二十三歳の光と影

「ほんとに、鎌倉まで来たのね?」

 美穂は、僕の前で立ち止まると、すこし怒ったような顔つきを浮かべた。

「うん、来ちゃったよ……」と答えながら、僕は、その裏に隠れてる美穂の心を読み取ろうとした。僕の来訪を喜んでるんだろうか、それとも迷惑に感じてるんだろうか。

「それにしたって、前もって私の都合くらい、ちゃんと聞いてほしかったわ」

 僕が、待ち合わせの日時や場所を勝手に決めて手紙に書いたのが、不満なようだ。

「ごめん、それは悪かったって思ってる。……でも、とにかく君に会いたかったんだ」

 美穂は、何か言いかけたま、黙って口を閉じた。

 僕は、美穂の視線を避けて、北鎌倉駅周辺の景色を眺めるふりをした。

 春めいた鮮やかな緑と、あちこちに点在してるピンクや白い花が、午前の陽光を受けて眩しく輝いてる。どこからか、鳥の鋭い鳴き声が伝わってきて、深く息を吸うと若葉の香りがした。

 

 美穂と初めて会ったのは、三月末の京都だった。

 名古屋の大学で五年目を迎えることが決まり、僕は春休みを利用して、友人と一緒に京都へ遊びに出かけた。泊まった先は、友人の親戚の女性のアパートだった。

 そこに美穂が来ていた。

 青白い顔色をして、いかにも病弱そうな雰囲気を漂わせてた。

 僕と友人が挨拶すると、

「私、神野美穂っていいます。鎌倉から遊びに来てます」と、小さな声で言った。

「京都見物に来たんですか?」と僕は訊いた。

  美穂は、ちょっと困ったような表情を浮かべ、しばらく考える素振りを見せた。

「あの……仲のよかった男の子が突然死んじゃって、それで色々あって心底疲れちゃったから、こっちに逃げてきてるんです」

 彼女の話に、何と言葉を返したらいいのか分からなくて、つい黙ってしまった。

「毎日なにしてんの?」と友達が尋ねた。

「部屋の中で、考えごとしたり、本を読んだり、そんな感じかな」

「オレたち、明日とあさって、京都を歩いて回る予定なんだ。よかったら一緒に回らない?」

「ありがとう。でも、一人で静かにしてたいし」と、その誘いはあっさり断られた。

 僕らが滞在してる間、美穂は、どことなく僕らを避けてる様子だった。でも、帰る頃になると、少しだけ打ちとけてきた。

 三日目の午後、僕は思いきって彼女に、亡くなった男の子のことを尋ねてみた。

「彼、自分から死んじゃったの。ある日、突然に」

「その彼って、君の友達か何かだったの?」

「私と同い歳の従兄弟。ずっと小さい頃から仲がよかった」

「どうして自分から死んだのかな?」

「さあ、私は知らないの。遺書も何も残ってなかったし」

「ショックだった?」

「もちろん。だって何の前触れもなく、突然だったから」

 それから美穂は、押し黙ったまま、しばらく何かを考える素振りを見せた。

「……まだ心が混乱していて、何がどうなってるか、自分でもよくわからないの」

 どこか断固とした口調で呟くと、美穂は口を閉じてしまった。もう従兄弟の死について、何も話す気がなさそうだった。

 もしかしたら、美穂と彼は、たんなる従兄弟以上の関係だったのかもしれない。

 ふとそんな気がした。

  

 京都から帰ってきて、美穂のことがずっと頭から離れなかった。美穂のようなタイプの子に初めてであったというのもある。このまま放っておいたら、彼女も自死するんじゃないかという気がかりもあった。それで、また京都に出かけて、美穂と話をしたいと思った。

 ところが二週間もしないうちに、美穂が北鎌倉の自宅に帰ったという話が伝わってきた。それで僕は、鎌倉まで出かける決心をして、勝手に待ち合わせの日時と場所を書き、彼女に手紙を送ったのだった。

 

 美穂の案内で、円覚寺と建長寺に寄り、そのまま国道を下って鶴岡八幡宮に出た。春らしい日差しが暖かく、僕らはあたりの風景を眺めながらのんびりと歩いた。

 八幡宮の境内には、大勢の参拝客がいた。

「従兄弟が死ぬ前の日、二人でここにお参りに来たの。おみくじを引いたら、彼のは大吉で、願い事が叶うと書いてあるって、ちょっと自慢そうに言ってたわ」

「へえ。君のは何だったの?」

「生まれて初めての『凶』よ。さんざん彼にバカにされたわ」

 美穂は淋しそうに微笑んだ。

 歩き疲れた僕らは、鎌倉駅の裏側にある住宅街の、古民家風の喫茶店に入った。

「じつは四月から、週に三日、ここでバイトさせてもらってるの。大学卒業したのに無職ってわけにはいかないでしょ。だから、せめてお小遣いくらいは自分で稼ごうと思って」

 窓際のテーブル席に座るなり、美穂が小声で教えてくれた。

「ここは、高校時代から私のシェルターなの。嫌なことがあると、いつもここに逃げていた」

 そう言って、美穂は、自嘲気味な笑みを浮かべた。

 それから二時間ほど、僕らは映画や本の話などで、とぎれとぎれの会話を続けた。でも、何を話しても、二人の話が盛り上がることはなかった。美穂の、どこか冷めた目つきを見てると、はるばる鎌倉までやってきたことが、無駄に思えてきた。

 美穂が思いがけない話題を持ち出したのは、そろそろ店を出ようかという頃だった。

「今夜は、どこに泊まるの?」

「川崎に、高校時代の友達がいるんだ。そこに泊まろうかって考えてる」

「この店の二階に空き部屋があるの。寝泊まりできるように布団もあって、じつは二週間前、京都の友達が遊びにきた時、そこに泊まったの。三島君も、私が頼めば泊まることができるわよ」

 思ってもみなかった申し出だった。最初は迷ったけど、それでも構わないと考え直し、女性店主にお願いして泊まることにした。

 僕らは、午後から江ノ島に出かけ、有書を食べてから、また喫茶店に戻ってきた。美穂は僕を二階の部屋に案内してくれると、すぐに家に帰って行った。

 布団に入ったのは夜中過ぎだった。布団の冷たい感触と、黴の匂いが気になって、すぐに寝付けなかった。でも、昼間の疲れのせいか、いつのまにか眠っていた。

 階段を登る足音で目が覚めた。

 目を凝らすと、薄闇の中を、ほっそりと痩せた人影が布団に近づいてくるのが見えた。その人影は、枕元までくると、屈み込んで僕の顔をそっと覗き込んだ。美穂の顔が、闇を通してぼんやりと確かめられた。

 彼女は、少しだけ布団の端を持ち上げると、おもむろに僕の横に入ってきた。

「今、何時?」と、僕は声をかけた。

「夜中の二時過ぎ。目を覚まさせちゃったかしら」

 僕は、布団の中を探って、美穂の右手を握った。彼女の手は、まるで幽霊かと思うほど冷たかった。

「……それ以上、何もしないでね。そういうことしてほしくて、ここに来たわけじゃないから」

「わかったよ」

 僕は、少し残念に感じながら答えた。

「こうして手を握ってもらってるだけで、心が落ち着いてくるわ」

「なにか、あった?」

「ひどく嫌な夢を見て目が覚めたの。それで、一人で寝てるのが怖くなって、ここに来ちゃった」

「どんな夢だった?」

「死んだ従兄弟が首を吊ってる夢。部屋の窓の外で、風に吹かれて揺れてた。……もうそれ以上は、話したくないわ」

 僕は、ひと呼吸ついてから、思い切って美穂に尋ねてみた。

「その従兄弟のこと、もしかして好きだった?」

 美穂は、返事をしなかった。

「京都で、君から従兄弟が死んだって話を聞いたときから、なんとなくそんな感じがしてたんだ。君とその従兄弟って、恋人同士だったのかなって」

 しばらく美穂は黙っていた。でも、意を決したように話し始めた。

「私たち、家が近いから小さい時から仲がよかったの。同じ高校に進んでからは、いつも一緒にいるようになった。彼も私も、うまく人に馴染めないところや、人と競いあうのが苦手なところもよく似てた。いちいち言葉に出して話さなくても、お互いの気持ちがよくわかったの。彼は、私以上に私のことがわかってたと思う」

「彼が死んでしまって、辛かった?」

「もう一人の自分が、突然に消えちゃったって感じ。だから、こっちの自分が、まだちゃんと生きているのか、それとも死んじゃってるのか、時々混乱して、よくわからなくなるの」

 彼女の声音から、どこか恐れるような感情が伝わってきた。

「京都に出かけたのは、ここから遠く離れたら、そんな感じが直るかなって思ったからなの」

「でも、やっぱり何も変わらなかった?」

「生きてるか死んでるか、よくわからない感じは、ずっと続いてるわ」

「でも、喫茶店のバイトも始めたってことは、それなりに気持ちも落ち着いてきたってことじゃないのかい?」

「そうだったらいいんだけど」

 そう言うと、美穂は闇の中で自嘲気味に笑った。

「ねえ、何か楽しくなるような話して」

 耳元で、美穂の囁きが聞こえた。

 僕は、美穂のために、何か面白い話を思い出そうとした。でも、いくら考えても何も思いだせなかった。僕自身、大学に入ってから、べつに楽しいことなんてなかった。実らない片想いで四年間も苦しみ、就職活動だって全然うまくいかなかった。親に嫌な顔をされて、大学五年目を迎えた。

 そんなことを考えてる時、中学校時代の出来事を、ふと思い出した。あの当時は、僕にとって耐えられないくらい辛い出来事だった。でも、今だったら笑って話せるかもしれない。

「あのね、中学校二年生の時、初めて恋をしたんだ。隣のクラスの、アツミって子だった」

「男の子の初恋って意外と遅いのね。私は、小学校三年生の時だったわ」

「男って、だいたいそんなものだよ。それで、決死の覚悟で彼女に手紙を書いたんだ。でも、もちろん好きだなんて書けない。考えた挙げく、友達として手紙のやり取りをしたいって書いたんだ。そしたら、その子から、すぐに返事がきた。ドキドキして封を開けたら、友達としてなら手紙のやりとりをしてもいいって書いてあった」

「あら、おめでとう。よかったじゃない」

「それで、二週間に一度くらいの割合で手紙を書いたんだ。テレビのことだとか、友達のことだとか、部活動のことだとか、そんなことをダラダラと。そしたら彼女も、同じように二週間に一回くらい返事を書いてくれた。

 でも、そんなふうに手紙のやりとりを始めて半年くらいしたとき、彼女から、奇妙な手紙を受け取ったんだ。封筒を開くと、白い便せんに、『もうこれ以上、三島君とは、友達として手紙のやりとりはできません』って、それだけ書いてあった。彼女が、何を言おうとしてるのかよく分からなくて、しばらく呆然と、その文章を眺めてた」

 僕は、そこで、いったん口をつぐんだ。

「……ねえ、それって、どういう意味だと思う? 君にはわかるかい」

 美穂は、クスッと笑ってから、小さな声で呟いた。

「そんなの決まってるでしょ。その子、三島君のことが好きになったのよ」

「ねえ、どうして、そう思う? もしかしたら、僕のことが嫌いになったから、手紙のやりとりを、やめたくなったのかもしれない」

「それは絶対に違うわ」

「どうして?」

「だって嫌いになったのなら、あえて何も言わないで、返事を書くのをやめちゃうもの。それが、女の子ってものよ」

「そうかな?」

「そうよ」

「それで三島君は、その手紙を、どんなふうに受け止めたの?」

「彼女は、僕のことが嫌いになったって理解したんだ。それで、もう二度と彼女に手紙は出さなかった」

「あなたって、ドンカンの極みね」

「そうかな?」

「そうよ、最悪のドンカン男だわ」

「高校生になった頃、もしかして僕は逆の解釈をしてたのかもしれないって気がついたんだ」

 美穂が、息を殺して笑う振動が伝わってきた。

「それじゃ遅すぎるでしょ。そのアツミって子、ほんとに可哀想……ねえ、久しぶりに笑っちゃったわ。三島君のおかげで、ちょっとだけ元気がでてきた」

「ねえ、これから先も、君が元気になれるんだったら、何でもしてあげたいって思ってる」

「わかってる。でも、その言葉だけで十分よ」

「それって、どういう意味?」

「もう、わざわざ鎌倉まで来てくれなくてもいいってこと。何度来てくれたって、たぶんあなたの気持ちには応えることができないって思う」

 気がつくと、窓の外はうっすらと明るくなりかけていた。

「私、そろそろ帰るわ。親が起きる前に家に戻らないと、心配するから」

「わかった」

 美穂は、僕の左手を、強く握ってきた。僕も心をこめて握り返した。その手を、いつまでも離したくないと僕は思った。

「じゃあ」と呟くと、美穂は僕の左手を離し、スルリと布団から抜け出た。

「今日も、また会えるかな?」

「たぶん、それは無理だと思う」

「そうか。残念だな」

「三嶋くん、ずっと元気でいてね」

 美穂は、また足音も立てずに、そっと部屋から姿を消した。

 

 その年の冬、京都で泊めてもらった女性から、美穂が自死したという連絡がきた。

 それを聞いても、僕はべつに驚きはしなかった。

 美穂と京都で出会った頃から、彼女の魂は、すでに黄泉の野辺に片足を踏み入れていたような気がする。