運河のほとりにて

 

 

 小樽の街は朝から雪が降っていた
「ごめんなさい、だいぶん遅れてしまって」
 美穂が、小樽駅舎の正面玄関に現れたのは、約束の十時から一時間も後のことだった。
 もう美穂は来ないのかもしれないと、ほとんど諦めかけていた。
 久しぶりに見る美穂の顔は、まるで幽霊のように青白く、そして無表情だった。
「僕の乗った列車も、この雪のせいで少し遅れたんだ。だから、べつに気にしてないよ」
 小樽駅に早く着いてしまった僕は、じつは一時間半以上も待っていた。
 美穂は、僕の横までくると、キャメル色のダッフルコートに乗った雪を、右手で払い落とした。ラベンダーの香りが、ふわりと漂ってきた。
「一方的に手紙を送りつけた上に、待ち合わせの場所や日時も勝手に決めちゃって、僕の方こそ、君に悪いことしたんじゃないかなって思ってたんだ。もしかしたら君は来ないのかもしれないって、覚悟だけはしてた」
「正直に話すと、家を出る直前まで、今日ここに来ようかどうしようかって、ずっと迷ってたの」
 美穂は、そこでひと息つくと、また口を開いた。
「あなたに会いたくないって言うんじゃなくて、ここ最近ずっと家に閉じこもってたので、なんとなく人に会うのが怖いの」
「多分、そうだろうって思ってたよ」
 僕は美穂に小さく笑いかけた。でも、美穂の表情に、ほとんど変化は見られない。
「ほら、君から借りてたサイモン&ガーファンクルの『水曜の朝、午前三時』、今日は持ってきたよ」と言って、僕はLPレコードの入ったビニール袋を持ち上げた。
「あなたに貸してあったの、私もすっかり忘れてたわ」
 そう言って、しばらく黙り込んだ後、おもむろに体の向きを返ると、美穂は階段を下り始めた。
 僕も、美穂の背中を追って階段を下りた。
 美穂は、何も言わずに雪の舗道を歩いて行く。空から次々と舞い落ちてくる雪片が、美穂の艶やかな黒髪にふわりと積もっていく。
 僕は、美穂のほっそりと痩せた後ろ姿を眺めながら、黙ってついて行った。
 五分ほど歩いたところで、美穂が不意に立ち止まった。そして、ゆっくりと僕の方を振り返った。
「ねえ、吉澤君、どうして私に手紙なんて書いたの?」
 睫の上に、白い雪片が二つ三つ乗って、ひらひらと揺れていた。
「もちろん君に会いたかったからだよ。理由なんて、それしかないだろう?」
「それって、本当のこと?」
「嘘なんかつかないよ」
「でも私は、あなたを裏切って、勝手に他の男の人とつきあったのよ。どうして、そんな女なんかに会いたくなるの?」
「あの時は、確かに僕も傷ついたよ。とても辛かった。でも、僕の方だって君の心を深く傷つけてしまったんだ。だから、それはお互い様だって思ってる。今は、もう何も気にしてないよ」
「それって、本当は違うんじゃないの?」
「違うって、どういうこと?」
「自分を裏切った女が、大学を休んで、どれくらいみじめったらしい暮らしをしてるのか、それを確かめに来たんじゃない」
「そんなこと、考えたこともないよ」
「でも、私は信じられないわ」
「本当に君のことが心配で、それで会いたかったんだ」
「そんなの嘘よ!」
「嘘じゃないよ」
「いいえ嘘よ。嘘、嘘、嘘!」
 美穂は、両手で顔を覆うと、ヒステリックに叫び上げた。
 そんな美穂の様子を、僕はただ黙って眺めていた。
 叫び声を上げてから一分くらいの間、美穂は両手で顔を覆ったまま立ち尽くしていた。
 僕は、美穂に近づくと、そっと彼女の右肩に手を乗せた。
「嘘は言わないよ。君のことが心配だったから、会いに来たんだ」
 美穂は、僕の言葉に、ビクンと体を震わせ、顔を覆っていた両手をゆっくりと下ろした。そして怪訝そうな表情を浮かべて僕を見た。
「私、今何か喋ってた?」
「いや、べつに」
「私、最近自分がわからなくなることがあるの。自分が何をしていたのか、何を喋っていたのか」
「だいじょうぶだよ。君は、べつに何も喋っていなかったよ」
「そう……だったらよかったわ」 
 美穂は、小さなため息をつくと、また運河に向かって歩き始めた。

 僕と美穂は、大学のギター・マンドリンクラブで出会った。
 入学する前、僕はクラブ活動に参加するつもりなんてなかった。でも同じ学科の先輩に誘われるままに、「じゃあ、ウッド・ベースを弾かせてもらえるんなら」という条件で、入部することにした。
 四月の下旬、大学近くの居酒屋で新歓コンパが開かれた。そこで、僕と美穂がたまたま隣同士の席になった。
 美穂は、誰とも口をきかずに、一人押し黙ったまま料理を食べたり、飲み物を飲んだりしていた。
 そんな彼女の様子が気になって、僕の方から声をかけてみた。
「あの、楽器は、何を弾いているの?」
 美穂は、突然僕に声をかけられ、びっくりした表情を浮かべて僕を見た。
 茶褐色の瞳が、深い湖のように透明に澄んでいた。
「私、ですか?」
「うん、何を弾いてるのかなあと思って」
「第二マンドリンです」と、遠い記憶を呼び戻すようにして美穂は答えた。
 それが、会話の始まりだった。
 最初の二、三十分くらいの間、美穂の表情はとても堅かった。声もほとんど聞き取れないくらい小さくて、初対面の僕を警戒しているのがわかった。
「君の出身地は、どこ?」
 彼女の表情が、少し和らいできたところで訊いてみた。
「小樽です」
「どこかに下宿してるの?」
「いいえ、自宅から通ってます」
「小樽から大学まで、毎日通うのって、大変じゃない?」
「ええ、一時間半くらいかかります」
「それは大変だな。僕だったら下宿するよ」
 彼女は、すこし俯いて黙り込んだ。
「私は下宿したいって親に頼んでるんです」
「親が許してくれないの?」
「一人娘の私のことが心配なんです。だから、家を出るのを許してくれません」
「大切にされているんだね」 
 美穂は、少し困った表情を浮かべた。
「さあ、それはどうなんでしょう?」
 それからまた、考えこむ素振りを見せた。なにか上手い表現を捜しているのかもしれないと僕は思った。
「『大切』っていうのではなくて、たぶん『管理』に近いんだろうと思います」
 「管理」なんて言葉を使った美穂に、僕はちょっと驚いた。
「君の親は、あんまり君を自由にさせてくれないってことかい?」
「ええ、色々と干渉してきます」
「君はもっと自由になりたいんだ」
「ええ、もちろんです。だって、もう大学生ですから」
「親に、不満を感じてる?」
 美穂は、小さなため息をついた。
「不満、以上です。時々、腹が立って憎しみを覚えることもあります」
 美穂は、下を向くと、「今の言葉、ちょっと言い過ぎですね。聞き流してください」と小さな声でつけ加えた。
「べつに気にすることないよ。だって、僕らくらいの年齢って、みんな同じような感情を、親にたいして持ってるから」
 僕の言葉に、美穂は、かすかに微笑んだ。
 僕らの会話は、そんな感じで、じつに淡々と、時には長い沈黙を挟みながら続いた。笑いが起こることも、話が盛り上がることもなかった。
 その飲み会をきっかけに、僕と美穂は、部室で顔を合わせた時や、練習が終わった後などに、なんとなく言葉を交わすようになった。
 六月に入り、僕は思いきって彼女を、学校近くの喫茶店に誘った。そこで一時間くらい、小さなテーブルを挟んでコーヒーを飲んだ。その時も、べつに話は弾まなかった。でも、その後も僕らは、時々喫茶店に出かけて話をするようになった。
 僕らは、部活のこと、好きな音楽や小説のこと、時には家族のことなんかも話したりした。
 相変わらず二人の会話は淡々としていて、途切れ途切れで、時には十分くらい黙っていることもあった。
 でも、その沈黙を、とくに苦痛だと感じることはなかった。盛り上がりに欠けるお喋りや、長く続く沈黙も含めて、美穂と向かい合っている時間の淀みのようなものに、僕は安心感を覚えた。
 美穂にしても、僕と向かい合って過ごしてる時間を、彼女なりに楽しんでいるように見えた。たぶん僕と同じなんだろうと勝手に思った。
 七月の上旬、大学が夏休みに入った。
 でも、ギタマンの練習は、そんなことに関わりなく続いた。十一月上旬に開催される定期演奏会の演奏曲が決まり、本格的な練習に入っていたからだ。
 僕らは朝の九時に集まり、午前中は教室ごとに別れてパート練習を行った。昼食を取り、午後一時から三時までは全員が広い講堂に集まって合奏練習に取り組んだ。
 八月五日の練習を区切りに、いったん二週間のお盆休みに入ることになった。
 最後の練習が終わった日の夕方、僕は美穂を誘って狸小路近くのお洒落なレストランに出かけた。
 サイモン&ガーファンクルの『水曜の朝、午前三時』を借りたのは、その時のことだった。
「嫌なことが続いて、心が押し潰されそうにになると、二人のコーラスにじっと耳を傾けることにしてるの。そうしてると、なんとなく気持ちが落ち着いてくるの」
 そんなふうに言って、美穂は僕にLPレコードの入ったビニール袋を手渡してくれた。
 二時間あまりの間、パスタやピザやチキン料理などを二人で分け合って食べた。
 二人の会話は、いつものように言葉少なで、盛り上がることもなかった。でも僕らの間には、何とも言えない親密な空気が漂っていた。それだけで僕は満足だった。
 食事の後、僕らは、そのまま別れがたくなって、ススキノ近くのジャズバーに席を移した。
 入り口のドアを入ると、狭い店内にはお客さんがいっぱいで、僕らは狭いカウンターに身体を寄せ合って座った。
 アルコールが入ったせいで、めずらしく美穂の口が軽くなっていた。僕が尋ねないことも自分から喋ったりして、やがて父親のことを話しはじめた。
「じつは私の父って、小樽市内で開業医をやってるの。小さな内科医院なんだけど」
「へえ、その話は初めて聞いたな」
「あの人、本当は私を医学部に入れたかったの。そして、ゆくゆくは私に自分の病院を継がせたかったの」
「君が女医さんだったら、男の患者さんが大勢やってくるかもしれないね」
 僕は、彼女を茶化して言ってみた。でも、それを無視するように、美穂は真顔で話し続けた。
「でも、私は期待されるほど頭も良くなかったし、医学部に進めるような成績も取れなかった。だから、あの人にしてみたら私は欠陥品の娘なの」
「大事な一人娘のことを、欠陥品だなんて思ってる父親はいないよ」
「いいえ、間違いなくそうなの。あの人の愛情って、打算と損得しかないのよ。小さな頃から、あの人のことをずっと見てきてたから、それがよくわかるの」
 美穂は、そこまで話すと、いったん口を閉じて、考えをまとめる素振りを見せた。
「それであの人、どんなふうに方針を変えたと思う? これを聞いたら、あなただって驚くわよ」
 美穂に見つめられたまま、僕はしばらく頭を巡らしてみた。
「さあ、さっぱり分からないな」
「じつはね、医院を継いでくれる若い男を見つけて、婿養子にしようって考えてるの。私の結婚相手を、そんなふうに決めるつもりなのよ。信じられないでしょう。私の下宿を認めてくれないのも、私が変な男とくっつかないようにって用心してのことなの」
「それって、君の思い過ごしじゃないのかい?」
「いいえ、これは間違いないことよ」
 美穂は、珍しく強い口調で断言すると、また口を噤んでしまった。 
 十分くらいの間、僕らは黙ったまま、スピーカーから流れてくる楽器の演奏に耳を傾けた。
 しばらくして、僕が、ギタマンの指揮者の話題を持ち出したのをきっかけに、また僕らの会話は始まった。
 その後、美穂は、二度と父親のことを話すことはなかった。
 気がつくと十一時を過ぎていた。
 札幌駅から出る小樽行きの最終列車には、なんとか間に合う時間だ。
「もうこんな時間だよ。そろそろ帰ろうか?」
 僕は、腕時計から顔を上げて、すぐ右隣の美穂に声をかけた。
「親には、もしかしたら友達のアパートに泊まるかもしれないって言ってあるの。だから、この後のことは、ぜんぶ吉澤君に任せるわ」
 ほんのりと頬を染めた美穂が、グラスの表面を撫でながら、小さく呟いた。
 その言葉を聞いた時、僕には、その意味が、すぐに分からなかった。
 でも、その直後、ある考えが頭をよぎった。
 もしかしたら美穂は、今夜のこれから全てのことを、僕に委ねると言ってるのかもしれない。
 だとしたら、今からホテルに行こうと美穂を誘ったら、黙って僕についてくるということなんだろうか?
 僕の脳裏に、生々しい情景が色鮮やかに浮かんできた。美穂をベッドに横たえ、彼女の衣服を脱がせる。それから僕は、柔らかく白い裸体に、自分の体を重ねる。
 不意に、今まで味わったことのない恍惚感が、下腹部からゾクゾクと湧き上がってきた。自分が今、そういう場面に遭遇していることが、まだ信じられなかった。
 と同時に、僕はある不安感に襲われた。
 まだ一度も女の子を抱いたことのない僕が、美穂と上手にセックスなんてできるんだろうか。
 お互い裸になり、ベッドの上で体を絡ませながらも、結局うまくできずに終わるだけじゃないんだろうか。
 そんなみじめな自分の姿を、美穂に見せたくない。きっと美穂だって、女性を上手く抱けない男なんて、あざ笑うに決まってる。
 そんなことを考えているうちに、高まっていた欲望が、みるみる萎んでいった。
「今夜はもう帰ることにしよう。札幌駅まで送っていくよ」
 僕は、まるで美穂の言葉が聞こえなかったかのように無機的な口調で言って、おもむろに立ち上がった。 
 カウンターでお金を払うと、お店のドアから舗道に下りる階段を黙って下りた。
 僕の後からついてくる美穂の靴音が、背中に突き刺さってくるような気がした。
 地下鉄のススキノ駅に向かって歩いてる途中、まだ今なら引き返せるのかもしれないと思った。でも、僕の足は止まらなかった。
 美穂を札幌駅の改札口に送るまで、僕は、一度も美穂と視線を合わすことができなかった。男として度胸のない自分が恥ずかしかったからだ。
 美穂が改札口に入っていく時、僕は横目で、彼女の顔をそっと窺った。美穂の目元のあたりに、なんとも言えない寂しさが漂っていた。
 その顔つきが、彼女と別れた後も、ずっと僕の脳裏から消えることはなかった。
 翌日、僕は、帯広の実家に帰った。
 実家での二週間あまり、僕は、繰り返し札幌の夜のことを思い返した。そして、美穂の誘いを受けられなかった自分の臆病さに苛立ちを覚えた。
 八月下旬、ギタマンの練習が再開した。
 初日の朝、美穂と大学の廊下ですれ違った。僕は、美穂に声をかけようとしたのに、彼女は素知らぬ振りをして僕の横を通り過ぎてしまった。
 もしかしたら僕に気づかなかったのかもしれない。そう思って、彼女の後を追いかけた。
「久しぶり。元気だった?」 
 声をかけた僕のほうを、美穂はおもむろに振り返った。その目つきが、まるで見知らぬ他人を見るように、ひんやりと冷たかった。
「この前の夜は、悪かったね」
 思い切って、そう言った。でも、美穂からは何の反応もなかった。美穂は、しばらく僕を見てから、何も言わずに向きを変えると、そのまま歩き去ってしまった。
 いったいどうしてしまったんだろう。美穂の豹変に、僕はただ戸惑うばかりだった。
 パート練習が終わり、広い講堂に集まって合奏練習が始まった後も、美穂の様子は変わらなかった。じっと目の前の楽譜を見てるだけで、僕の方へ視線を向けようともしない。
 とにかく美穂と、きちんと話をしなくてはならない。そう考えた僕は、練習が終わった後、建物の玄関を出ようとしている美穂に声をかけた。
「ちょっと話がしたいんだ。時間をとってもらえないかな」
 振り返って僕を見る目は、相変わらず無反応で冷ややかだった。
「今日は、用事があって、すぐ帰らなくちゃならないの」
「ほんの五分くらいでかまわないんだ。すぐに終わるから、僕の話を聞いてもらえないかな」
 美穂は、しばらく考える素振りを見せた。
「じゃあ、ほんとに五分だけよ」
 僕らは、帰って行くギタマンのメンバーの目を避けて建物の横に回った。
 僕は心を決めると、最後に美穂と食事をした夜、どうして美穂をそのまま小樽に帰してしまったのか、その理由を正直に告白した。
 それは、とても勇気がいたし、恥ずかしいことだった。でも、きちんと打ち明けなければ、美穂の心を取り戻せないと思った。最後に僕は、君の気持ちを傷つけて本当に悪かったと謝った。 
 美穂は、何も言わずじっと僕の話を聞いていた。そして僕の話が終わると、おもむろに口を開いた。
「吉澤君の話はちゃんと聞いたわ。……じゃあ、私はこれで帰るから」
 そう言うと、美穂はゆっくりした歩調で、その場を離れていった。僕は、街路樹の下を歩き去っていく美穂の後ろ姿を、なす術もなくただ眺めていた。
 練習が再開して一週間ほどたった頃、休憩時間に、三年生の山笹篤志先輩が、美穂のそばに姿を現すようになった。
 山笹先輩は、ギターパートのリーダーで、顔つきは見るからにハンサム、お喋りも巧みな男だった。
 二人は顔を寄せ合うと、楽しそうに言葉を交わしていた。
「あの二人、できちゃったみたいね」
「山笹先輩の今度の相手は、美穂ちゃんってわけ?」
「美穂ちゃん、大丈夫かしら。あの子って純だから心配だわ。山笹先輩は、いいだけ遊んだら、すぐにポイ捨てだからね」
「噂で聞いたんだけど、最近、美穂ちゃん、山笹先輩のアパートに出入りしてるって話よ」
「へえ、山笹先輩、さすが手が早いわね」
 そんな囁きが、女子部員の間から聞こえてきた。
 最初、そんな話は信じられなかった。でも、練習が終わった後、二人が仲よさそうに講堂のドアを出て行く姿を見ると、その事実を受け入れるしかなかった。
 僕は悶々とした気持ちを紛らわすため、ことさらコントラバスの練習に熱中した。時には、合奏の後も一人部室に残って二時間くらい練習することがあった。
 楽譜の音符を正確に辿りながらコントラバスを弾いている間だけ、美穂のことを頭から追い払うことができた。
 でも、下宿に帰って一人になると、また美穂のことで頭がいっぱいになった。勉強している最中にも、美穂と山笹先輩がベッドの上で絡み合ってる映像が脳裏に浮かんできて僕を苦しめた。
 そんな時、僕は、気が狂ったように呻き声を上げたくなった。
 十月の末頃、美穂と山笹先輩が別れたらしいという噂が聞こえてきた。
「美穂ちゃん、三ヶ月もしないで捨てられちゃったわね」
「今回は、思ったより早かったわ」
「山笹先輩の次の相手は、テニス部の二年生だって話よ」
 そんな囁きが、また女子部員の間で交わされていた。
 練習の合間に何気なく美穂のほうを見ると、彼女はいつもと同じように譜面を見つめ、無心にマンドリンを弾いていた。その表情も仕種も、以前と何も変わりないように見えた。
 山笹先輩とのつきあいが終わったのなら、美穂は、もとの彼女に戻るかもしれない。そうであれば、また彼女を誘い、どこか喫茶店に出かけて仲良くお喋りできたれたらいい。僕は、そんな楽天的なことを考えたりした。
 でも、その後も僕らが言葉を交わすことはなかった。
 十一月最初の土曜日、市民ホールを会場に定期演奏会が開かれた。
 その翌週、美穂の姿が忽然とキャンパスから消えた。
 美穂は、昼間の講義にも、もちろん放課後のギタマンの練習にも現れなくなった。
 しばらくして、美穂にまつわる噂が、まことしやかに聞こえてきた。
「美穂ちゃん、山笹先輩との間にできた子どもを、東京まで行って堕ろしてきたらしいって話よ」
「今は、小樽市内の精神病院に入院していて、来年の三月まで大学を休むんですって」
 そんな会話が耳に届くたびに、「そんなのは全部嘘だ」と、心の中で呟いた。
 僕は、微笑んでいる美穂の顔を必死に思い浮かべた。すると、冗談を言ったときに小さく舌を出す癖や、照れたように前髪を撫でつける仕種なども蘇ってきた。
 そうしていると、少しだけ心が和んだ。
 年の暮れになっても、美穂の姿はキャンパスに戻ってこなかった。
 冬休みに帯広に帰省したとき、僕は思いきって美穂に手紙を出すことにした。
 便箋に、ギタマンの最近の様子や、自分の大学生活のことを綴った。そして最後に、「二月三日の午前十時、小樽駅の正面入口で君を待っています。君が現れるまで、何時間でも待つつもりです」と書いた。
 美穂が小樽駅に来なくても、べつにかまわないと思った。

 雪が激しく降る中、僕は、美穂の二歩ほど後ろを黙ったまま歩きつづけた。
 美穂は、運河に沿って走る国道との交差点まで来ると、いったん立ち止まってあたりの風景を眺めてから、右へと折れた。
「ここの運河って、つい二年ほど前に改修工事が終わったばかりなの」
「へえ、知らなかったな」
「以前は、ドブ臭いだけの裏さびれた運河だったの。古びた倉庫群を見に来る人なんて誰もいなかった。
 昔、私が小さかった頃、運河に飛び込んで死んだ女の人がいたの。お腹に赤ちゃんがいて、男に捨てられたって話だった。死体が水面にユラユラ浮かんでる情景を、今でもはっきり覚えてる。
 ここって、そんな見捨てられた場所だったの。でも、私は、そんな昔の運河も嫌いではなかった……ねえ、もう少し歩いたら、ランプが飾ってある大きなレンガ倉庫があるの。そこの喫茶店に入りましょう」
 激しく降り続く雪の中を、僕らはさらに十分ほど歩いた。   
 美穂の後ろについて、レンガ造りの狭い入り口を入っていくと、大きな暗い空間の底に出た。三十メートル四方くらいの巨大な倉庫だった。見上げると、天井も二十メートルくらいはありそうだった。
 板で覆われた壁には、明かりを灯したランプが、ぐるりと並べられている。薄暗い闇が、ランプの炎にゆらゆらと揺れていた。
 僕らは、中央に据えられている大きな石油ストーブ近くのテーブルに腰を下ろした。
 向かい合って座った美穂の顔も、暗闇の底でゆらゆらと揺れている。
「ギタマンのみんなは元気?」
「三年生は定期演奏会で引退したから、今は一、二年生しか練習に来てないよ。でも、みんな、なんとかやってる」
 僕は、メンバーの名前を順番に上げながら、面白いエピソードも交えて一人一人の様子を面白可笑しく話していった。
 最初、美穂は楽しそうな表情を浮かべ、時には相づちも打ちながら僕の話を聞いていた。ところが、途中から少しずつ顔つきが変わってきた。柔らかい笑顔が奥に消えていき、能面のような無表情が現れてきた。それにつれて、両目がヘビのように細く吊り上がっていった。
 僕の話に割って入るように、唐突に美穂が口を開いた。
「あの男、三年生の山笹は、今でも顔を出したりする?」
 いつもの美穂の声ではなかった。低く嗄れた別人の声だった。
 僕は、喋りかけてた話をやめ、ひと呼吸おいた。
「そうだね、週に一、二回くらいは顔を出すよ。そのたびに、暇で死にそうだってグチってる」
 僕はわざと冗談めかして言った。
 美穂のヌルヌルした冷たい目つきが、僕をじっとりと睨みつけていた。
「ねえ、アツシ」
 乾いた声で、そう僕を呼んだ。
「どうして今まで私に会いに来てくれなかったの? ねえ、どうしてなのよ?」
 ゆっくりと息をついてから、僕は返事をした。
「ごめんね。色々と忙しかったんだ」
「私、ずっと待ってたのよ」
「わかってる。本当にごめんね」
「ごめんで済むと思ってるの、あんた!」
「いや、ごめんで済むとは思ってないよ」
「じゃあ、どうやって償ってくれるっていうの?」
「君は、僕にどうしてほしい?」
「そんなの、あなたが一番わかってるはずでしょ。私のお腹から掻き出された赤ちゃんを、取り戻してきてよ!」
 僕は、何も言えないまま、じっと美穂を見つめていた。
「毎晩、聞こえてくるの。がらんどうになったお腹の中から、私の赤ちゃんの泣き声が」
「ごめんね、君一人に辛い思いをさせてしまって」
「ふん、あんたは、そんなこと言って、また私を欺そうとしてるんでしょ!」
 美穂は、いったん口を閉じると、両目を吊り上げて僕を睨みつけた。 
「それともあんたは、欺された私がバカだったって言いたいのかい? ねえ、本当のことを言いなさいよ。あんたにとって、私はゴミくずみたいなもんだったんでしょ。好きなだけ抱いて、飽きたらゴミ箱に捨てるだけ。ねえ、そうなんでしょう! そうだって認めなさいよ、あんた!」
 左右に吊り上がった両目をカッと見開くと、憤怒の形相で僕を睨みつけた。歯を剥き出し、口を大きく開けて、今にも叫び声を上げそうになった。
 僕はあわててイスから立ち上がり、美穂のそばに駆け寄った。そして彼女の横にしゃがみ込み、背中に右手を当てて、ゆっくりと撫でた。
 美穂は、両手で顔を覆うと、声を殺して泣き始めた。
「ごめんね。もう二度と君から離れないから。だから安心していいよ」
 そうやって繰り返し美穂に囁き続けた。
 美穂は五分ほど泣き続けた。
 泣き声がおさまって、しばらくすると美穂は顔を覆っていた両手を下ろした。そして、ぼんやりした表情で僕を見た。
 目の焦点はあっていなかった。でも、顔つきはもとに戻っていた。
「だいじょうぶかい? 気持ちは落ち着いた?」
 美穂は、小さくコクリと頷いた。
「ねえ、気分が落ち着いたら、ここを出ないかい? そして、どこか別の場所で、温かいスープでも飲もうよ」
 ややしばらくしてから、「ええ、わかったわ」と美穂の虚ろな声が返ってきた。
 レンガ倉庫を出ると、外は雪がやみ、街には日差しが射していた。陽光を反射した雪景色が、目にも眩しかった。
 僕らは駅の方に向かって歩き、アーケード街の中にあるレストランに入った。その店で、二人ともビーフシチューを注文した。
 じっくりと煮込まれたシチューを啜っていると、腹の底からじんわりと温もりが湧き上がってきた。
 青白かった美穂の頬にも、微かに赤みが差してきた。
 昼食を食べてから、僕らは、すっかり晴れ渡った小樽の街を、ゆっくりと歩き回った。
 美穂と肩を接して歩いていると、出会った頃の二人に戻れたような気がした。
 その日の夕方、美穂は、僕を小樽駅の改札口まで見送ってくれた。
「ねえ、また会いに来てくれる?」
「もちろん。また手紙を書くよ」
「待ってるわね」
 改札口を抜け、僕は札幌行きの快速列車に乗り込んだ。
 二人掛けのシートに腰を下ろして、ホームの夕景をぼんやりと眺めた。
 すると突然、目の前の景色が、二重写しに歪んできた。と思った瞬間、僕の頬を涙が次々と流れ落ちていった。
 僕は、とまらない涙を、何度も手の甲で拭った。
 全ては僕が悪いんだと、僕は心の中で呟いた。
 美穂が心を狂わせてしまったのは、全て僕のせいなのだ。僕の臆病さが、美穂を壊してしまったんだ。
 あの夜、僕が美穂を抱いていれば、僕らは仲のよい恋人同士になっていたはずだ。そうすれば、僕はずっと美穂のそばにいて、彼女を守ってあげることができたんだ。
 だから、全ては僕が悪いんだ。
 流れ落ちる涙を拭いながら、僕は自分の罪を償うために、これからも美穂に会いに来ようと心に誓った。
  
 その後も、僕と美穂は二ヶ月に一度くらい、小樽の街で会った。
 事前に、待ち合わせの日時を記した手紙を送り、小樽駅の正面玄関で彼女と待ち合わせた。
 僕らは、小樽運河のあたりを気ままにぶらつき、目にとまった喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。時には、一つのケーキを二人で分けあって食べたりした。
 二人のお喋りは、相変わらず途切れ途切れで、淡々としていた。話が盛り上がることも、笑いが起きることもなかった。
 でも、美穂とテーブルに向かい合って座り、喫茶店のガラス窓から運河沿いの街並みを眺めていると、なんとなく心が和んだ。
 そんなことが二年生の冬まで続いた。
 三年生になった春、いつものように美穂に手紙を送った。
 でも、その手紙は、「宛先人不明」のスタンプが押されて、僕の手元に返ってきた。
 その後、美穂とは会っていない。