうなると、イスに座ることも、立ち上がることも、一人でベッドに横になることもできない。トイレに入ったって、ズボンを下げることも、しゃがむこともできない。

 そんな時の妻の決まり文句は、「将来あんたが寝たきりになったら、私は迷わず介護施設にいれるからね。自宅で面倒なんかみないよ、わかってるでしょ」 

 春夫は、光GENJIの往年のヒット曲『ガラスの十代』をもじって、『ガラスの六十代』なんてうそぶいてみせる。でも本当は、忸怩たる思いを抱き続けている。

 話がそれてしまった。場面を、トイレの中に戻そう。

 背筋をグイッと伸ばし、軽く胸を反り気味にした春夫は、そっと右足を前に出してみた。

 うん、だいじょうぶだ。足を動かしても痛みはない。次に左足だ。ゆっくり一歩。よーし、こっちもオーケーだ。

 春夫は一歩ずつ進んで、手洗い場の前に立つ。それから、鏡に映った自分の顔と服装をじっくり点検した。

 顔色はやや青白いが、どこにも鼻水はついてない。口の周りもきれいなもんだ。スーツにも汚れはないし、ネクタイだって曲がってない。

 よーし、こっちも問題なし、カンペキだ。

 もうじき始まる結婚披露宴で、春夫は乾杯の発声をしなくちゃならない。こんな大事な時に、ギックリ腰なんかやってられないのだ。

 春夫はトイレを出ると、胸を張り、ゆったりした歩調で厚い絨毯の上を歩き始めた。

 広いホールのあちこちでは、ぴったりしたダークスーツを粋に着こなした若い男性や、淡い色合いの薄地のワンピースをまとった若い女性が集まって談笑してる。いかにも結婚披露宴といった華やかな雰囲気である。

「佐藤係長さん!」

 背中から女性の軽やかな声がかけられた。歩を止め、春夫はゆっくりと後ろを振り返る。

 ニッコリと微笑みかけてくる若い女性の笑顔が、目の前にあった。茶色の髪をアップにし、クッキリと色鮮やかなルージュを引いた女性は、南郷亜里砂である。彼女は、春夫が退職したこの三月まで彼の下で働いていた。

「乾杯の挨拶、頑張ってくださいね!」

 その時、「係長!」と声高に言いながら、彼女の横に細顔の若い男が現れた。

「おお、前川君、久しぶりだね」

 前川も、春夫の部下だった。

「今日は、お疲れさまス。係長、笑える挨拶、期待してます」と前川が目を細めて言う。

「おお、任せといてくれ」と春夫は、いつものように右手で胸をドンと叩いた。

「……ところで君たち、どうだい、仕事の方は、うまくいってるかい?」

 春夫の言葉に、前川と南郷が、なんとなく横目で視線を絡み合わせる。

「ええ、まあ、相変わらずス。ただ係長が退職されてから、岩田部長が何でも好き勝手に言ってきて、私たち若い者は、ちょっと振り回されてるス」と前川。

「うむ、そうか……」

 それは、まさに春夫が危惧していたことだ。

 岩田は、春夫の二つ年下の後輩である。行動力があって機転も利き、口も達者な岩田は、瞬く間に春夫を追い抜き、いつのまにか部長職にまで出世してしまった。世渡り上手で、上に取り入るのがうまいが、部下には手厳しい。

 岩田が、陰で春夫のことを「万年係長どまりの、うだつの上がらないヤツ」と馬鹿にしているのは知ってた。

 でも、俺は俺の人生だと、じっと我慢してきた。

「係長さん、再任用でもなんでも、そのまま会社に残ってくれたらよかったのに」

 南郷が、春夫の顔を真正面から見つめて、小さな声で呟く。

 春夫は、返す言葉を失って、足下へ視線を落とした。

 春夫は、上司にさほど評価されることもなく、五十過ぎになって、ようやく係長になった。若い頃は、部長くらい目指す気概は持ってた。でも、いつしか自分には無理だと諦めるようになった。そのかわり、せめて年下の若い社員たちを温かい気持ちで見守り、育てるのを自分の使命にしようと心に決めて頑張ってきた。

 上役から若い職員が叱責されそうになったとき、いつも春夫が、その防波堤の役目を負った。そのせいもあって、相変わらず上からの評価はよくはなかったが、部下職員からはいつも頼りにされてきた。それだけが春夫の矜持であり、誇りだった。

 今回、結婚披露宴を開くことになった新郎の高井丈晴も、この春まで彼の部下だった。

 高井から「乾杯の発声」を頼まれた時、春夫はとても嬉しかった。こんなふうに部下たちから慕われてる自分の生き方は間違ってなかったんだと思った。

 でも、すぐに乾杯の発声は固辞した。それは社長にお願いするのがスジだと高井を説得した。この会社で長く働いていくつもりならば、それが最善の策だと。

 それにもかかわらず、「いや、お世話になった佐藤係長さんに、なんとしてもお願いしたいんです」と何度も頭を下げられ、とうとう引き受けることにした。

 これは、俺にとって最後の花道かもしれない。万年係長だった俺の、最初で最後の晴れ舞台だ。そんなふうに考え、春夫はひと月以上前から挨拶の文章を練り、何度も復唱して完璧な挨拶ができるようにした。

 さて、またまた話が横にそれた。話を披露宴会場に戻す。

 前川と南郷から離れ、春夫は入り口ドアの横にある受付に近づいていった。腰の調子が心配で、早く歩くことができない。

 受付の女性に自分の名前を伝え、会費の一万五千円を渡していると、喪服姿の中年男性と、その妻と思われる黒紋付き姿の中年女性が、慌てた様子で春夫の目の前にやってきた。「高井の父です。息子が、いつもお世話になっております。本日は、乾杯のご発声をお引き受けくださり、誠にありがとうございます」と、夫婦二人で深々と頭を下げられた。

 あわてた春夫は、「あ、いえいえ、在職中は、こちらの方こそ息子さんにお世話になりました。今日は、どうぞよろしくお願いいたします」と、勢いよく腰を折った。

 と、その時、グギリッ!

 腰を、鉄ハンマーで殴られたような激痛が走った。

 ウッと、春夫は口の中で呻いた。

 腰を九十度に折ったまま、身動きできなくなった。

 相手の高井夫婦は、春夫がいつまでも腰を深く折ったままなので、なかなか腰を上げられず、顔だけ上げたり下げたりしている。

 春夫は、深く息を吐きながら、痛みが去るのを待った。一分ほどして鈍痛が和らいできたとろで、おもむろに上体をあげた。しかし一センチ上げる度に、ギリッ、ギリッと腰が切断されるような痛みが走る。

 春夫は歯ぎしりして、その激痛に耐えた。 ようやく上体を持ち上げ、なんとか直立の姿勢に戻ったところで、ひと息ついた。

 額から首筋、背中にかけて、脂汗がじっとりと滲んでいた。

 顔を上げた高井夫婦が、春夫の異変を察知して、「あのー、どうかしましたかぁ?」

「……あ、いえ、なんでもありません。……それでは、また後ほど」と答えながら、春夫は、ゆっくり腰の向きを変え、ソロリと右足を前に出した。

 ズキリ! 激痛が、腰から脳髄まで突き抜ける。

 痛みをこらえながら、春夫はさらに左足を前に出す。

 グキリ!

 腰の筋肉が、引きちぎられるようだ。

 ええい、これくらいで負けるものか!

 自分を叱咤激励し、十センチくらいの歩幅で、そろりそろりと自分の席へと進んでいく。そんな春夫の様子を、高井夫婦は、心配そうに見ていた。

 五分ほどかかって、新郎新婦が座る高砂の正面テーブル席にたどり着いた。まるで一週間以上もかけてサハラ砂漠を踏破したような疲労感に襲われた。イスの横に立ち、春夫はハアハアと激しい息を繰り返す。

 これは、今までで経験したギックリ腰の中でも、超最悪級だ。でも、乾杯の発声を終えるまでは、絶対に負けられない。なんとしてでもやり遂げるんだ。これは、俺にとって一生一代の大舞台なんだ!

 春夫は、イスを引き、おもむろに座りかけた。と、その時、急に不安に襲われた。

 いったんイスに座ったら、挨拶の時に立ち上がれなくなるんじゃないか? さて、どうしたもんだろう? 

 そんな逡巡を抱えて立ち尽くしていると、「よお、佐藤係長! 久しぶりだな」と声をかけてくる男がいた。 

 見るとテーブルの反対側で、部長の岩田が、ニヤついた笑顔で春夫を見ている。

「ご無沙汰してます」と、春夫は、上体は少しも動かさず、頭だけ軽く下げた。

「元気そうじゃない。よかったよかった。その後、何も音沙汰ないから、どうしてるんだろうかって心配してたんだ。ところでサ、今日は乾杯の発声を頼まれてるんだって? いやはや、社長を出し抜いて、あんたもヤルねぇ。会社じゃ、ちっとも仕事できなかったけど、若い人たちからは愛されてたんだねえ、いやあ羨ましいよ……」

 春夫は、黙ったまま岩田の話を聞いてた。特に、怒りの感情も湧いてこない。

「途中で挨拶忘れて、黙り込んだりしちゃダメだぞ。今日はめでたい席なんだから」と言うと、岩田はさっさとイスに座った。

 春夫が、迷いながらも立ち続けていると、「そろそろ開始のお時間になりました。会場内の皆様は、お席についてくださりますようお願い申し上げます」とアナウンスが入った。

 仕方がなく、両足を広げてガニ股の格好になり、両手でテーブルの端を掴みながらソロリソロリと少しずつ腰を下ろしていった。腰を下降させるたび、ギリッ、ギリッと五寸釘でも打ち付けられるような痛みが背中を突き抜ける。ウウッ、ウウッと、口の中にうめき声が漏れる。

 春夫の右側に座ってる高齢の男が、いぶかしそうな目つきで、春夫の不自然な様子を伺っている。まるで不審者か犯罪者でも眺めるような目つきだ。

 なんとかイスに腰を下ろしたとき、春夫の背中はビッショリと汗をかいていた。

 イスに座ったものの、心臓のドキッドキッに共鳴するように、激痛のズキッズキッが背骨に食い込んでくる。

 俺は、もうこのまま二度とイスから立ち上がれないかもしれない。そんな不安を抱えながら、じっと痛みに耐えた。

 しばらくして会場が暗くなり、華やかな音楽に合わせて、新郎新婦が入場してきた。会場内に、熱い拍手が湧き起こる。

 高砂の席に若いカップルが座ると、アナウンスの進行に沿って、来賓の挨拶、友人代表の挨拶とプログラムが進んでいった。

 その間、春夫はじっと目をつぶり、ひたすらテーブルの端を両手で握りしめて、痛みに耐え続けた。

「さあ、それでは乾杯のご発声を、この春まで新郎の職場の係長さんを務めておられた佐藤春夫様にお願いいたします!」

 そのアナウンスを聞いて、春夫は閉じていた両目を、カッと見開いた。スポットライトが、自分を眩しく照らしている。痛みに堪えながら、春夫は両足にグイッと力を込め、おもむろに立ち上がりかけた。

 グギリッ!

 激しい電流が腰から脳髄へと突き抜けた。 ウウッ! 

 中腰の姿勢のまま、春夫はゆっくりと深呼吸を繰り返した。十秒ほど時間がすぎた。春夫は、エエイッと必死のかけ声を発し、死力を尽くして上体を持ち上げた。

 激痛のせいで意識を失いそうだ。視界の隅を、赤色の光が明滅している。

 鬼のような形相を浮かべ、歯ぎしりしながら立ちつくしている春夫の異変を察知して、ホテルの担当者がワイヤレスマイクを持って近づいてきた。

 春夫は、そのマイクを右手で掴むと、ゆっくりと口元に寄せた。そして、絶え絶えの意識の中、記憶していたセリフを、必死に喋った。    

「ほ……ほ、本日はお日柄もよく、し……新郎のタケハル君、新婦の、サ……サ……サヤカさんの結婚披露宴が、か……かくも盛大に挙行されるにあたり、か……か……会場の皆様方と共に、お……お二人の新しい出発を、お……お……お祝い申し上げます。

 す、す……末永く、お幸せな……ご、ご家庭を築かれん、築かれんことを、……お祈りもうし、あ、あ……あげます。

 それではか……か……カンパイ……」

 会場内に「乾杯!」の大合唱が響き渡った。

 大役をやり終えた満足感と、消えゆく意識の中で、春夫は息も絶え絶えに訴えた。

「……だ……だ……誰か……き……救急車を……呼んでくれぇー……」

 しかし、彼の掠れた声は、会場内の喧噪にかき消されて、誰にも届かなかった。