夏の終わりに(標津抒情3)

 あたりの砂浜に人影はなかった。
 夕暮れ間近の弱々しい陽光が、目の前に広がる風景を淡いオレンジ色に染めあげている。遙か彼方までのびている水平線。うっすらと霞のかかった国後の島影。規則的に砂浜に打ち寄せる波。風になびく丈の低い草。
 夏の終わりのうら淋しいオホーツクの海岸風景だった。
「……せんせい」という声が遠くから風に飛ばされてきたようで僕は背後をふりむいた。 海沿いの低い家並みから、こちらに向かってくる人影があった。よく見ると、それは吾妻香織という中学三年生の女の子だった。この五月に根室市から転校してきた生徒だ。僕が授業を教えているクラスの生徒ではないが、休み時間になると職員室にやってきて、年若い教員に声をかけてまわる。人なつっこい性格に見えるが、気に入らない教員のところへは寄りもしない。好き嫌いが激しく、要するにわがままなのだろう。制服のスカートをくるぶしまで長く伸ばし、軽くパーマをかけた髪は茶色に染めている。
 以前、担任の美術の教師から吾妻香織について話を聞いたことがあった。
 香織は、根室では母親との二人暮らしだった。漁師をしてた父親は、彼女がまだ幼稚園の頃に船が沈んで亡くなっているらしい。それ以来、香織は母親一人の手で育てられてきている。
 それが中学校になってから急にグレだし、酒からタバコからシンナーまで経験して、授業はサボる、無断で外泊はするで、母親の手ではどうしようもなくなり、この標津に住んでいる伯母夫婦のところに預けられたというのが、転校の真相のようだった。
 ただし根室の母親というのも、漁師相手に居酒屋をやっているらしいのだが、男にだらしなく、香織を一人家に残して男の家に泊り込むことも多かったという。
 香織は、言いかえれば、そういう家庭環境の犠牲者だともいえた。
 砂浜を走ってきた香織は、僕のそばまでくると、ハアハアと大きく息を切らして砂の上に仰向けになった。
「あーあ、息が苦しい」
「何してるんだよ、こんなことろで?」と僕は砂に寝ころがっている香織に訊いた。
「私は、ただ散歩していただけよ。伯母さんの家にいたってなんにもおもろいことがないんだもん……それより、先生こそ何してたのさ? さっきからじっと海ばかり眺めてて」「友達のこと思い出していたんだよ」
「ウソでしょ、彼女のことじゃない? なんか深刻そうな顔してたわよ」と言いながら、香織は上体を砂の上に起こした。
 丸顔の中で大きな目が、悪戯っぽそうに僕を凝視めている。
「大人になるとさ、いろいろあるんだよ。それより、おまえ夏休みは何してた? 根室には帰ったのか?」
 香織が、やや俯き加減に首を振ったのを見てから、僕はまずい事を訊いてしまったことに気づいた。
「じゃあ、どこか遊びに行った? 買い物でもしにさ、釧路かどこかに?」と少しでも話題を逸らそうと、わざと明るく尋ねてみる。 ううん、とふたたび香織が首を横に振る。「先生はどこ行ってきたのさ?」と、香織がふてくされたように訊く。
「うん……ほら、先生の実家、帯広だろ。だから十日ほどそこでぶらぶらして、そして帰ってきただけだよ。まだ車も持ってないしさ、だから他はどこにも行けないんだよ」
「でも、親の家に帰れただけでもいいよね」「まあな。親と顔合わしていても、口げんかくらいしか、することないけどな」
「先生くらいの歳になっても、親と口げんかするの?」
「そりゃあするさ。でも、最近はなるべく無視するようにしてるんだ。五十過ぎた親と喧嘩しても、意味ないだろう?」
 香織は、ちょっと考える風を見せてから、「私はまだ無理だわ、無視するなんて。だってすっごく腹たつのよ。家にいた頃は、顔を合わすたびに怒鳴りあっていたわ。向こうだって、すぐカッカッするんだもん」
「女同士だからじゃないか?」
「関係ないわ、そんなこと。だってひどいのよ、ぜんぜん連絡もしないで二、三日家に帰ってこなかったり、その上、ご飯のお金、一円も置いていかなかったりするんだもん。私に餓死すれっていうのかしら?」
 香織は、吐き捨てるように言う。でもその口ぶり自体が、親に対する甘えであるようにも感じられる。
 気がつくと、すでに陽はほとんど落ちて、薄青い闇があたりの風景をうっすらと染めていた。灰色の海の上には白い靄が漂っていて、国後の島影はもう見えない。
「さあ、そろそろ帰ろうか」と、僕は立ち上がって、ズボンについた砂を振り払った。
「ねえ、今から先生のところに遊びに行っていい?」と、立ちながら香織が訊いた。
「先生は構わないけれど、でももう時間が遅いぞ。伯母さんが心配するんじゃないか?」「晩ごはんは七時からなの。……ねえ、ちょっとだけ、三十分だけでいいから、いいでしょう?」
 香織の懇願の口調と、親に会えなかった香織の夏休みの事を考えると、これくらいの希望は叶えてやってもいいように思えた。
「じゃあ、ほんとに三十分だけだぞ」

 香織は、独身寮の僕の部屋に入ってくると、まるで犬のように鼻をくんくんいわせて匂いを嗅ぐ仕種をしながら、「男くさいわね」と言って、部屋の中を軽く見まわした。それからカラーボックスに入っているレコードを見つけると、その前に座り込んで、レコードを一枚一枚抜き出して眺めはじめた。
 せいぜいビートルとローリングストーンズくらいしか知らないだろうとたかをくくっていたが、香織は思ったよりロック音楽に精通していた。
「お前、どうしてそんなにロックのこと詳しいんだよ?」
「根室にいた時の友達が、みんな音楽好きだったの。私の友達、頭悪くて落ちこぼればっかりだったから、集まって話をするっても、学校の悪口とか音楽の話くらいしかなかったのよ」と、ややふてくされたように言う。
「でも、中学生の身分で、そんなにいろんなLP買えるほどお金持ってないだろう?」
「あたりまえでしょ。でも私、毎月音楽雑誌買ってるから、そういう情報には詳しいのよ。それに、曲の方はFMラジオ聴いてれば、なんだって流れてるもの。好きな曲はエア・チェックすればいいし、レコード買わなくても、なんとでもなるわ」
 まわりから『不良少女』というレッテルを貼られた少女の、素顔の一面が、ここにあると僕は思った。学校でどんなに突っ張っていても、一枚皮を剥がすと、そこにはありふれた少女の、ありふれた顔しかないのだ。
 一時間くらいして香織は帰っていった。寮の玄関で靴を履きながら、香織が「先生、また明日来ていい? もっといろんなレコード聴かせてほしいんだ」とせがんだ。
 翌日は、午前中に部活動の指導が入っていた。でも午後は、特に予定はない。
「午後だったらあいてるから、来てもいいぞ」と答えると、香織は、嬉しそうな微笑を顔いっぱいに広げて、「じゃあ、バイバイ」と言って暗闇の中に消えていった。

 その翌日の午後一時過ぎに香織は僕の部屋にやって来た。
「先生、私、お菓子持って来てあげたから、コーヒー入れてよね」と香織はクッキーの袋を差し出した。
 仕方なく僕は、寮の食堂にあるガス台でお湯をわかし、コーヒーを淹れた。コーヒーとクッキーを片手に、僕と香織はレコードを聴きながらロックの話題に花を咲かせた。ザ・バンドに始まって、ロッド・スチュワート、レッド・ツェッペリン、ジェフ・ベック……いくら話しても話題が尽きることはなかった。いきいきと目を輝かせ、手振り身振りで話しつづける香織は、まさに水を得た魚そのものだった。学校では絶対に見ることのできない、香織の一面だった。
 その日も五時過ぎまで香織は僕の部屋にいた。
 そして二学期の始業式が始まるまでの一週間あまり、午後になると香織は僕の部屋を訪れ、何時間もレコードを聴きながらロックの話に熱中した。

 二学期が始まった。
 始業式の日、空き時間に自分の机にすわってプリント作りをしていると、校長が僕に校長室へくるように声をかけた。
 最初は、授業の話などをしていたが、まもなく香織のことに話題が移っていった。夏休み中に、香織が毎日寮に遊びにきていることについてだった。
「俺は、教員として、まわりから誤解されるような行動は、くれぐれも慎んでほしいということを言いたいだけなんだ。
 あんたの部屋に毎日中学生の女の子がやってきて、三時間も四時間も部屋から出てこない。それもこの一週間ばかり、ずっと毎日のことだという。……いや、俺はわかっとるんだ、音楽を聞いて楽しんでいるだけだってな。吾妻っていう生徒自体、根室から転校してきて、色々と問題を抱えているってことも承知しとる。友達も少ないみたいだしな。だから、そういう生徒は若くて話を聞いてくれる先生のところに近づいてゆく。そうゆうこともよくわかっとる。でもだな、そういうことがわからず、心配しとる人もいるってことなんだ。その吾妻って女の子を預かっている伯母さんだとか、寮の寮母さんだとかな」
 校長の言いたいことはわかったが、無性に腹が立って仕方がなかった。
「できるだけ学校で、その吾妻って子の話を聞いてやるようにしてよ、これからは、あんまり頻繁に寮の部屋に入れないほうがいいかもしれんな」
「ええ……」と答えながら、僕は窓の外に視線を移した。白樺の葉が、目に眩しかった。

 金曜日の昼休みに職員室から体育館へ通じる渡り廊下を歩いていた時、背中からかけられた声に、僕は立ち止まった。
 香織の声に間違いなかった。
「ねえ先生、明日の午後、ひま?」
「明日の午後かあ、部活があるなあ」
「じゃあ日曜日は? なにか予定ある?」
「日曜日は、釧路に買い物に行こうかと思ってるんだ」
「……そうかあ」と、香織の顔が急に曇る。「レコード聴きにきたいのか?」
「うん……」と、俯いた香織が応える。
「聴きたいレコードあるんだったら、いつでも貸してやるぞ」
「うん」と、香織は下を向いたままだ。
 僕は、小さくため息をついてから、再び口を開いた。「吾妻」
「え」と、香織が顔を上げる。
「……夏休みに毎日、先生の部屋に来ていただろう? まわりにバカな大人たちがいてさ、先生とお前の間を、変に疑っているんだってよ。バカだよな」
「疑っているって、何をよ?」と、香織の眉間が急に険しくなる。
「二人の関係をさ」
「カンケイ? 何言ってるのよ、頭おかしいんじゃない?」
「ほんと、バカげてるよなあ」
「……ぶっ殺してやりたくなるわ、そんなこと言ってる連中。何考えてるのかしら?」
 その後、しばらく考える素振りをみせてから、「先生……傷ついた?」と、香織が不安そうに訊ねる。
「そんなことないさ。気にしてないよ」
「先生……、私、先生の部屋に行ってたの、迷惑だった?」
「いや、全然。先生も楽しんでたしな……吾妻、気にするな。また先生が暇な時に、レコード聴きにこいよ」
「うん……」と、小さく頷く。
「気にするな」
 香織は、もう一度頷くと、ゆっくりと振りむいて俯いたまま歩きはじめた。香織の背中は、まるで親猫に見捨てられた子猫のように淋しげだった。
 じつは土曜日と日曜日の予定のことは嘘だった。土曜日の午後は部活がないし、日曜日は何も予定はなかった。
 嘘をついてしまったことへの自己嫌悪と腹立たしさで、壁でも蹴っ飛ばしたい気分のまま、香織の背中をぼんやりと眺めていた。

 香織が僕を避けるようになったのは、そのことがあってからだ。職員室にやって来ても、僕の近くには寄ってこない。廊下ですれ違うことがあっても、僕を無視している。
 そんな香織の様子を見るにつけ、僕は、説明のできない暗澹とした気持ちになった。
 それから二週間ばかりが過ぎた頃のことだった。香織が同じクラスの男子三人といっしょに、中標津のスーパーで万引きをしたという知らせが学校にはいった。
 香織が、根室にいる母親の許へ帰ることになったと担任からの報告を聞いたのは、その事件から十日ばかりたった頃のことだ。
 今回の万引きの事件で、香織の伯母が、もうこれ以上香織の面倒をみきれなくなったのだ。以前から伯母の家庭の中でも、様々なトラブルが絶えなかったという話だった。

 日曜日の午後のことだった。
 僕は、昼飯でも食べようかと町の食堂にむかって歩いているところだった。ちょうど踏切の前までくると、カンカンカンという音とともに遮断機が降りてきた。僕は、あたりの古びた家並み眺めながら列車が通りすぎるのを待っていた。
 列車のジーゼル音が近づいてきた。
 そのジーゼル音に混じって、「せんせい」という声が聞こえたような気がして、僕は我に返った。見上げると、ゆっくりと動いている列車の窓から香織が身を乗り出し、僕にむかって大きく腕をふっていた。
「おお」と驚きのような唸り声を上げて、僕も香織にむかって手を上げた。
「根室へ帰るのか?」
「うん……」と、香織が淋しげな表情で、大きく頷く。
「お母さんと、仲良くやれよ!」
「……先生、元気でね!」
「お前もなあ!」
「レコード、聴かしてくれてありがとう。先生と話しているの、とっても楽しかった!
先生のこと、死ぬまで忘れないよう!」
 必死ともいえる形相で、香織が手をふりつづける。頬を涙がポロポロと流れ落ちていた。茶色の髪が、風を受けて激しく波うつ。
 僕も、まけずに腕をふった。
 列車は踏切を過ぎると、途端にスピードを上げはじめた。腕を振りつづける香織の姿がみるみる小さくなっていく。
 僕は、教師というよりも一個の人間として、香織に何もしてやれなかった自分の無力さに怒りのようなものを感じながら、力をふりしぼって、もう一度叫んだ。
「頑張れよう!」
 ゆるいカーブの線路を走ってゆく列車は、まもなく濃い緑の林の影に消えていった。