目指せ、地元小説家! 2

 人生には「潮目の替わり時」みたいなものってあるのかもしれない。

 ごく平凡な人生しか送ってきてない僕だけど、なんかそんな気がする。僕の場合、その潮目の替わり時は、たぶん二十代の終わり頃だった。

 それまでの僕って、社会の厳しさが分かってない、単なる甘ちゃんだった。自分に不相応な美少女に熱烈な恋をしたり(中学校、高校、大学と、合わせて三回は撃沈した)、映画『シェルブールの雨傘』に感動し、大学でフランス語を学ぼうと決心したり(結局フランス語はモノにならなかった)、文才もないくせして小説家になりたいなんて夢を見たり(作家という肩書きに憧れただけ)。

 あげくのはてには、筆一本での自立をめざして、東京の雑誌編集プロダクションに就職してしまった。今から考えると、背筋が凍るくらい無謀なチャレンジだった。

 そこでの体験は以前にも書いたので、ここではくどくどと書かない。でも改めて言うけど、あれって本当に昼も夜もない地獄の日々だった。けっして比喩でも何でもなく。

 

 編集者生活を始めて五年目の冬、年越しに帰省した僕は、帯広市内の居酒屋で「木暮さん」という友人と落ち合った。

 彼は高校時代の一年先輩。当時から文学オタクで、僕を廃部寸前の「文芸部」に誘い込んだのも、さらには作家をめざすように仕向けたのも彼だ。

 木暮さんは僕と同じく小説家を目指しながら、東京でフリー・ライターをして生計を立てていた。

「おい、杉本、小説は書いてるか?」

 彼は、会うなり僕に訊いてきた。これは、彼の日常の挨拶みたいなもんだ。

「そんな暇なんて一秒もありませんよ。なにせ雑誌の仕事が忙しすぎて、日曜もないくらいなんですから」

「まあ、雑誌の仕事って、そんなもんだ」

「だから小説を書いてるような時間も、体力の余裕もありません」

「それは言うなって。俺だってめちゃくちゃ忙しいけど、なんとか暇を見つけて小説だけは書いてるぞ。何が何でも年に一作だけは仕上げることに決めてるんだ。そして必ず『群像』の新人賞に送ってる」

「へえ、そりゃすごい。でも今の僕に、そんなマネはできないです」

「俺はさ、なんとかして今の状況から脱出したいんだ。そのためにも新人賞を取って、作家デビューしたい。だって、フリー・ライターなんて、しょせん使い捨ての百円ライターみたいなもんだからな。ガスが切れたらゴミ箱にポイされるだけだ」

「それは、プロダクションで働いてる僕らだって同じですよ。……それで、新人賞の方の手応えはどうなんですか?」

「ああ、問題はそこなんだ。一次選考も通らなくってさ。新人賞の壁は思った以上に高くて厳しいな」

 そう言って、彼は大きなため息をついた。

「でも、諦めないで投稿してたら、そのうち賞にたどり着けますよ」

「そう強く自分に言い聞かせて、ずっと頑張ってきた。でも最近、なんかそんな気がしなくなってきてな。……なあ、笑わないで聞いてもらいたいんだが、もしかして運命の星ってあるんじゃないだろうか」

「運命の星、ですか?」

 木暮さんらしくない言葉に、僕はちょっと驚いた。

「村上龍が、大学生でデビューできたのは、べつに才能なんかじゃなく、そういう運命の星を持ってたからじゃないか。もしそうだったとしたら、俺みたいな才能はあるけど運命の星を持ってない者が、いくら努力したって『群像』の新人賞も芥川賞も獲れないってことになる」

 僕は、それに何も答えられなかった。そういうのって、ないような気もするし、もしかしたらあるのかもしれない。

「そういうことを考えるってのは、俺が弱気になってる証拠だよな。それはわかってる」

 そう言うと、彼は口の中で小さく笑った。

「なあ、出版業界って、俺たちみたいなバリバリ働ける二十代が支えてるって思わないか。昼も夜もなくこき使われ、やがて役立たなくなったら廃棄処分される。でもその後には、マスコミに憧れてる純粋無垢な新人がどんどん入ってくる仕掛けになってる」

「たしかに、その通りかもしれませんね」

「新人賞が取れなかったしても、なんとか出版業界で生き残っていける対策を考えなくちゃならない」

「何かいい方法はあるんですか?」

「じつは、一つ考えてることがあるんだ。自分たちの生活を守るライター集団を作ろうかなって。そうやって自己防衛してくんだ」

 そう言うと、彼はため息をつきながらビールをあおった。

「出版社から仕事をもらうのも、取材をするのも、原稿料の交渉をするのも、個人じゃ立場が弱いだろ。だからライターの仲間を作って、グループとして仕事を請け負ったり交渉したりしてくんだ」

「なんか、それって労働組合の原型みたいなもんですね」

「かもしんないな。どうだ、杉本も俺たちの仲間に加わらないか? 仕事のできる人間を、少なくても五人くらいは集めたいんだ」

 僕はすぐに返事ができなかった。

 正直、もう雑誌編集者の仕事には飽き飽きしてた。体だって、とっくに限界をこえてる。

 それともう一つ、彼の考えに危惧も覚えたからだ。うまくいけば最初はフリー・ライターの自由な協同体を維持できるかもしれない。でも、いつかは僕が勤めてる編集プロダクションみたいな営利組織になっていくだろう。そしたら、また同じことの繰り返しだ。

 でも、そのことは口にしなかった。

「ちょっとしばらく考えさせて下さい」とだけ答えて、僕はその話題から離れた。

 僕らは、その年の芥川賞受賞作の悪口を、好き放題に言い合い、胸に溜まった憂さを晴らした。(そんなことでしか憂さを晴らせない僕らって、相当にヘナチョコだってことはわかってる)

 その居酒屋は、暖房が故障してたせいか、飲み始めた頃からずっと店内が薄ら寒かった。そのせいで、店を出る頃には体の芯まで冷えこんでしまった。

 家に帰ったのは、紅白歌合戦が終わる頃だった。僕は、酔いのせいもあったし、疲れもあってそのまま布団に入った。でも布団までが冷え冷えとつめたくて、なかなか寝付けなかった。それがよくなかった。

 翌朝、僕は下腹部の痛みで目が覚めた。

 最初は、いつもの下痢かなといった程度だった。でも時間とともに激しい痛みが膨れ上がってきた。それと同時に嘔吐感も強まってきた。床を這っていってトイレに駆け込むと、居酒屋で食べた消化途中の固形物が、口から激しい勢いで流れ出ていった。

 ところが、三十分もしないうちに、また胸がムカムカしてきてトイレに入る。そんなことを何度か繰り返してると、やがて吐瀉物はドロドロの液体に変わってきた。

 僕の様子を心配した父親が、どこか病院にでも行くかと声をかけてくれた。でも、なにせ正月元旦の休みである。お医者さんだって、朝からお屠蘇を飲み、のんびりと寝転んでテレビを眺めてる元日だ。

 でも、さすがに僕の惨状を見るに見かねた母親が、近所にある泌尿器科の個人病院に連絡を取ってくれた。すると、新年会に出かけてる先生が夕方に帰ってきたら診てくれる、ということになった。

 そんなわけで、僕は布団の中で、下腹痛と嘔吐に耐えつつ七転八倒の時間を過ごした。

 午後五時過ぎ、病院に行くと、すぐに腹部のレントゲン撮影をした。まだ酔いの覚めきっていない様子の医者は、その写真を見るなり呟いた。

「腸に白っぽい気泡みたいなものが写ってるなあ。どうも腸が動いてないみたいだ。こりゃあ腸閉塞かなあ」

 そこで胃腸科と外科が専門の、別の個人病院に連絡を取ってもらい、僕らはすぐにそこへ行くことになった。

 診察室に入ると、スポーツカット頭の四十すぎくらいの医者は、持参してったレントゲン写真を見るなり、「ああ、間違いなく腸閉塞だ」と断言した。そして、僕の鼻からチューブの管をスルスルと突っ込んだ。

 その場で入院が決まり、僕はすぐに病室のベッドに横になった。

 開腹手術を受けたのは、それから四日後のことだった。

 医者の説明によると、小学校三年の時にやった手遅れ盲腸の跡に、小腸が癒着していて、そこで腸が捻れたらしい。その部分の腸は、血液がしばらく通わなかったせいで青黒く変色してたという。そこを中心に、長さ四十センチほどの部分が切除された。(後日、アルコールに浸けられた腸を見せてもらった。でも、自分の体の一部だったとは思えないくらい気味が悪かった) 

 手術が終わってしまうと、退院までは、ただベッドに寝ているだけの退屈な日々だった。

 僕は、白っぽい天井を日がな眺めながら、この先どうしようか、とボンヤリ考えた。

 体が回復したら、また東京に戻って、あの過酷な編集者生活を再開するか。それとも、このまま帯広に残って別の仕事でも探すか。

 ただ、帯広に残ったとしても、たいしてやりたい仕事があるわけじゃない。もともと僕は大学時代からずっとマスコミ志望で、他の職業なんて考えたこともなかった。

 だったら、やっぱり東京に戻って編集者を続けるしかないんだろうか。 

 あれこれ考えあぐねているうちに、たった一つだけ確かに言えそうなことが見えてきた。

 それってつまり、東京で編集者生活を始めた頃の、ワクワクと湧き上がってくる情熱が、もうすっかり僕の中から消えてるってことだった。

 そのことに気づいたとき、僕は自分でもちょっとショックだった。

 

 退院してひと月ほどが過ぎた三月上旬、ポカポカと春めいた日差しを受けながら、僕はヨロヨロとおぼつかない足取りで新宿の東口を歩いていた。

 平日だというのに、あたりは人の波で混雑していて、僕は十メートルほども進むたびに、舗道の端に寄って呼吸を整えなくてはならなかった。回復期の体調はまだ充分じゃなく、以前のように颯爽とは歩けなかった。

 喫茶ルノワールに入ってくと、木暮さんが窓側のテーブルから僕に手を振ってくれた。

「どうしたんだ? まるで病人かゾンビみたいな歩き方してるぞ」

 ゆっくりした動作でイスに腰を下ろすと、木暮さんに笑われてしまった。

「それ、ビンゴです。当たってるのは『病人』の方ですけど」

 彼は、一瞬ぽかんとした顔で、僕の顔を見つめた。

「じつは先輩と一緒に、帯広の居酒屋で飲んだ次の日、空からUFOが家に落ちてきて、その破片がお腹に突き刺さったんです」

 ニコリともしないで僕を睨んでる木暮さんを無視して、僕はゆっくりとグラスの水を飲んだ。それから、腹痛に始まって開腹手術を受けることになった経緯を細かく説明した。

「そういったわけで、せっかく声をかけてもらった例のライター集団の件なんですけど、僕は参加できそうにありません。申し訳ないんですけど」

「そんなのはいいんだけど、お前の体、もうだいじょうぶなのか?」

「完全にもとの体力に戻るまで、四、五ヶ月くらいはかかるだろうって言われました。まあ焦らないで少しずつリハビリしてきます」

「じゃあ、プロダクションの方はどうするんだ? しばらく休職するのか?」

「そのことなんですが、もう雑誌の仕事はやめようかなって考えてます」

「それって、つまり編集の仕事はやめるってことか?」

「ええ。編集の仕事もやめるし、この際、思い切って東京から引き揚げようかなって考えてます。そろそろ、いい潮時なのかもしれないなって」

 木暮さんは、急に黙り込むと、二口ほどコーヒーを啜った。

「帯広に帰って、どうする?」

「まだ決めたワケじゃないんですが、教員採用試験でも受けようかなって」

「学校の先生をやるのか?……そりゃまた、思い切った方向転換だな」

「大学で、外国語の教員免許だけは取っておいたんです。二級ですけど。それが、大学に入ったときの親との約束だったもんで」

「へえ、それが役に立つときが来たってわけだ」

「採用試験を受けるってだけで、まだ何も決まった話じゃないですよ。……ところで、木暮さんは、今の仕事、まだ頑張るんですか?」

「ああ、最低十年はやることに決めてるんだ。使い捨ての百円ライターにだって、意地ってもんがあるところを見せてやりたいのさ。まあ、自己満足にすぎないかもしれんがな」

 そう言って、木暮さんは小さく笑った。

「それでも道が開けてこなかったら、その時はまた次の仕事を考えるさ」

「そうですか……ねえ、僕が、小説家になりたいって考えるようになったのは、木暮さんの影響だったんですよ。そのこと、知らなかったでしょう?」

「へえ、そりゃ俺にしたら名誉な話だなあ。でも、お前にしたら、俺のせいで人生を大きく狂わされたってところかな」と、木暮さんはニヤけた顔で呟いた。

 一時間ほど雑談して、僕らは店から出た。

「ねえ、最後に握手させて下さい」

「握手の意味がわからんけど、まあいいだろ」 木暮さんは、少し照れたように右手を差し出してきた。

 僕は、彼の手を両手で握った。

 なんとも言えない温もりが、じんわりと僕の掌に伝わってきた。

 その時だった。急に胸の奥が熱くなってきっと思ったら、僕の両目から涙が溢れだしてきた。止めようとしても、とめどなく流れ落ちてくる。

「おい、どうしたんだよ。これが俺たちの最後の別れってわけじゃないんだぞ」

 木暮さんが、冗談めかした口調で言ってくれたので、ちょっと助けられた。

「違うんです。この五年間、東京で必死に頑張ってきた過去の自分に、こんな寂しい結末しか迎えさせてあげられなくて、申し訳ないなって思ったら、もう涙がとまらなくて……」

 声が詰まって、それ以上何も言えなくなってしまった。

「なにロマンチックなこと言ってるんだ。俺たちの人生は、まだ三分の一も終わっちゃいないんぞ。これからがメーンイベントじゃないか」

「ええ、そうですよね。……ねえ木暮さん、なんとしてでも『群像』の新人賞、勝ち取って下さいね。僕、期待してますから。その知らせ、帯広で待ってますからね」

 僕の言葉を、木暮さんは、鼻でフフンと笑い飛ばした。