十五歳の光と影

 教師から生徒一人一人へ、手渡しで答案用紙が返されていく。自分の番が来て、受け取った。

 「48」

 赤鉛筆で、なぐり書きされた点数が見えた。

 ああ、英語も、こんなヒドい点数か。もう、終わったな

 落ち込んだ気分のまま、僕は、ゆっくりと自分の席に戻っていった。イスに腰を下ろすと、つい大きなため息が洩れた。

 昨日の数学は45点だった。その前に返された国語も50点そこそこだった。

 こんなヒドい点数ばかり取ってたんじゃ、国公立の大学なんて、夢のまた夢だ。

 無意識のうちに、また大きなため息が洩れた。

 高校に入学して、半年が過ぎていた。

 まだ五月くらいまでは、なんとか授業についていけた。帯広市内のトップ高校に進学できたという自信もあったし、やる気も高かった。でも、六月に入ったくらいから、学校生活がつまらなくなってきた。学習しようという意欲もなくなってきた。それで、あんまり家で勉強しなくなった。授業を聞いていて、分からないことも、ちょくちょく出てくるようになった。でも、まだそんなに焦りは感じてなかった。

 僕は、まるで空気のしぼんだ風船だった。

 そんなふうにして迎えた、九月末の期末テスト。戻されるテストは、どれもこれも悲惨な点数ばかり。自業自得とはいえ、赤点ギリギリの点数で、このままじゃダメだと、ようやく気づいた。

 僕は、ため息をつきながら、ふと隣の机を見た。開かれた英語の答案用紙には、「87」という数字が、デカデカと書いてある。僕の倍の点数だ。ウソだろう! どうやったら、そんないい点数が取れるんだ?

 僕の隣は、芝崎ユリという女の子だ。一週間前の席替えで、机を並べて座るようになった。でもまだ、そんなに口もきいてないし、親しくもいない。

 芝崎さんは、度の強い近眼メガネをかけていて、目玉ががギョロリと大きく見える。お世辞にも可愛い子とは言えない。

 どちらかというと目立たないタイプで、授業中も学級の話し合いも、ほとんど発言なんてしない。貝のようにじっと口を閉じて、ただ鉛筆を動かしてる。

 友だちは誰もいないみたいで、休み時間や昼休みは、いつも一人で席に座ってる。誰からも声をかけられないし、自分からも誰にも声をかけない。

 でも、勉強だけは、飛び抜けてよくデキる。返ってくるテストの点数は、どれもこれも80点以上。まあ、こういうガリ勉タイプの女の子って、どの教室にも二人や三人くらいはいるんだけど。ただ、こういう子って、決まって他の生徒から好かれていない。彼女も、そんな一人だった。

 

「今日、返された英語の点数、スゴい良かったね」

 昼の弁当を食べながら、それとなく芝崎さんに声をかけた。それまで僕から彼女に話しかけたことなんてなかった。でも、なんとなく彼女に言葉をかけてみたい気分だった。

 芝崎さんは、ちょっと驚いたように、動かしていた箸を止めた。

「あ、ごめんね。さっき、なんとなく君の答案用紙が見えちゃって。……それにしても、ビックリしたよ。僕なんかより、ずっといい点数だから」

 彼女は、横目で僕を窺っている。まさか、僕から英語の点数を褒められるなんて、思ってもいなかったんだろう。

 彼女の警戒心を解きたくて、僕はわざと、あけすけに喋ることにした。

「僕は、君の半分くらいしか取れなかったよ。数学も国語も、赤点ギリギリだったしさ。今回の期末テストは、どれも悲惨だった……君は、どの教科も、いい点数だったんだろ?」

 芝崎さんは、ちょっと考える様子を見せてから、口を開いた。

「まあ、まあ、……ってところかな」

「最近はさ、授業を聞いてても分からないことが多くってさ、ホントまいってるよ。数学の対数なんてチンプンカンプンだし、古文の文法なんか、何がなんだか、さっぱり分からないよ」

 芝崎さんは、前を向くと、しばらく考えこむような顔つきを浮かべた。そして、小さく頷いてから、また僕の方を横目で見た。

「……対数っていうのは、発想の転換をしないと、うまく理解できないのかもしれないわ。私も、とっかかりで随分と苦労したもの」

「ふうん、発想の転換ねえ」

「転換っていうか、逆転っていうか、そういうの……」

 しばらく考える様子を見せた後、また芝崎さんは口を開いた。

「それから、古文の文法って、そのまま丸暗記するしかないと思うわ。あれって理屈じゃないし」

「丸暗記か。それって一番苦手だな。誰か、代わりに暗記してほしいよ」

 僕の言葉に、芝崎さんが、クスッと笑った。

 あれっ、この子も、笑ったりするんだ。内心、ちょっとビックリした。何があっても笑ったりしない子だと、勝手に思い込んでた。

  その時、僕の中で、ちょっとした悪戯心が湧いた。こんなにいい点数取ってるんだし、ちょっとくらい驚かせるようなこと言ったっていいんじゃないか。後で、嘘だったって言えば、たぶん笑って許してくれるだろうし。

 そんな程度の、ほんの軽い気持ちだった。

「あのさ、じつは男子の中で、君のことが、時々噂になってるんだ」

 僕は、わざとらしく、小声で彼女の耳許に向かって囁きかけた。

 僕の言葉を聞いて、芝崎さんの顔が、少し強ばるのが見えた。

 僕は、そんな変化には気づかないフリをしながら、囁き続けた。

「君が、クラスメートとほとんど話もしないのは、じつは宇宙から来た『インベーダー』だからじゃないか、とかさ。……それから、君のテストの点数がいいのは、密かにカンニングしてるからじゃないか、とかさ。まあ、そんなこと言ってる男子がいるんだ」

『インベーダー』というのは、当時テレビ放映されてた海外ドラマで、人間そっくりの姿をした、気味の悪い宇宙人を指してる。

 僕が言ったことは、全部、その場の思いつきだった。そんなことを言ってる男子なんて、本当は一人もいなかった。

 僕の言葉を聞いて、強ばってた芝崎さんの顔が、見る見る青ざめていくのが分かった。

 その時になって、ちょっとまずいことを言ってしまったかなと、内心あわててる自分がいた。

「でもさ、だいじょうぶ。そんなこと言ってるのは、ほんとに一人か二人だけだからさ。別に気にすることなんかないよ」

 あせる気持ちで、そう言いつくろった。でも、彼女の顔色を見て、何を言っても、もう手遅れなのは分かった。

 芝崎さんは、蒼白な表情を浮かべ、僕の声など聞こえないように、箸も動かさず、じっと弁当箱を見つめていた。

   

 そのことがあってから、僕と芝崎さんの関係は、なんとなく気まずくなってしまった。

 芝崎さんは、まったく僕と会話をしなくなったし、できれば僕と関わりたくないという態度が、ありありと見えた。

 一方僕は、人として許されないことをやってしまったことに、ずっと後ろめたい思いを抱えていた。

 僕が嘘をついたのは、単に悪戯心からではなく、いい点数を取ってる芝崎さんを、引きずり下ろしたいという悪意からだったということに、僕は気づいていた。

 自分が、本当に卑劣で、イヤな男に思えた。

 でも、彼女に謝罪しようという気持ちには、なれなかった。いや、謝罪するだけの勇気が、当時の僕にはなかったのだ。

 次の席替えが行われて、一日も早く彼女と離れてしまいたいと、そんなことしか僕は考えてなかった。

 

 サッカー部の斉藤と僕との間で、ちょっとしたトラブルが起きたのは、翌週の金曜日のことだった。

 五時間目が終わった休み時間、前の席の斉藤が、スポーツバックからサッカーシューズを取り出し、机の上でネジ式スパイクの交換を始めた。見てると、古いスパイにこびりついてる泥が、床にこぼれ落ちていく。

 斉藤というのは、体育会系にありがちな、ちょっとプライドが高くて、横柄な男だった。スポーツができる自分は、他の生徒より偉いと思い上がってるようなところがあった。学級の係活動や当番なども、平気でサボったりするので、僕の中に、彼への不満がけっこう溜まっていた。

 僕は、片足が終わるまで我慢して黙ってた。でも、その日は、自分が教室の掃除当番だったせいもあって、それ以上見て見ぬ振りができなくなってしまった。

「あのさ、ここでスパイクを交換すると、泥が床に落ちるからさ、それって外で、できないのかな?」

 斉藤は、僕の言葉なんか少しも気にせず、作業を進めながら呟いた。

「後で掃除当番が、ちゃんときれいにするから、これくらい別にいいべや」

「あのさ、僕は今日の掃除当番なんだ。だから、ちゃんと掃除はするけどさ、でも、泥なんかで床を汚してほしくないんだよね。箒で、きれいに掃くのって、けっこう大変だしさ」

「お前、今日の掃除だったのか? だったら、ちゃんとキレイにしといてくれな、頼んだぞ」

  まるで他人事みたいな、ふざけた口調だった。それで、少し頭にカチンときた。

「自分が落とした泥を、他人に、キレイにしといてくれって、そんなの変だろ」

 自分が思っている以上に、批判的な声音になってしまった。

「何だよ、お前? オレに文句があるってのかよ?」

 斉藤は、急に険しい目つきを浮かべると、僕を睨みつけてきた。

「スパイクの泥を、床に落とさないでくれって、頼んでるだけだよ」

「うるせって!」

 斉藤は、おもむろにイスから立ち上がった。

「ここは、教室なんだよ。サッカー部の部室じゃないんだ」

  言いながら、僕も立ち上がった。心臓が、ドキドキ鳴ってるのが、自分でもわかった。

 斉藤の身長は、僕より十センチ以上はある。肩幅も広く、体格もでかい。僕を見下ろすように睨んでくる。

「やる気か、コイツ!」

 凄みのある怒鳴り声で、僕を威嚇してきた。

 内心、ビビった。でも、悪いのは、あくまで斉藤の方だ。だから、脅されたからといって、安易に引き下がりたくなかった。

 斉藤は、左手をグイと伸ばすと、僕の学ランの襟を掴んできた。強い力で、僕の体が、宙に持ち上げられそうになる。 

 斉藤は、僕を睨みつけながら、右腕をゆっくりと持ち上げた。

 このままだと殴られる。そう覚悟した。

 その時だった。

「先生が来たわよ!」

 女の子の大声が、教室内に響き渡った。

 一瞬、静寂になった後、教室のみんなが、自席に向かって素早く動き出した。

「覚えとけよ! このヤロウ」

 捨てセリフを吐くと、斉藤は、僕の体を押し出すようにして手を離した。そして、自分の席に座り込んだ。

 僕は、二、三度、深くを息をついてから、ゆっくりとイスに腰を下ろした。気持ちが高ぶってるせいで、しばらく体全体がピクピクと震えていた。

 危なかった。あの女の子の声がなかったら、僕は間違いなく殴られてたはずだ。

 すぐに現れるかと思ってた教師は、なかなかやって来なかった。静まりかえっていた教室が、再びざわめきはじめた。

「先生が来たっていうの、あれ、嘘だったんじゃない?」

「誰だよ、あんなこと言ったの?」

 そんな呟きが、あちこちから聞こえた。

 初老の国語教師が、前のドアから、のんびりと入ってきたのは、それから五分もたった後のことだった。

 

 その日、教室掃除が終わり、下校しようと生徒玄関に入って行った時、ちょうど芝崎さんが、玄関ドアから外に出てくのが見えた。

 追いかけて、声をかけようか、と思った。でも、靴を履き替え、ドアの外に出てからも、まだ僕の気持ちは迷っていた。

 僕は、意を決して、小走りで芝崎さんの背中に追いついた。

「ねえ、芝崎さん」

 彼女は、驚いたようにビクッと立ち止まった。でも、後ろを振り返るような素振りは見せない。前を向いたままだ。

 仕方なく僕は、回り込んで芝崎さんの前に立った。

 彼女は、俯いたメガネの奥から、警戒するような目つきで僕を眺めてる。

「あのさ、今日、僕が斉藤に殴られそうになった時、『先生が来た』って言ってくれたの、もしかして君じゃない?」

 彼女は、僕から視線を逸らすと、そのまま横を向いた。

「あの時は、誰の声か、よく分からなかったんだけど、後になって気づいたんだ。あれは、君の声に似てたなって……違うかい?」

 芝崎さんは、返事をしようとしない。

「あのままだったら、たぶん斉藤に殴られてたと思うんだ。だから、君のおかげで、助けられたよ。どうもありがとう」

 僕は、コクリと頭を下げた。

 芝崎さんが、小さい声で何かを呟いた。でも、よく聞こえない。

「えっ、何?」

 僕は、彼女に問い返した。 

「……べつに、君のこと、助けようと思って、やったわけじゃないよ」

 声は小さかったけれど、今度は聞こえた。

「ただ、斉藤って、ずっと前から生意気で、嫌なヤツだなって思ってたの。だから、いつか痛い目に合わせてやりたいなって思ってただけ。……理由は、そんなところよ」

 彼女は、そこまで言うと、また貝のように口を閉じてしまった。

「そうだったんだ……でも、取りあえず、助けてくれたお礼だけは伝えておくよ」

 それだけ言い置いて、僕は芝崎さんの前から離れようとした。

「ねえ、三島くん……」

 背中から声をかけられて、僕は振り返った。

「あの斉藤に向かって、あれだけ文句が言えるなんて、タイしたものだよ。今日は、ちょっとだけ君のこと、見直したわ」

 そう言うと、芝崎さんは、僕の方を見て、小さな笑みを浮かべた。

 彼女の言葉を聞いて、僕は、ちょっと嬉しかった。

 その時、この前のことを正直に打ち明けようかと、一瞬だけ思った。謝るんだったら、今がチャンスだと。

 でも、やっぱり口には出せなかった。

「いや、そんなことないよ」

 それだけ言って、僕は、校門に向かって、早足で歩き始めた。

 

 芝崎さんが、教室から姿を消したのは、十月に入ってからだった。

 朝の会で担任の教師が、芝崎さんは体調を崩したので、しばらく学校を休むことになった、とクラスの前で言った。

 担任は、それ以上詳しいことは話さなかった。でも、その後、クラスの女子から、芝崎さんの情報を得ることができた。

 じつは彼女は、僕らより一学年上で、本当だったら二年生なのだという。でも、高校に入学してすぐ、腎臓の病気が悪化して、半年ほど入院生活を送らざるをえなくなった。それで進級できず、僕らと一緒に、一年生から再スタートしたのだった。

 この半年ほどは、病気も落ち着いていて、なんとか学校に通うことができたけど、また腎臓が悪化して再入院したとの話だった。

 芝崎さんが、いつもクラスで一人だった理由が、それで納得できた。

 勉強を人一倍頑張っていたのも、本来なら一緒に勉強する筈だった二年生に、少しでも追いつきたいという、彼女なりの必死な思いからだったのかもしれない。

 僕は、いつか芝崎さんが学校に復帰したら、その時こそ嘘をついたことを正直に打ち明けて、彼女に謝ろうと心に決めた。

 でも、僕が高校を卒業するまで、芝崎さんが学校に戻ってくることはなかった。