夜間飛行

 

 

 早川教授の研究室前に立ち止まり、僕は深く息を吸いこんだ。
 喉を締めつけてくる緊張感を、少しでもほぐしたかった。深呼吸を二、三度繰り返した。でも、心臓のバクバク音はおさまりそうにない。
 高いビルの屋上から飛び降りるような気持ちで、ドアをノックした。
 部屋の奥から「どうぞ」と、くぐもった声が聞こえた。僕は右腕を伸ばし、ドアノブを掴む。指先が小刻みに震えてるのが、自分でもわかった。
 ドアを開けると、オレンジ色の斜光が入る窓を背に、紺色の背広を着た早川教授が、こちらを向いて座っていた。黒縁メガネの奥から覗く視線に、何とも言えない威圧感が漂っている。
「そのイスに座りなさい」
 たぶん早川教授は、そう言ったんだろう。緊張していて、言葉がよく聞き取れなかった。僕は、部屋の中央に置いてあるパイプ椅子まで進み、ゆっくりと腰を下ろした。
 早川教授は、右手で両切りのショートピースを摘むと、机の上に広げたノートと僕の顔を、交互にゆっくり眺めた。
「じゃあ、これから卒業論文の口頭面接を始める」
「よろしくお願いします」と答えながら、僕は覚悟を決めた。
 正直なところ、卒論の出来はよくなかった。それは自分でも十分わかっていた。
 じつは三年生の秋、そろそろ卒論用の作品選びに取りかかろうという頃、僕は心身の変調に襲われた。突然の動悸やめまいに悩まされるようになり、夜も眠れなくなった。
 四年生になる春休みに病院の精神科を受診した。すると「不安神経症」と診断され、薬を服用するようになった。
 そんな体調の中で、なんとか卒論の作業に取り組んできたのだった。
 だから僕の卒業論文は、とりあえず提出締め切りまでに仕上げたものにすぎなかった。
 きっと早川教授からも、厳しい指摘を受けるんだろう。あらかじめ覚悟だけはしていた。
「……君は、この卒業論文を書き上げるのに、どれくらい時間をかけた?」
 問いかけるというよりは、問い質すといった口調だった。
 いちど息を吸い込んでから、おもむろに口を開いた。
「は……はい。あの、去年の春休み、三月くらいに卒論をサン=テグジュペリにしようと決めて、原文で『夜間飛行』を読み始めました。ですから……その時から考えると、論文を仕上げるまで、だいたい十ヶ月くらいかかったことになります」
 僕は、ありのままを正直に答えた。
「ふうん、十ヶ月な……」と答えると、早川教授は、指に挟んだタバコを口にくわえ、マッチを擦って先端に火をつけた。
「君は、どうしてサン=テグジュペリなんか卒論に選んだ?」
 喋ってる口と鼻の穴から、タバコの煙が漂ってきた。
 早川教授の問いかけに、一瞬言葉が詰まった。正直に言えば、僕はサン=テグジュペリの作品に、特別な感動を覚えたわけではない。彼以外に、もっと面白いフランス人作家の小説があれば、そちらを卒論に選んでいたかもしれない。でも、これといって他に取り上げたい作品はなかった。
 『夜間飛行』以外にも、不条理を描いたカミユの『異邦人』や、若い女性の恋愛心情を巧みに描写したサガンの『悲しみよ今日は』、宗教者ジッドの『狭き門』、それからシュルレアリズムの代表作と言われるアンドレ・ブルトンの『ナジャ』など、気になる小説はそれなりに目を通してみた。
 でも、どれも今ひとつピンとこなかった。作品として評価はできるものの、心が揺さぶられる小説はなかった。それで、一つ二つと候補作を消去していった結果、なんとなく手元に残ったのがサン=テグジュペリというわけだった。
 この小説は、物語展開も単純だし、テーマだってそれほど難解なわけではない。体調の悪さを抱えながらでも、論文くらいだったらなんとか書けるんじゃないかと安易に考えてしまった。
 でも、そんなことは、ありのまま早川教授に答えるわけにはいかない。僕は、頭の中で言葉を巡らしながら、口を開いた。
「飛行機の操縦士だったサン=テグジュペリは、よく行動主義の人だと言われます。でも『夜間飛行』や『南方郵便機』などの小説を読んでみると、内容は意外と理想主義的で、甘いロマンチシズムに溢れています。それで、彼の劇的な実人生と、作品に見られるロマンチシズムの二面性というか、その落差を調べてみたいと思いました。それが、卒論に選んだ理由と言えば理由かもしれません」
 言い終えたところで、ふうっと息をついた。思いつきで答えたにしては、まあまあ理屈が通ってるように自分でも思えた。
「ふうん」と口の中で呟きながら、早川教授は、またタバコをゆっくりとふかした。僕が喋った言葉を、どこか訝ってるような口ぶりだった。
 また、なんとなく不安になってきた。心臓が、ドクドクと高鳴ってくる。
 彼は、タバコの煙を吐き出すと、ヘビのような細い目つきで僕を睨んだ。
「あのな、私は、もともとサン=テグジュペリは専門じゃない。でも、もちろん若い頃には、『夜間飛行』や『星の王子様』くらいは訳文で読んだ。でも、それだけのことだ。だから今回、君がサン=テグジュペリを卒論に取り上げると知って、私も改めてフランス語で『夜間飛行』を読んでみた」
 早川教授が、わざわざ原文で『夜間飛行』を読んだと聞いて、正直驚いた。
「その上で、君の卒論を三回ほどじっくりと読ませてもらった。……で、他の学生の卒論を読むときもそうしてるんだが、読み進めながら気になった点や疑問に思ったことを、全部ノートに書き出していくんだ。そのノートが、これだ……」
 そう言って、彼は一冊の大学ノートを右手で掴んで、ゆっくりと持ち上げた。そして、わざと僕に見せつけるように、左手でページの端をパラパラとめくる仕種をしてみせた。
「じつは気になる点が、ノート一冊で全部書き切れないくらい沢山出てきた」
 彼は、大きく息を吸い込むと、少し声を張り上げるようにして、また喋り始めた。
「今まで長く卒業論文を担当してきたが、こんなに沢山の疑問点が出たのは初めてのことだ」
 早川教授の声に、少しずつ怒りの感情が帯びてきてきた。
 彼は、手をゆっくりと開き、掴んでたノートを机の上に落とした。そして、わざとらしく大きなため息を洩らした。それから軽蔑するような目つきで、また僕をじっと睨んだ。
「なあ、これっていったいどういうことなんだ? 私に説明してもらいたいもんだ。君は、研究論文ってどうあるべきものなのか、分かってるのか?」
 早川教授の怒りの圧力が、僕の体を押し潰そうとしているように感じた。胸のあたりが苦しくて、息を吸うのも辛かった。僕は、小魚のように口をパクパクさせながら、何度も息を吸い込んだ。
「……自分なりには、わかっているつもりでした」
「行動主義者として生きたサン=テグジュペリと、作品の中で表現されてる理想主義的でロマンチストとしてのサン=テグジュペリの二面性について分析しようとした君の着眼点は、卒論を読んでいてわかった。そのことを私はとやかく言うつもりはない。ただ、いやしくも研究論文だ。中学生や高校生の書く読書感想文じゃない。最低限のルールとして、きちんと原文の意図を踏まえ、参考文献も照らし合わせながら、客観的に、そして丁寧に論を進めるべきだ。それなのに、君の書き方は、あまりに大雑把で乱暴すぎる。まるで思いつきの自分の考えを展開するためだけに、作品の一部や、参考文献の一部を抜きだして、都合よく繋ぎ合わせてるようにしかみえない。その上、自分勝手な結論まで導き出している。そんなもの、とうてい研究論文とは呼べんだろう?」
 あらかじめ覚悟はしていたとはいえ、早川教授の容赦ない指摘に、心が押し潰されるような苦しさを覚えた。
 彼の言わんとしてることはよくわかった。サン=テグジュペリの二面性に気づいたものの、それを論文として、どのように証明したり、どういうふうに論考を進めていったらいいのか、僕には全くわからなかった。
 そこで、行動主義者の側面を彼の仮の姿として否定し、「夢想家で理想主義的」な一面を、彼のありのままの姿として捉え直すという展開で論文を書き進めることにした。
 その上で、サン=テグジュペリは飛行機の狭い操縦席の中で、あれこれと夢想に耽っている甘いロマンチストに過ぎなかったという結論に持っていった。
 強引と言えば、まさに強引な結論だった。もしかしたら論文などという範疇には入らない、実にいい加減な結論なのかもしれない。でも、話の流れで、そうなってしまったし、いったん書き上げてしまったら、もう手直しするような気力は残ってなかった。
 たまたま卒論を仕上げる頃、不眠の症状が強く表れて、精神的にもつらかった。それで、そのまま手直しもせず提出してしまった。
 僕は、自分の膝に視線を落としたまま、じっと口を閉じていた。
 この重苦しい拷問の時間が、少しでも早く終わってくれればいい。そのことだけを心の中で念じていた。
「君は、中学校の先生を志望してるって言ってたな。先生というのは、まがりなりにも生徒の模範とならなければならない大切な職業だ。でも、君のこの論文のいい加減さを見る限り、生徒の模範を示せるなんて、私にはとうてい思えない」
 僕は、何も言い返すことができず、下を向いたまま口を閉ざしていた。
「……ところで、教員採用試験は受かったのかね?」
「いえ、落ちました」
「そうか。……まあ、それはある意味、子どもたちにとって良かったのかもしれんな」
 早川教授の言葉が、僕の胸にグサリと突き刺さってきた。でも、何も言い返せなかった。
 しばらく沈黙が続いた後、また早川教授が口を開いた。
「ところで、これは卒論とは直接関係ない話なんだが、この際だから君に聞いておきたい」
 今度はどんな質問をされるんだろうと、僕は暗い気持ちで身構えた。
「君は三年生の後半くらいから、大学の講義や演習をよく休むようになったらしいな。他の先生方から話が出てるし、事務室からも問い合わせがきてる。
 そう言えば、君は私のゼミだって半分くらいしか顔を出してない。それって、いったいどういうことなんだ? ちょっと大学を甘く見てるんじゃないのかね?」
 早川教授の質問を聞いてるうちに、沈んだ気持ちがさらに暗く落ち込んでいった。
「君の担当教官として、その理由を聞いておきたい。だから正直に答えてくれ」
「……べつに大学を甘くみているわけではありません」と、とりあえず答えた。でも、次に続く言葉が、すぐに出てこなかった。
 どこまで正直に打ち明けたらいいんだろうか。本当のことを打ち明けて、逆に卒業認定に差し障りが出てきても困る。
 迷いながら、僕は口を開いた。
「じつは三年生の秋くらいから、動悸や目眩に襲われるようになって、夜も眠れなくなってしまいました」
 早川教授が、僕の様子をじっと見ているのがわかった。僕は、気持ちを抑えながら言葉を続けた。
「……それで三年生が終わる春休みに、神経科の病院に行って診てもらいました。そしたら、病院の先生から『不安神経症』だって言われました。何か心配に思っていることがきっかけとなって、不安感や動悸に襲われるようになるんだそうです。それで精神安定剤を出してもらって、今でもずっと飲んでます。
 病院の先生からは、不安感が強いときは無理して外出せず、部屋の中でゆっくり休むようにと言われてます。それで、大学の講義やゼミなども欠席することが多くなってしまいました」
 喋っているうちに、気持ちが少しずつ落ち着いてきた。すべて話し終わると、心がちょっとだけ軽くなったような気がした。
 僕の顔をじっと見ていた早川教授は、しばらくしてから口を開いた。
「君の話はわかった。でも、それはあくまで君自身の個人的な問題だ。厳しい言い方をするが、学問を修める大学の問題ではない。学生一人一人の病気のことまで考えてたら、大学は研究も学問もやってけないからな」
「……はい、それはわかってます」
「卒論は卒論、出席は出席、君の病気は君の病気だ。まさか君だって、病気のせいできちんとした卒論が書けませんでしたなんて弁解をするつもりはないだろう?」  
「もちろん、そういうことを言いたいわけではありません」
「とにかく、君の卒論は、書き方に問題がありすぎる。この単位認定については、私一人ではなく、他の先生方にも相談しながら判断する。いいな?」
「はい、わかりました」

 外国学部棟の正面玄関から外に出ると、すで日は沈み、あたりには夕闇が降りていた。
 僕は、階段を下りたところで立ち止まり、ゆっくりと夕空を見上げた。
 西の空には、まだ淡い青色が残っていたけれど、空全体は濃紺色に沈んでいた。
 きっと卒論の単位は認められないだろう。また来年書き直して出しなさいと、早川教授に言われるだろう。
 それに、たとえ卒論の単位が認定されて大学を卒業することになったとしても、就職先は何も決まっていない。
 北海道の教員採用試験は落ちているし、二つほど受験した東京の出版社も、一次の筆記試験で落ちてしまっていた。
 卒業できるかどうかもわからず、就職先も何も決まっていない。僕は、大学からも、社会からも落ちこぼれてしまった不適応者だ。
 力なく、ゆっくり足を踏み出そうとした時、夕空をゆっくりと南へ移動していく赤い光の点滅に気づいた。
 これから夜中にかけて、どこかへ飛んでいく飛行機なのかもしれない。
 ふと僕の脳裏に、飛行機の操縦室の映像が浮かび上がってきた。
 真っ暗な室内で、計器類が薄明るく光っている。窓の外は、星の光も見えない漆黒の闇夜だ。
 僕は、操縦席に座り、その闇に向かって操縦桿を操作している。
 でも、どこに向かって飛行機を飛ばそうとしているのか、僕自身にもまったくわからなかった。