バックオーライ

「お父さん、橋を渡ったところのコンビニでおにぎり買うからね!」
 後ろの座席から、小学四年生の息子の弾んだ声が伝わってくる。
「よっしゃあー、まかしとけ!」
 意気揚々とマサキさんが応える。
 隣の席では、ニコニコと笑みの絶えない妻のアキコさんが、マサキさんの運転を優しげに見守っている。フロントガラスいっぱいに広がる眩いばかりの青空。今日は最高のドライブ日和だ。
  マサキさんの家にピッカピカの新車が届けられたのは、つい一週間前のこと。結婚してから十六年間、ずっと中古の車ばかり三台乗り継いできた。それが今回、アキコさんの大英断で、新車を買うことになったのだ。それも憧れのオートマチック!
 そして今日、小学二年生の娘を含め一家四人で、海までドライブに出かけることになったのだ。
  ウィンカーを上げ、慎重な運転でコンビニの駐車場に入っていく。道路から三メートルばかり進んだところで、駐車場が満杯になっているのに気づいた。ブレーキを踏んで車をいったん止る。それから、改めて駐車場をゆっくりと見回した……と、マサキさんの視線が運転席の横まで移動してきた時、その場に釘付けになった。目の前の車のバック灯がピカリと点いたからだ。
(おっ、おい、まさか、そのままバックなんてしてこないよなぁ……)と思ったその瞬間、その車がおもむろに動き始めた。
「おとーさん!」と、後ろの席で息子が大きな声を上げた。それがきっかけとなって、硬直していたマサキさんの手がクラクションを押した。一回、二回と立て続けに押す。これで、相手も気づいてくれるだろう……という甘い予想は見事に裏切られた。車はマサキさんに向かって着実にバックしてくる。
「あ、あなたぁ……!」とアキコさんの絶叫気味の声が車内に響く。
(お、おーい、た、頼むから止まってくれぇ。こっちは、買ったばかりの新車なんだ!)
 祈る思いでクラクションを押しっぱなしにする。でも車は止まらない。一メートル、五〇センチ、二〇センチ……。
(ああ、神さまぁ!)
 車体が揺れた。相手の車の尻が、右前タイヤのあたりにゴリゴリと押しつけられる。
 相手の車はやっと止まり、あわてて二メートほど前に戻る。ドアがすぐに開き、運転手が降りてきた。見ると八十過ぎくらいの老人だ。耳に大きな補聴器をつけている。
(これじゃあ、クラクションの音も聞こえないはずだ……)
 マサキさんの胸にドス黒く膨らみかけていた怒りの芽が、急にヘナヘナと縮んでいく。
「……すみません。バックする前に後ろを見た時は、なんにもなかったもんだからぁ……」と老人が申し訳なさそうに頭を下げる。
 マサキさんは完全な放心状態で、しばらくは口もきけない。恨めしげな目つきで、相手をじーっと見上げる。以前のマニュアル車だったら、咄嗟ににバックギアに入れて、うまく避けられたかもしれないのに。そんな残念な想いがあった。マサキさんは弱々しくため息をついて、ゆっくりとドアを開けた。
「いやあ、本当にゴメンなさいねぇ……」と、相手が何度も頭を下げる。それに合わせて、
「いやあ、こっちも、こんなところに車を止めなければよかったんですよ。こちらこそすいませんねえ」と、気がついたら謝っていた。
仕事で、上司やらお客さんやらにいつも謝っているサラリーマンの悲しい習性が、こんな時にも無意識に現れてしまうのだ。
  恐る恐る右前タイヤのあたりを覗いた。バンパーに二センチばかりの黒い傷がついている。他には何の傷跡も見つからない。ボディがベコリと凹んでいるのを予想していたマサキさんは、ほっと安堵のため息をついた。これくらいだったら、補修用の塗料を買ってきて簡単に直せそうだ。
  とりあえず相手の免許証を見せてもらい、名前と住所を控え、電話番号も聞いた。
「見たところ、たいした傷じゃないみたいですし、大丈夫だとは思いますが、何かあったら、また電話させていただきます。その時はよろしくお願いします」と、申し訳なさそうに喋っている。(どうして被害者の俺が遠慮しなくちゃならないんだ?)と自分でも腹立たしく思うが、急に喋り方は変えられない。
  頭を深く下げて、先に駐車場を出た。さっきまではしゃいでいた車内が、不気味なほどの静まり返っている。
「ねえ、あんた。なんで車、ぶつけられて、そんなにペコペコ謝るのよ?」と、不機嫌そうなアキコさんのとがった声。マサキさんの猫背が一瞬にしてピンと伸びる。
「それに、あの傷、どうするつもりなの?」
「あ、いや、ちょっとした傷だから、補修用のペンでも買ってきて、自分で塗ろかなあって思って……」
「何言ってんのよ?これ、新車なのよ!」
「……わ、わかってるよ……」
(車をぶつけれらた上に、妻に怒られてか)
 やっぱり傷跡が気にって仕方がない。通りすがりのパチンコ店の駐車場に車を入れた。あらためてぶつけられた跡を見た。一瞬、ハンマーで頭を殴られたような気がした。タイヤの上あたりが凹んでた。さっき見た時は全然気がつかなかった。
「あなた、ボディひっこんでるじゃない」
 アキコさんの氷のように冷たい声が、胸に十センチほど突き刺さる。
「あっ、ホントだ、ひっこんでる!」という息子の大声が、さらに五センチほど深く突き刺さってくる。
 アキコさんの決断で、海へのドライブは中止になった。すぐにUターンして、車を買った販売店へと向かう。そこの修理工場で、補修の見積もりを算出してもらった。代金を聞いて、再びハンマーで頭を大きく殴られたような気がした。
「じゅ、十万円もかかるんですか?」と、狭い事務所で大声を出してしまった。
(こりゃあ、のんびりなんかしてられない。)
アキコさんに命じられ、携帯電話を取り出して、あわてて相手の家の番号を押した。
「こんにちは。先ほど車をぶつけられた者です……今、修理工場に来ているんです。じつは修理費用の見積もりを出してもらったら、十万円ほどかかるって言われたんですよ。修理に出してもいいですよね。お宅さんの方で、修理費用は全部みてもらえますよね……」
「……ちょっと待ってくださいよ。さっきの事故のことですが、たしかに私は謝りましたが、全面的に私の方が悪いなんてひとことも言ってないですよ……」
(あ、あれっ、さっきの口調と違うぞ?!)
「でも、でもですよ、あなたの方からバックしてきて、止まってる僕の車にぶつかってきたんですよ」
「私が、バックしようと思って後ろを確認した時は、何もなかったんですよ。それがバックしてたら、あんたの車にぶつかった。もしかしたら、私がバックしてるところに、あんたの車がやってきたんじゃないですか?」
「な、なに言ってるんですか、僕が止まっているところに、あなたがバックしてきたんじゃないですか!」
「いや、だから、私が後ろを見たときは、何もなかったんですよ?……あんたウソ言ってない?」
「ど、どうして、僕がウソを言うんですか?」
 泥仕合の様相を帯びてきた。
「わ、わかりました。それぞれお互い言い分があるみたいだから、それだったら、現場で警官に立ち会ってもらって、事故の内容をきちんと確認してもらいましょう」とマサキさんが最後の切り札を出した。
 相手が一瞬、黙り込んだ。十秒ほど沈黙が続いた。
「……わかりました、いいでしょう」 
 翌日の十時に、事故のあったコンビニの駐車場で落ち合うことに決めて電話を切った。
 スイッチを切ってから、急に漠然とした不安に襲われた。警官というのが、そもそも好きじゃない。それに事故の証人といっても、自分の家族しかいない。第三者の目撃者がいないところで、はたして自分の言い分が通るんだろうか?
 アキコさんに事情を説明すると、最後まで自分の主張を貫くようにと強い口調で言い含められた。
「絶対に、相手の言葉に言いくるめられちゃダメよ!」
 眠られないまま、夜が更けていった。

 翌日、十時十五分前に現場に着いた。相手は、もう昨日と同じ場所に車を止め、車の隣でタバコをふかしている。
 ひとつおいて離れた場所に車を止めた。運転席から降りて「こんにちは」と声をかけた。
 相手の老人は、何も聞こえないのかそっぽを向いたままだ。
「さあ、警察に電話を入れるのよ!」
 アキコさんの声に励まされて、地元の警察署に携帯電話を入れた。交通事故担当の部署に電話を回してもらう。
「ええっと、こんにちは、佐藤という者なんですが、じつは今、中央橋を渡って右側のコンビニの駐車場にいるんです。昨日、ここで別の車にぶつけられまして、それで、お手数なんですが、今から事故の状況を確認していただきたいんです。この場所へ来ていただけないでしょうか……?」と、できるだけ丁寧な口調で話す。
「なに?いつの事故だって?」と太い声が、横柄な口調で返ってくる。
「は、はい、昨日の、ちょうど今くらいの時間なんですが……」
「昨日? あんた、なんで昨日すぐに警察に連絡してこないんだよ?!」と、電話口の警官が怒り出す。
「す、すみません。昨日はたいした事故じゃないと思ったもんですから……」
(車をぶつけられた俺がなんで謝らなくちゃならないんだ)と腹立たしく思いながらマサキさんがひたすら謝る。
「たいした事故じゃないんだったら、なんで、今頃になって電話してくるんだ?」
「い、いや、はい、それがですね、実は、たいした事故だったんです……」
「誰か怪我でもしたのか?」
「い、いやぁ、怪我ではないんですが、車の修理代が十万円もかかるって言われて……」
「修理代?そんなことは聞いてないよ」
「ぼ、僕の車、買ったばかりの新車なんですよ。それが、相手からぶつかってきたのに、非を認めてくれないんですよ……まあ、修理代のことはいいんですが、いや、やっぱりよくないんですが……」と、説明が次第にしどろもどろになっていく。
「相手は、今そこにいるのか?」
「あ、はい、います」
「それだったら、今から二人で、こっちまで来なさい。昨日の事故だったら、今さら現場に行ってもしょうがないだろう?」
「はい、わかりました。すぐにお伺います」
 電話のスイッチを切って、マサキさんは大きなため息をついた。
(こういうのを『弱り目に祟り目』っていうんだろうかなぁ?)
「あなた、どうなったの?」と心配そうな顔つきでアキコさんが訊いてくる。
(そうだ、妻の前で、これ以上男として情けない姿を晒すわけにはいかないぞ)
「いや何でもない。これから警察に行くことになった」と答えて、マサキさんは老人のそばに近づいていった。
「今、警察に電話したら、昨日の事故だから、今日は現場まで来てもらえないって言われました。警察署まで二人で来いってことなんで、今から一緒に行きましょう」
 老人は、道路をじっと見つめたままマサキさんの顔など見ようともしない。しばらく押し黙っていた。
「……行きません。私は、この現場で警官に立ち会ってもらって、ちゃんと事故の確認をしてもらいたいんです」
「そ、そんな我が儘なこと言ったって、警官は来ないって言ってるんですよ」と、ムッときながらマサキさんが声を高める。
「いや、私は、どこにも行きません」と老人は断固とした口調で繰り返す。
「じゃあ、あ、あんた、自分で警察に電話しなさいよ。僕の携帯、貸してあげるからさぁ」
 老人は、相変わらずじっと路面を見つめたまま、携帯を受け取ろうともしない。
(まいっちゃうよなぁ、ホントに)と呟きながら、マサキさんは仕方がなく、再び警察署に電話を入れた。
(また、怒られちゃうのかなぁ……)
「すいません、今、電話をした佐藤という者です。じつは相手の人が、警察には行かないって言ってるんですよ。この場所で、事故の状況を確認をしてもらいたいから、警察には行きたくないって……」
 警官が、一瞬息を吸うのがわかった。
(頼むから、俺に八つ当たりしないでくれ)
「……わかった、今からパトカーで行くから、そこで待ってなさい」
「はい、どうも、お手数をかけて申し訳ありません」マサキさんが、見えない相手に向かって何度も深く頭を下げる。

  パトカーは五分ほどで到着した。
 相手の老人は、相変わらず動こうともしない。仕方がなくマサキさんがパトカーに走って近づいていった。
「わざわざ来ていただいてどうもすいません」
 すぐに事情聴取が始まった。車内からは、アキコさんが冷ややかな視線でマサキさんの様子をじっと観察している。
(俺は負けちゃイカンのだ)と自らを励ましながら、事故の様子を細かく話した。説明が終わったら、凹んでいる部分を警官が実際に目で確認した。
「あんたの車、相手の車がぶつかってきたときは動いていた?」
「いえ、止まってました」という答えに、警官が納得するように頷いて、マサキさんの事情聴取は終了した。
 次に警官は、突っ立っている老人の方へと移動していった。マサキさんは、離れた場所から老人と警官のやりとり聞いていた。
 老人の説明は昨日の電話と変わらない。後ろを見て確認してからバックし始めた。だから、自分は悪くない。相手の車がバックしているところに進んできたらぶつかたんだ。
 とたんに、警官が怒鳴り始めた。
「バックする前に後ろを確認してもしょうがないだろう!なんで、バックしている間中、ずっと後ろを見てないんだ? だから事故が起きるんだよ。いいか、相手の車は止まっていたんだよ。車の凹み方を見ればわかるだろ。擦り傷のようになってないだろ。真っ直ぐ上から押されて凹んだ跡なんだよ!」
  そのやりとりを聞いていたマサキさんの口許に、やっと安堵の笑みが浮かんだ。

 パトカーが帰っていった。相手の老人は、例によってじっと路面を見つめたまま動こうともしない。
 運転席に座り、マサキさんはギアをバックに入れた。
「さあて、先に帰るとするかぁ……」
「車は来てないわよ。バックオーライ!」
 マサキさんは、後ろを見ながらゆっくりとアクセルを踏んだ。

【十勝毎日新聞 2001年(平成13年)8月19日掲載】