黒いヘビ

 

 

 オレの中に、黒いヘビが住んでいる。
 普段、ヤツは、暗闇の奥でじっと静かにしている。でも、ときどき目覚めると凶暴な力で激しく暴れまわる。ヤツが暴れ出すと、オレは、それをとめることができない。ヤツの激しい力にオレの体はねじ伏せられ、支配されてしまう。

  ヤツがオレの中に入ってきたのは、小学四年生の夏のことだ。
 その日、朝から汗が噴き出すほど蒸し暑かった。失業中の親父は、いつものように台所の薄暗がりに座り込み、焼酎瓶を膝に抱えてベロベロに酔っ払っていた。
 オレが、茶の間のテーブルに向かって夏休みの宿題に取り組んでいると、親父が背中から近づいてきた。
「クソにも役立たん勉強なんかやめてしまえ! なおバカになるだけだ」
 ロレツの回らない舌で呟くと、オレの頭を小突いてきた。勉強しているオレに、親父がからんでくるのは、いつものことだった。殴ったり蹴ったりしてこないだけ、まだマシだ。オレは、親父を無視して勉強を続けた。
 突然、オレの側頭部に衝撃が走った。世界がグルリと回転し、気がつくとオレの体は冷蔵庫の前に倒れていた。
 オレは、両手で頭を抱え、親父を見上げた。親父は、鬼のような赤い目でオレを見下ろしていた。半開きになった口許からは、ヨダレが休みなく流れ落ちてくる。
「なんでキサマは、オレを無視するんだ! オレはキサマの父親だぞ! バカにするな、チクショウめ!」
 獣が吠えるように叫び上げながら近づいてくると、オレの体を蹴り上げようとした。
 オレは、ヒョイと跳んで、父親の蹴りをかわした。親父は、重心をくずしてドスンと尻もちをつき、床に倒れ込んだ。ハアハアと激しく息をしながら、焦点の合わない目でオレを睨んでいる。
「朝っぱらから酒なんか飲んでないで、外に行って働いてこいや!」
「生意気言うな! このクソガキが!」
「るっせえ! クソ親父!」
 立ち上がろうとしてる親父を横目で見ながら、オレはアパートの玄関から外へ飛び出した。そして狂ったように走りはじめた。
 つい一年前まで、親父は、無口だが心優しく頼りになる男だった。それが会社をクビになり、失業してから、家に閉じこもって酒ばかり飲むようになった。母親は、そんな親父と毎日口げんかを続けたあげく、突然家を出て行ってしまった。
 毎日酔っ払っている親父、自分を置いて消えてしまった母親、親父を社会の落伍者に変えてしまった世の中、そんな全てに対する怒りと、やるせない悲哀の入り交じった感情が、オレの胸を締めつけていた。
  どこをどう走ったのかわからない。気がつくと、いつも友達と遊んでいる神社の森の奥に来ていた。鬱蒼としげる薄暗い木々の下をゆっくり進んでいくと、眩しい陽光が射している空き地に出た。
 見ると、低い窪地の底に、渦を巻いた黒いロープが投げ捨ててあった。遊びに使えるかもしれない。そう考えて手を伸ばしかけたとき、渦の中心がフワリと浮き上がった。
 オレはヒャッと叫んで、二、三歩後ろへ飛び退いた。よく見ると、それは三十センチばかりの小さな黒いヘビだった。
 ヤツは首を宙に掲げると、威嚇するように赤い舌をヒュルヒュルと伸ばした。
 動揺した気持ちが落ち着くいてくると、ヤツに対する憎悪がムラムラと湧いてきた。ちびっこいヘビのくせして、オレ様を脅かすなんて生意気な奴だ。
 オレは、あたりを探して太い棒切を拾い上げる、渾身の力を込めてヘビの頭に振り下ろした。何度も何度も、ヤツの体が動かなくなるまで。気がつくと、ヘビの頭は平たく潰れ、草の上にグッタリと横たわっていた。
  いい気味だ。オレ様を驚かした罰だ。
 オレは、棒切れの先でヤツの頭部を刺し抜き、長い体をクルクルと振り回しながら、森の出口を探して歩き始めた。
 ヤツがオレの夢の中に現れたのは、その夜のことだ。ヤツは、森で見つけた時と同じようにとぐろを巻き、首を高く伸ばして、赤い舌をヒュルヒュルと揺らしていた。
 ヤツは、オレを睨みつけると呟いた。
「お前の憎しみは、オレの憎しみだ。お前の悲しみは、オレの悲しみだ。オレは、今日から、おまえの中に住まわせてもらうからな」
 最初、それは単なる夢にすぎないと思った。でも、そうではなかった。ヤツは、本当にオレの中に入り込んできたのだった。
 その夢から三日ほどが過ぎた夜、焼酎を飲んで酔っ払った親父が、またオレに殴りかかってきた。親父への憎悪がムラムラとわき上がってきた時、不思議なことが起きた。オレの口から赤い舌が飛び出して、ヒュルヒュルと揺れるのが見えた。オレの体は、誰かに支配されるように勝手に動き出した。オレは、玄関脇に立てかけてあったバットを掴み、親父の体めがけて殴りかかっていった。
 親父が、恐怖の表情を浮かべて、オレを見つめた。「やめろ、やめろ!」。叫びながら床に倒れ込んだ親父の体に、オレは、何度も繰り返しバットを打ち下ろした。
 右腕と肋骨を骨折した親父は、その後オレを恐れて近づいてこなくなった。ザマアミロと、オレは心の中で思った。

 

 中学二年生の時の事件も、ヤツの仕業だった。あの頃、オレは学年の不良グループから深刻なイジメを受けていた。
 裸にされて写真を撮られたり、万引きの手先にされたり、小銭をせびられたりした。連中の言うことに服従しないと、殴られたり、近くの川で水に突き落とされたり、そんなことが毎日のように続いていた。
 ある日、オレは連中に二千円貸してくれと頼まれた。どうしても断ることができず、オレは自分のバイト代を渡した。すると次の週には、五千円持ってこいという。
 そんなお金は持ってないと答えると、トイレに連れこまれた。四、五人で羽交い締めにされ、ズボンとパンツを脱がされて、お尻にタバコの火を押しつけられた。あまりの熱さに大きな叫び声を上げると、連中に大笑いされた。その後、スマホで写真を撮られた。
 五千円持ってこないと、この写真をばらまくぞと脅された。
 その日の夕方、オレは仕方がなく父親の財布から五千円を盗んで、連中に渡した。ヤツラは、そのお金を持ってカラオケ店に遊びに出かけていった。
 それから一週間ほどは何事もなく過ぎた。
 でも、また廊下に呼び出され、今度は一万円持ってこいと要求された。
 そんなことは、もう無理だと答えた。すると再びトイレに連れ込まれた。大便器の底に顔を押しつけられたまま水を流された。オレの頭も顔もびしょ濡れになった。その様子を、またスマホのカメラで撮られた。お金を持ってこないと、便器に顔を沈めた写真を学校中に配るぞと言われた。
 そんなことをされたら、もうオレは生きていけない。それだけは勘弁してくれと床に土下座して泣いて頼んだ。
「だったら川に飛び込んで死んじまえ」と、ばか笑いをしながら連中はトイレから出ていった。
 このままトイレの窓から飛び降りて死んでしまおう。そう考えながら便器の横にうずくまり、声を押し殺して泣いていた。
 その時だった。耳元でヒュルヒュルという唸り声が聞こえた。長く細い舌が、自分の口から飛び出し、大きく上下にくねるのが色鮮やかに見えた。視界が白っぽく霞んだと思った瞬間、オレの体は勝手に動き出していた。黒いヘビのヤツが、オレの体を支配してる。咄嗟に理解した。
  オレは、トイレの掃除用具入れの戸を開け、床拭き用のモップを取り出した。そして廊下に飛び出すと、モップを右手に高く掲げて、連中に向かって一気に突進していった。
「てめえら!死ね!」
 振り返ってオレを見たヤツラは、驚愕の表情を浮かべた。オレは、先頭の男の顔面めがけて、モップの金属部分を勢いよく打ち落とした。
 そのままの勢いで、次から次へとモップの先を、連中の頭へと振り落としていった。三十秒とたたないうちに、ヤツラ全員が顔や頭から血を流して、廊下の隅にうずくまっていた。
 たまたま通りかかった生徒が、その惨状を見て、職員室へ教師を呼びに走っていった。教師の連中がやって来た時には、オレの体は自由になっていた。黒いヘビは、オレの体の奥へ姿を消してしまった。
 結局、その事件は、深刻ないじめに耐えられず、やむを得ず取った自己防衛だったということで処理された。
 その事件を契機に、不良グループと一緒になってオレを小馬鹿にしていた連中は、誰もオレに近づいてこなくなった。オレを恐れて遠くから眺めている様子を見て、オレは少しだけ爽快感を覚えた。ヤツラより、自分の方が偉くなったような気がした。
 でも、気軽に話せる友達が一人もいなくなったのは、正直つらかった。
 
 大学生になり、オレに好きな女性が現れた。
  彼女を初めて見たのは、学生食堂でのことだった。オレがランチを食べていると、向かいの席に、髪をショートカットにした女の子が、友達と二人連れで腰を下ろした。
 彼女をひと目見た瞬間、まるで胸ぐらを掴まれて引っ張り込まれるような衝撃をを受けた。一目惚れだった。
 彼女は、楽しそうに会話をしながら、ゆっくりと時間をかけてハンバーグ定食を食べた。オレは、彼女の微笑んだ顔から瞬時も目を離せなかった。
 ランチが終わって食堂から出て行く二人の後を、オレはゆっくりと追いかけた。
 二人は文学部棟の建物に入っていくと、三階の広い講義室の中へと姿を消した。オレも二人の後について入り、教室の隅のイスに腰を下ろした。まもなく白い髭を生やした教授がやって来て、出席を取り始めた。
 オレは、彼の声にじっと耳を澄ませた。すると、「ヤマモト・シオリ」という名前のところで、彼女の細く柔らかい返事が聞こえた。
 ヤマモト・シオリ。
 オレは、その名前を呪文か何かのように口の中で何度も繰り返して唱えた。そうしていると胸がドキドキと激しく打ち、体の底が熱く火照ってきた。
 その日から、退屈でつまらなかった大学生活が、急に生き生きと鮮やかな色彩を帯びてきた。朝、目が覚めるのが楽しみで、オレは誰よりも早く大学に出かけた。そして、キャンパスの正門横に立って、学生たちが登校してくるのを待った。シオリは、週のうち三日間は、一時間目の講義を受けるために九時前にやって来た。
 スカートの裾をなびかせ、リズミカルな歩調で歩いてくるシオリの姿を遠くから眺めてるだけで、ワクワクと幸せな気分になった。
 入学後、オレと仲良くなった法学部の男が、たまたまシオリと同じギター・マンドリンクラブに所属していた。
 オレは、彼に頼みこんで、大学のカフェでシオリに紹介してもらうことにした。カフェに現れたシオリは、淡いオレンジ色のサマーセーターに、白いプリーツスカートをまとっていた。小柄でほっそりと痩せたシオリに、そのファッションはよく似合っていた。
「ヤマモト・シオリです、よろしく」
 彼女は、細くて甘ったるい声で小さく頷くと、ニコリと微笑んだ顔をオレに向けた。その笑顔は、天使のように純粋無垢で可愛らしかった。シオリのやさしげな視線に釘付けにされて、オレは身動きひとつできなかった。
 友人に促されて、ようやくオレは自己紹介することができた。それから一時間ほど、好きな映画や音楽の話をしているうちに、打ち解けた雰囲気になってきた。
 その夜、オレはシオリと顔見知りになれた嬉しさで、なかなか寝つけなかった。
 オレとシオリは、その日から、キャンパスで顔をあわすたびに、軽く挨拶を交わすようになった。                       
 それまでオレは、女の子とつきあった経験はまったくなかった。だから、女の子にどんな風にアプローチをしていったらいいのかよくわからなかった。
 ギター・マンドリンクラブの友人が、食事や映画、コンサートなどに誘ったり、時にはプレゼントなどを贈って、女の子の歓心を買ったらいいと教えてくれた。オレは、友人のアドバイスに従い、シオリを食事に誘ったり、映画やコンサートなどに連れて行った。
 奨学金をもらい、バイトで生活費を稼ぎながら大学生活を送っているオレにとって、そうした出費は決して小さくははなかった。でも、大好きな女の子が、目の前で楽しそうにしているのを見るのは、お金に代えられない至上の喜びだった。
 シオリと、そんな関係になって半年ほどが過ぎた十一月のことだった。
 街中にネオンが灯りはじめる夕暮れ時、オレは駅前の繁華街を歩いていた。
 ふと目の前を歩いている男女の後姿が目にとまった。女性は、男の左腕に抱かれ、その肩に頭を埋めるようにして歩いていた。北風を受けるたびに、女性の栗色の髪が微かになびいた。
 一瞬、ギクリとした。両足が硬直したまま、その場から動けなくなった。ほっそりと痩せた背格好、風になびく茶色の髪、暖かそうなキャメルのコート、首元にゆるく巻いてあるマフラー。それらのどれもが、つい三日前に見たシオリの姿そのものだった。
 何が起きているのか、咄嗟にわからなかった。でも、しばらく思いを巡らしているうちに自分の置かれている状況が見えてきた。
 たぶんオレは、ずっとシオリに騙されていたのだ。
 シオリは、ニッコリと可愛い微笑みを浮かべ、この半年間、オレをすっかりその気にさせていたのだ。オレに対する気持ちなんて少しもないくせに。
 オレは、欺されてるとも知らず、膨大な金とエネルギーを、せっせとシオリのために消耗してきたのだ。
 シオリの欺瞞に対する憎悪の感情が、じわじわと胸の底から燃え上がってきた。
 不意に、オレの耳元でヒュルヒュルという唸り声が聞こえた。長く細い舌が、自分の口から飛び出し、大きく上下にくねるのが色鮮やかに見えた。
 オレは、改めて二人の後ろ姿を睨みつけ、やや距離を置いて、その後についていった。
 二人は、肩を寄せ合ったまま歩き続けると、洋風の洒落た雰囲気のレストランの中へ入っていった。
 オレは、舗道の端に立ち、レストランの窓から二人の様子を眺めていた。
 二人は窓際のテーブルに向かい合わせに座ると、楽しそうにお喋りを始めた。
「メス豚め、オレをさんざん弄んだな。お前のやって来たことを、オレは絶対に許さないぞ。必ずひどい目に合わせてやるからな」
 オレの中で、憎悪に狂った誰かが呟いていた。