僕の東京時代

 昭和五十四年の春から五十六年の年末にかけて二年と九カ月あまり、東京で編集者の仕事をしていた。
 「編集者」という言葉からは、どことなく知的で高級感溢れる香りが漂ってくる。でも実際は、そんなに素敵な仕事じゃなかった。色々と悲惨な経験もしたし、辛い思いもたくさん味わった。
 それに色々と事情があって、二年と九カ月の間に、三つ職場が変わった。

 一つ目の会社は、「メタモルふぉーず」という奇妙な名前の編集プロダクションだった。そこは、中央線お茶の水駅から坂を下ったところの、薄汚れたオフィスビルの三階にあった。社員は十人余りで、ほとんどが二十代の若者で占められていた。(あんなに過酷な仕事は、四十代や五十代では体力的にもたないだろう)
 そのプロダクションでは、主に小学館や学研から発行される雑誌類の編集を請け負っていた。
 僕が、その職場で最初に携わったのは、小学館「よいこ」の別冊付録で、「幼児保育ブック」という小冊子だった。二ヶ月ほどかかって、女性の担当デスクから誌面作りのイロハを全て教えてもらった。免許皆伝には遠かったものの、その後は、自分一人でやるようになった。
 冊子の中には、料理からファッション、星占い、手芸、コラム、小説、マンガなど様々なページがあった。それらの多様な種類のページを作るのに、最初とても苦労した。
 例えば料理のページを作るとなると、料理作家を決め、季節に応じたメニューを考え(料理作家と相談して決める)、カメラマンに撮影を依頼し、その上で当日の料理撮影を迎える。写真が現像から上がってくると、デザイナーにページのレイアウトをしてもらい、決められた字数で文章を書く。そうやって全ての作業が完了したところで、写真と原稿とレイアウト用紙をセットにして印刷所に送る。
 だいたい全部のページで、そういった手順の作業を踏んでいくことになる。そのために毎日、あちこちに電話をかけたり、原稿のお願いをしたり、取材に出歩いたり、自分で原稿記事を書いたりと、バタバタと慌ただしい日々を送った。
 今でもはっきり覚えているが、その会社に初めて出勤した日の僕の退勤時刻は、夜の十一時過ぎだった。普通の会社では、考えられないくらい遅い。でも、僕以外のほとんどの編集者たちは、まだ机に向かって黙々と作業に没頭していた。なんて恐ろしい職場に来てしまったんだろうと、正直ビビった記憶がある。
 でも、ひと月も経たないうちに、零時過ぎの最終電車に乗って帰るのが当たり前になっていた。人間というのは、いい意味でも悪い意味でも、本当に適応能力が高いのだ。
 一年ほどして、「幼児保育ブック」から、学研の「ザ・ベストワン」という雑誌に担当が移った。その雑誌は、当時人気があった「明星」とか「平凡」に近い内容の月刊誌だった。
 僕は、アニメのページとテレビ局のTBSを担当することになった。毎日のように赤坂のTBSまで出かけていって番宣の担当者に会い、何か面白い情報がないか尋ねた。当時のTBSというと、歌番組の「ザ・ベストテン」とか、武田鉄矢の「三年B組金八先生」などが全盛時代だった。
 アニメの取材では、あちこちの制作会社を訪ねて、セル画の撮影をさせて貰った。その頃は、「ベルサイユのばら」とか「銀河鉄道999」、「宇宙戦艦ヤマト」などがヒットしていた。
 編集者一人あたり、担当の分量が三十ページあまりになるため、印刷所に原稿を入れる時期が近づくと、殺人的に忙しくなった。
 やってもやっても仕事が終わらず、自分のアパートに帰る余裕もなくなってくる。一日おきにアパートに帰れたらまだましな方だった。一週間くらい会社に寝泊まりしながら最後の追い込みをかけることもよくあった。
 ただし「会社に寝泊まり」すると言っても、編集部の床に毛布を敷いて、二、三時間ほど仮眠を取るだけだ。もちろん、疲れなんて取れやしない。 
 睡眠不足のボンヤリした頭で、再び机に向かうことになる。でも、思うように原稿は書けない。仕上がりが一日以上も遅れてしまって、学研の副編集長から「何やってるんだ!」と怒鳴られたりもした。
 そんな過酷な日々だった。
 仕事はきついし、睡眠不足も続く。休みだって多くは取れない。いくら元気旺盛な二十代だって、過酷な環境の中で、いつまでも体力が持つわけがない。プロダクションの中には、体を壊して辞めていく編集者もいた。
 そんな場所で、ずっと働いていたって確たる将来が見えてくるわけではない。だいたい下請けプロダクションの編集者なんて、出版界というヒエラルキーの中では、最下層に位置する使い捨ての消耗品に過ぎないのだ。それが現実だった。


 他にもっと安定した職場がないだろうかと考えてる時に、たまたまSF関係の本やマンガを出版している「奇想天外社」の社長と出会った。そちらで働けないだろうかと訊いてみると、ちょうど編集者が一人辞めたところで、代わりを探しているという返事だった。
 とんとん拍子に話が進み、昭和五十五年の十月、「奇想天外社」に移った。
 僕は、季刊で発行されている「マンガ奇想天外」を、もう一人の若い編集者と担当することになった。都内をあちこち歩き回り、色々なマンガ家に会って原稿を頼んだりした。当時まだ若かった「大友克洋」と一緒にお酒を飲んだこともある。
 編集プロダクションとは違い、夜中まで会社に残って仕事をすることはほとんどなくなった。ビジネスマンとして、ごくごく普通に規則正しい生活を送ることができるようになった。正直ホッとした。
 ところで、後から冷静に考えてみると、あんなにスムーズに転職話が進むなんて、普通ではあり得ない話だ。深い落とし穴が、どこかに隠されていても不思議ではない。
 そして、実際に「落とし穴」は隠されていた。
 社長と一緒に「奇想天外社」を起こした四十過ぎの編集長というのが、まさにその「落とし穴」だったのだ。
 ズングリとした小太りの男で、分厚い眼鏡の奥から、ギョロリとした目で人を見る。普段はニタニタと笑っているが、猜疑心が強くて、プライドも高い。自分の思い通りに部下が動かないと、意地悪をしてクビにしてしまう。そんな蛇のような性格の持ち主だった。(ということが後から少しずつ分かってきた)
 実は、僕の前に辞めていった男が、編集長と意見が対立したあげく、一人だけ別の部屋に机を移動させられ、やむを得ず会社を辞めていったという話だった。
 そんなことなど露知らず、僕は「奇想天外社」に移ってきたのだ。
 四ヶ月ほどがまあまあ平穏に過ぎて、会社の仕事にも慣れてきた頃、編集長から「売れる本」の企画を出すように言われた。本の売り上げがあまりよくなくて、ベストセラーになるような本を出さないと、会社の経営が危ういという話だった。
 しばらくしてから、僕はアニメとマンガ本の二つの企画を携えて編集長に持って行った。ところが、二つとも「こんな本じゃ売れないよ」と、あっさり却下されてしまった。
 そんなに冷たく却下しなくてもいいんじゃないかと思うくらいの反応だった。
 さらには、勤務六ヶ月を目前にして、「君は編集者としての能力がないから、辞めてくれ」とクビにされてしまった。
 その理由は、ざっとこんな内容だった。
「以前、君の企画をボツにしたとき、君は、『はいそうですか』と、いとも簡単に引き下がったよね。でも編集者というのは、ああいう弱腰な態度ではダメなんだ。自分の企画を押し通すためには、なんとかして編集長を説得しなくちゃならない。それが編集者の実力というもんだ。でも君は、そういう努力もしなかった。だから君には、編集者としての能力がないと言ってるんだ」
 僕の企画を冷たく拒絶しておいて、今さらなんと理不尽なことを言う人なんだと思った。(今となれば、彼の言いたかったことが、ほんの少しは分かるような気もするけれど)
 クビを申し渡された時の情景は、今でも忘れられない。それくらい、僕にはショッキングな出来事だった。あの時、僕は自分の人間としての価値を、まるごと否定されたような気がした。
 今から考えると、会社には余分な編集者を雇ってるだけの経済的なゆとりがなかったんだろう。それほど経営は危機的だったのだ。(僕がクビにされて、一年もしないうちに「奇想天外社」は倒産してしまった)


 クビにされてから、ひと月ほど失業保険で食いつないだ。ある日、編集プロダクション時代の友人から電話がかかってきた。湘南の藤沢で、ミニコミ新聞の編集者を探してるらしいと。
 友人と一緒に尋ねてみると、マンションの一室に、「湘南通信」という小さな事務所があった。そこでは月に一度、八ページほどのタブロイド判ミニコミ新聞を発行していた。
 「湘南」といえば、加山雄三や桑田佳祐などの有名芸能人が住んでる高級住宅地だ。また鎌倉は、川端康成とか立原正秋といった僕の敬愛する作家が、かつて住んでいた古都でもある。
 そんな場所で働いてみるのも悪くはない。そう考えて、ミニコミ新聞の手伝いをすること決めた。
 仕事は、鎌倉から藤沢、茅ヶ崎あたりを、50ccのバイクで走り回り、レストランや雑貨店、サーフショップなどの取材をして、紹介記事を書くことだった。
 こじんまりとした事務所だったけれど、地元の若いデザイナーやイラストレーターなども出入りしていて、人間関係も仕事も楽しかった。
 そこで働くようになってしばらくの間は、都内から小田急線に乗って藤沢まで通った。七月になって、辻堂の海岸近くにある公団住宅の一室に居を移した。
 仕事は順調で、特に何の不満もなかった。
 でも、江ノ島を眺めながら海岸線沿いにバイクを走らせている時、ふと自分がここにいる理由がわからなくなることがあった。
 一人前のライターとなって中央で活躍できることを目指し、はるばる北海道からやって来たのに、いったい自分は何をやってるんだろう。
 そんなことを考えてると、潮の香りを含んだ海風が、胸の奥へ染みこんできて鈍く痛んだ。

 その年の瀬、たまたま帯広の実家に帰省している時、突然の腹痛に襲われた。大晦日の夜中のことだ。
 元旦の朝から帯広市内の病院を走り回って、ようやく外科病院で診察して貰うことができた。すると、なんと「腸閉塞」だという。
 三日ほど経っても腸が開かないため、五十センチばかり小腸を切り取る手術を受けた。
 病室のベッドに横たわり、白い天井をぼんやりと眺めながら、東京での編集者生活に、そろそろピリオドを打つ潮時なのかもしれないと思った。
 これ以上、東京にしがみついていたって、将来の展望なんて少しも開けてこない。自分の実力では、ここまでが限界だったんだ。
 僕は、じっと目を閉じて、心を決めた。

 前へ進もうと必死でもがいてるのに、一歩も先へは進んでいかない。同じ地点で、ひたすら悪戦苦闘を繰り返すばかり。
 ふと気がつくと、後退していたりする。泣きたい気持ちを押し殺し、また泥沼に足を踏み入れる。 
 そんな空しい二年と九カ月だった。
 でも青春時代なんて、たぶん誰にとっても、そんなもんだろう。