罪と罰

 川の流れる音が、深い森の静寂に融けあうようにひっそりと響いている。

  葉ずれの音も、鳥の鳴き声も羽ばたきも、獣たちの呻き声も、何も聞こえてはこない。静寂そのものが、重くのしかかるような静けさだ。

 森の奥へと続く細い小道を、僕はゆっくりと歩いている。鬱蒼とした木々の茂みに覆われて、あたりは夕暮れのように薄暗い。時折、枯れ枝を踏みつぶす時にパキンという乾いた音が足許から立ち昇ってきて僕を驚かせる。

 歩くにつれて、川の流れの音は少しずつ大きくなっていく。僕は、足音をたてないように、そっと忍び足で進んでいく。

 まもなく小川の近くに辿り着く。川幅が三メートルばかりの小さな川だ。木々の陰からそっと窺うと、僕よりも大柄の少年が一人、短い竿を小川に向かって差し出しているのが見て取れる。

 一週間ほど前、僕は奴に、流れが大きく曲がったあたりの溜まりで、三〇センチ以上のニジマスを釣ったと吹聴してやったのだ。

 予想通り、奴はまんまと僕の誘いに乗って、この場所にやってきていた。

 僕は、ズボンのポケットから六〇センチばかりの太い紐を取り出して、両端を両手にきつく巻き付けた。そして、足音を立てないように、そっと奴の背中へと近づいていった。

 最初から僕は奴を殺すつもりだった。

 小柄な僕は、図体のでかい奴にずっといじめられ続けてきた。奴に何回殴られ、何本の鉛筆を取られ、いくつのプラモデルを奪われ、何度万引きを強制させられたかわからない。

 言うことを聞かないと、ぶっ殺すぞといつも脅されてきた。僕は、泣きたい気持ちをじっとこらえながら、これまで奴のいいなりになってきたのだ。 でも、もう限界だった。これ以上、奴隷のような扱いには我慢ができなかった。何日も何日も考えた末、僕が奴の力から逃れるには、奴を殺してしまうしかないという結論に達したのだ。

 そして今日が、ようやくつかんだ絶好のチャンスだった。

 茂みの中に潜んでいる僕の身体の奥で、心臓がバクバクと激しい唸り声を上げていた。

 奴は、釣り糸を川から引き上げると、川上に向かって放り投げた。その一瞬の隙を狙って、僕は茂みから飛び出し、奴の背中に飛びついていった。

 思ったよりも紐は、簡単に奴の首に巻き付いた。彼の背中にぶら下がるような格好で、僕は力の限りぐいぐいと紐を締めた。図体のでかい奴は身体を激しく揺すって、僕を振り落とそうともがいた。僕は、必死に紐にしがみついた。ここで失敗したら、逆に僕は奴に殺されてしまうだろう。

 奴の激しい抵抗に、少しずつ紐が手から抜けていった。そして、とうとう紐の先がスッと抜けるかと思った瞬間、奴の図体が、ドサリと草むらに倒れ込んだ。

  と同時に、僕も草むらに座り込んだ。足も膝も、腕も手も、体中が細かく震えていた。腰が抜けて、しばらく立ち上がれなかった。

 奴は、僕の方に顔を向けたまま、石のように身動きひとつせず横たわっていた。顔色は青黒く変色し、大きな赤い目を開いて、口からは白い泡が吹き出していた。


「……あなた」

 どこからか妻の声が聞こえた。

「大丈夫、あなた? また、すごい、うなされてたわよ……」

「……あ、ああ、もう大丈夫だ」

 また、いつもの夢を見ていた。私は、もう何十回も何百回も、この同じ夢を見続けている。小学校五年生の時に、奴を殺してから、三十年以上もの間ずっとだ。

  しばらくすると、妻は軽い寝息を立てて眠ってしまった。でも、私はすっかり目が冴えて、再び眠りにつくことはできなかった。

 奴を殺した直後のことは、私の精神状態がひどく混乱していて、明確な記憶はない。

 途切れた記憶は、札幌近くの小さな町で暮らし始めたところから復活する。犯人が私であるということが判明する前に、母子家庭だった私の家は、そちらに引っ越してしまったのだった。多分母は、私が人を殺したということを知っていたのだろう。だからこそ、事件のすぐ後に、そっと夜逃げでもするように引っ越してしまったに違いない。

 引っ越しした後、長い間、私は母から『この子は、いったい何ていうことをしてくれたんだろう』、『こんな子に、私は育てた覚えはない』、『私は、もう二度と人様に顔向けできない』そんなセリフを、骨の髄に染みこむほど何度も繰り返し浴びせられ続けた。

  母の言葉のせいかどうかはわからないが、中学生くらいの頃から、私には人として生きていく資格がないのではないか、たとえ生きていくとしても、今後一生をかけて人殺しの罪の償いをしていかなくてはならないのではないかと考えるようになっていた。

 どうすれば人殺しの罪を償えるのか。悩んだ私は、聖書をひもといたり、仏教関係の本を漁ったりした。聖書の「原罪」という言葉に、自分の人殺しの罪を当てはめてみたり、「歎異抄」の「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」の部分に救いを求めたこともあった。

 そんな頃、自分の心にすっと入ってきたのは、実は宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」だった。

 何度も何度も、この詩を読み返しながら、私は「自分を勘定に入れず」に、病気の子どもや、疲れた母や、死にそうな人のために生きていこう。「みんなにデクノボウと呼ばれ」ても、他人に奉仕することだけを考えて、目立たず生きていこう。そうすることが人殺しの罪を償うことなのだという結論に達した。

 教師になろうと決めたのも、人のために奉仕できる仕事だろうと考えたからだった。教師とはいっても、通常の子ども相手ではない。障害を持った子供たちのために働くことが、自分にとって理想に近い「罪の償い」だと考えたのだった。

 高校を卒業した後、東京に出て行って新聞販売店に住み込みで働きながら大学に通った。母親からは一円の仕送りもなかった。奨学金とバイト代だけが頼りの極貧の生活だった。でも、そんな生活を辛いだとか不幸だとか感じたことはなかった。人殺しの自分には、「満足」だとか「幸せ」だとか、そんなものは無縁なのだと固く信じていたからだ。

 極貧ではあったが、街を歩いていて、たまたま街頭募金の場にでもぶつかれば、お昼のパン代を諦めてでも、必ずお金を入れた。他人のために自らを犠牲にすること、それが私の宿命なのだ。

 大学を卒業して、道内でも希望者の少ない根室管内の僻地校に就職した。以来、私はひたすら障害を持った子供たちのために全身全霊を打ち込んで働いてきた。

 自分の担当する子の障害が重ければ重いほど、私は喜びを覚えた。私の苦労が大きければ大きいほど、より大きな償いに通じるはずだと思えたからだ。

 教師として働くようになってからも、私はファッションだとか家具などの贅沢品にお金をかけたことはない。質素で清潔でありさえすれば、最低限のもので充分だった。食べ物も同様だ。さすが「玄米と味噌と野菜だけ」というわけにはいかないが、できるだけ簡素な食事を心がけてきた。  それは結婚した以後も同様だった。

 たまたま結婚した妻が、私の質素な生き方を理解してくれたので、一人息子を含めた我が家は、ずっとつつましい生活を送ってきた。

 ただ、年末の赤い羽根募金だとか、地震などの災害募金、ユニセフ募金などの時だけは、支出できる限りのお金を差し出した。恵まれない人たち、困っている人たちを助けること、それが私の償いなのだ。

 

 私が森の中の川縁で奴の首を紐で絞め殺す夢を、いつ頃から見るようになったのか、実は定かな記憶というものはない。

 気がつくと、いつ頃からか私は例の夢を繰り返し見るようになっていた。 夢は、ひどいときには毎晩見ることもあったし、二、三週間に一度くらいということもあった。でも平均すると一週間に一度くらいの割合で、ずっと見続けている。それは、大学時代も、根室管内で教師になってからも、結婚して息子が生まれて以後も、ほとんど変わることはない。

 夢は、いつも静かな森の中を歩いているところで始まり、奴の首を紐で絞め殺すところで終わる。

 人殺しの夢を繰り返し見続けることで、一時、ノイローゼになりかけたことがある。どうして人を殺した場面を、繰り返し何度も見なければならないのか。

 私は、自分なりに深く罪を悔い、その償いに努力をしているではないか。

 まだ夢を見るということは、これくらいの償いでは足りないということなのか? 罪は、そんなに簡単には償えないということなのか? 考えあぐねて、私が導き出した結論は、この夢は、私が人殺しの罪を忘れないようにと天から与えられた「啓示」なのだということだった。

 

 母は、私が三十八の時に亡くなった。

 私が道内に帰ってきて就職した時、一緒に住もうと声をかけたのだが、一人のほうが気楽でいいと言って、同居を望まなかった。

 母は、札幌近郊の小さな町で一人暮らしを続け、長く総菜屋に勤めていたが、六十になるまえに乳ガンが見つかり、三ヶ月ばかりの闘病生活の後、あっけなく死んでしまった。ガンが見つかったときには、すでにガン細胞が身体のあちこちに転移していたのだ。

 私の妻がひと月ほど病院でつきっきりの看病をしたが、最後は一週間ほど苦しんで簡単に逝ってしまった。 

 

 小学校五年生になった息子と妻との三人で二泊三日のキャンプ旅行をすることになった。いくら質素な生活を心がけているとはいえ、たまには夏休みを利用して家族キャンプくらいの贅沢をしてもいいだろう。

 目的地は……?

 たまたま息子との会話の流れで、私が小学校時代を過ごした十勝の田舎を訪れようということに話が決まった。

 一泊目を大雪山系の湖畔のキャンプ場で過ごし、翌日、かつて私が母親と二人で暮らしていた住居を訪れた後、近くの野山を探索してみようということになった。

 無意識のうちに私は、友人を殺した森へと車を走らせていた。いや、無意識ではなかったのかもしれない。いつも夢に見る場所を訪れることで、過去の出来事を、この目できちんと再確認しておきたかったのかもしれない。

 車の正面には、黒々とした雲が山脈にのしかかるように天頂を覆っていた。

 林道を十分ほど入って、行き止まりの場所に着くと、四駆の大型車が一台止まっていた。その隣に車を横付けし、私たち三人は、狭い山道を森の奥へと進んで行った。

 夢の中と同じように、あたりからは鳥の鳴き声も羽ばたきも何も聞こえてはこなかった。重苦しい静寂が、あたりをじっとりと押し包んでいた。光の届かない鬱蒼と茂った森の底を進んでいくと、やがて微かに水の流れる音が聞こえてきた。

「お父さん、まだ遠いの?」 息子の不安げな声が背中から聞こえた。「もうすぐ着くよ。お父さんが、よく釣りをして遊んでた場所なんだ」

 十分ほどで小川のほとりに近づいた。親子と思える二人の姿が、木々の間からチラチラと見え隠れしてきた。先に四駆で来ていた連中だろう。様子から見ると、二人で釣りをしているようだ。

 不意に、何か得体の知れない不安が胸の中に湧いてきた。と同時に、ドクドクと鼓動が激しく打ち始めるの感じた。

 私は、ゆっくりと川岸に立った。そして、二人の方を見ながら軽く会釈をした。父親らしい男の方が、私に会釈を返してきた。黒々とあご髭を伸ばしている。視線を移して、息子らしい男の子の方を見た。少年は、訝しそうな顔つきで、チラリと私の方を見た。 少年の顔を見た瞬間、私の体が凍りついた。

 奴だった。少年時代のままの奴がそこに立って私を見ていた。

 信じられない気持ちで、私は、じっとその少年の顔を睨みつけた。

 もしかすると、これは夢の続きなのか。私は、いつの間にか自分の夢の中に紛れこんでしまったのか?

 よく見ると、あご髭の男が、目を大きく見開き、驚いた顔をして、じっと私の息子を凝視していた。

 しばらくして、男は顔を上げると私を見て、「お前、タムラなのか?」と私の姓を口走った。

 その時になって、私もようやく事態を飲み込んだ。

「……アキラか?お前、生きてたのか?」

 信じられない気持ちで私は呟いた。

 私は、奴を殺した筈ではなかったのか?その場面を、何度も何度も夢で繰り返し見てきた筈ではないのか?

 私は、何が何だかわからず、その場に身動きもできず立ちつくしていた。

 不意に、私の肩に微かな手の感触があった。

 あわてて振り向くと、妻がすぐ目の前から必死な形相で私を見つめていた。

「あなた、落ち着いてよく聞いてください。 あなたのお母さんが亡くなる前、病院で看病をしていたときに、大事な話を聞きました」

 そこまで言うと、ひと呼吸おいてから、再び妻は口を小さく開いた。

「あなたは、小学校五年生の時に、この山の中で友だちを殺してしまったと思いこんでいます。でも、本当は、あなたは誰も殺してはいません。殺してしまう寸前に、たまたま近くを通りかかった大人が、あなたの頭を棒で殴り倒して、それを止めたんです。

 気を失って倒れたあなたが病院を退院するのと同時に、お母さんはあなたを連れて別の町に引っ越したんです」

 妻の言ってることが全く理解できなかった。

「嘘をつくな!」と、大声で怒鳴りたかった。

 でも、確かに奴は、すぐ私の目の前に立っている。それは間違いのない現実だ。

 とすると私は奴を殺していなかったのか? だったら、私のこれまでの償いの人生は、すべてが無駄だったということなのか? 罪を何も犯してもいないのに、私は勝手な思いこみで償いの人生を送ってきたということなのか?

「お父さん、もう車に戻ろうよ」と息子の声が聞こえた。

 虚しさと怒りが入り混じった赤黒い感情が激しい勢いで吹き上がってきた。その濁流に、私の体も意識も感情も全てが呑みこまれてしまう。

「うるさい!黙れ!黙れ!黙れ!」

 気がつくと、私の両手が息子の細い首を締めつけ、ドス黒い顔色をした息子が、怯えた目つきで私を見ていた。


「……あなた」

 どこからか妻の声が聞こえた。

 

 

 

 【十勝毎日新聞 2008年(平成20年)6月15日 掲載】

 

     *発表時は、「償い」というタイトルで掲載