火星人の頭痛

 朝、目が覚めた時、体に異変を感じた。
 ベッドから出て、階下に降りていき、朝食の準備をしている妻に、そのことを伝えた。
「どんな症状なの?」と、スクランブルエッグを作りながら妻が軽い口調で訊いてきた。
「それがさあ、左肩から左首、頭の左半分にかけて重苦しいっていうか、鈍く痛むんだ。……それから、左目もひどく眩しいし……まるで左目だけにライトで明るい光でも当てられてるみたいなんだ」
 僕は、ダイニングチェアーに腰を下ろして、妻に症状の説明を試みた。でも、うまくこの状況を説明できない。
「頭の血管でも詰まったんじゃないの?脳神経外科に行って診てもらってきたら?」
「あのさあ、頭の血管が詰まっていたら、こんな元気に動いたり話したりできないだろう。それに頭が原因だったら、左首や左肩なんて苦しくならないよ」
「左肩や左首が苦しいんだったら、それ、整形外科じゃない?」
「整形外科で、首や肩を診てもらうついでに、左目も診てくれるかな?」
「目は、やっぱり眼科でしょ」
「じゃあ眼科に行って、左肩や左首が苦しくなったのと同時に、左目の調子も悪くなったって説明したら、わかってくれるんだろうか?」
「さあ、それはどうかしら……?」
 妻は、僕の症状なんかに、たいして関心もなさそうだ。彼女と話せば話すほどもどかしさが高じてくる。苛立ちと同時に、きちんとわかってもらえない哀しさが湧いてくる。
 無意識のうちに僕の口から、大きなため息が漏れていた。
 今日一日、仕事を休んで、脳神経外科から整形外科、それから眼科にまで回って、いちいち症状を事細かに説明しなくちゃならないんだろうか。そう考えただけで気が重たくなってきた。
 スクランブルエッグを載せた皿をダイニングテーブルに運んできた妻は、僕の落ち込んだ表情を伺いながら、
「とりあえず脳神経外科に行ってMRIでも撮ってもらったら? それでも原因がわからなかったら、それから整形外科や眼科に行けばいいじゃない?」
 妻が、作り笑いを浮かべ僕を慰めてくれる。
「……そうだな、そうしようか」と答えてみたものの、僕を哀れむような妻の笑みが憎たらしかった。
 べつに自慢する訳じゃないが、僕は、この六年あまり、体の健康維持にだけは相当の労力を払ってきた。
 というのも六年前、突然「腸閉塞」になって、小腸を50センチばかり切り取る大手術を受けたからだ。普段の不摂生が、命を落とすくらいの大きな病気につながるんだということを、痛いほど思い知らされた。
 ひと月あまりの入院生活が終わってから、僕は毎日一時間のウォーキングを始めることにした。毎朝5時50分に起床して6時から7時までの一時間、街をウォーキングして歩く。宮沢賢治ではないけれど、晴れの日はもちろん、雨の日はカッパを着て、零下二十度近くまで冷え込む厳冬の朝だって、厚いダウンジャケットと目出し帽をかぶって歩く。
 この6年あまり、僕は、一日も欠かすことなくウォーキングを続けてきたのだ。
 もちろん好きなタバコだってやめたし、食べ物にも気を遣ってきた。甘い菓子類は極力食べないようにしてるし、生野菜なんかは毎日バリバリ食べてる。ビタミンやミネラルのサプリだって飲んでる。
 だからという訳ではないけれど、体の健康維持にはそれなりの自信があった。それが、予想もしなかった体の異変だった。
 これは、いったいどういうことなんだ?
 その日、朝食を済ませると、すぐに家を出て、脳神経外科のある大病院を訪れた。
 40過ぎくらいの恐竜顔をした医者に症状を説明すると、MRI検査を受けることになった。狭いベッドに太いバンドで縛り付けられ、身動きひとつできない状態で丸い筒に入れられた。しばらく耳元でガラガラ、カンカン、キンキンと激しい騒音が鳴り響いた。
 恐竜顔の医者は、頭蓋骨を輪切りにした映像と、脳内の血管を立体的に現したCGを眺めながら、「腫瘍も見あたらないし、動脈瘤もないね。健康そのものの脳味噌だよ」と、明るい口調で断言してくれた。
「それじゃあ、左の頭から左肩にかけての、この重苦しい症状は、いったい何が原因なんですか?」と、僕は、恐竜顔の医者に、溜息まじりに問いかけた。
「さあ、その原因は、僕にもわからないけど、とにかく血管の詰まりや、腫瘍による脳への圧迫ではないということだけは確かだね。これ以上のことは、検査結果からは判断できないなあ、申し訳ないんだけど」
 それは『申し訳ない』じゃなくて、『申し開きでない』だろうと口の中でブツブツ文句を呟きながら、僕は医者に頭を下げて診察室を出た。  
  こうなったら、意地でも今日中に整形外科と眼科も回って原因を解明してやるぞ。そんな意気込んだ気持ちで整形外科に向かった。

「それで、整形外科では何て言われたの」
 野菜炒めを作りながら、妻は僕に問いかけてきた。
「レントゲン写真を撮ったけど、脊髄には異常はなかったよ。ただ、肩の筋肉が異常に強く凝ってるって言われた。湿布でも貼ってしばらく様子を見てくださいだってさ」
「それだけ?」
「それだけ、だよ」
「……で、それから眼科にも行ったの?」
「もちろん。症状を全部医者に話したら、頭痛は脳神経外科に、首や肩の異常は整形外科に行って診てもらって下さいって馬鹿にしたように言われたよ」
 妻は、思いっきり激しい勢いで吹き出した。でも、僕は何も可笑しくはない。ひたすら腹立たしいだけだ。
「眼科の診断は?」
「ドライアイだって。涙の出方が悪いんだそうだ。目薬を3種類くらい出してくれたよ。ひと月くらい目薬をつけて、それでも変化がなければ、また来てくださいだってさ」
「ふうん、ドライアイなの?」
「こんなのドライアイじゃないよ。右目の三倍くらい光が眩しく見えるんだから。もっと別な原因があるはずだ」
「それも、ちゃんと言った?」
「念のために網膜の様子も見てもらったんだけど、異常は何も見つからなかった」
「あら、良かったじゃない、異常がなくて」
「何も良くないよ。だって、今日一日かかって3つも病院を回ったのに、この異常な苦しさの原因が、なんにもわからなかったんだよ!……いったい俺の体、どうなっちゃったっていうんだ?」

 それからひと月あまり、僕は、マッサージにかかってみたり、鍼灸院に出かけてみたり、有名な整体師のところを訪れてみたりした。でもいっこうに症状の変化は見られなかった。そこで、人づてに勧められるままに、太い線香で患部を温める施術を受けてみたり、中国式の長い針を刺すというお婆さんの家へも行ってみたりした。
 2ヶ月ほど、そんなことを続けたけれど、結局のところ症状が改善してくるような兆候は見えてこなかった。
 相変わらず偏頭痛はひどいし、左目は異常に眩しいし、左肩から左首、左頭部にかけては、漬け物石でも乗せられたように重苦しい。
 毎日、顔を合わせる妻に愚痴ったり、嘆いたり、八つ当たりを続けたせいで、最初の頃は慰めの言葉をかけてくれた妻も、やがて何の反応も見せなくなってしまった。
 そんなある日、夕食の席で、妻は僕に向かって思いもよらないことを言い出した。
「ねえ、あなたの症状、もう2ヶ月以上になるけど、全然良くならないじゃない?」
「……ん、心底まいってる」
「ねえ、私の話、怒らないで聞いてくれる?」
「どんな話だよ、じらさないで早く言えよ」
「あなた、病院とか、マッサージとか針とか線香とか、行けるところはだいたい行ったけど、やっぱり良くならないでしょう?……で、ものは試しなんだけど、そういう不治の病みたいなものを、みてくれる人がいるらしいのよ……」
「はぁ? みてくれる人って、まさか祈祷師とか霊媒師の怖いお婆ちゃんのたぐいじゃないよね。嫌だよオレ、そんな怪しいとこ。ゼッタイ行かないよ」
「霊媒師じゃないけど、とっても霊感の強い女性で、その人の言うこと、よく当たるらしいのよ……だから、ちょっとみてもらったらどうかなと思って。みてもらって、もしかしたら、いいアドバイスが貰えるかもしれないじゃない?」
「そういうのって、だいたいはテイのいい心理操作なんだよ。相手を暗示にかけといて、高価なお守り渡して、それで症状が軽くなったような気にさせちゃうだけさ」
「その女性は、別にお守りは出してないみたいよ。料金も決まってるっていうし」
「行かないよ、オレ。お金貰ったって」
 そう強く言い張ったのにもかかわらず、それから二週間後、僕は妻と一緒に、その女性の家を訪問していた。
 恐れてたのとは違い、彼女の家は、ごくごく普通の民家だった。古びて幽霊の出そうな古寺ではなかったので、ひとまず安心した。玄関で対応に出た初老の老婆に案内され、僕らは広いリビングに入った。
 ソファに座り、ニコニコと微笑みながら僕を見ている小太りの女性は、これまたどこにでもいそうな主婦そのものだった。
「はい、そこに座ってね」と声をかけられ、僕は女性と向かい合わせの一人用ソファに腰を下ろした。女性の指示のままに、僕は右手を前に差し出す。女性は、僕の右手を両手で軽く挟み、しばらく目を瞑っていた。
「うん、わかったわ。……あなたの家系の四代くらい前に、家の裏の小川で亡くなっている女の子がいるわね。五、六歳くらいの女の子よ。江戸時代の終わり頃の出来事かしらね。それで、その女の子、行方不明扱いになったまま、まだちゃんと供養されてないの。だから、その女の子、成仏できなくて、あなたの左肩に縋ってきているのよ、助けてくれって。菩提寺に頼んで、ちゃんとお参りをしてあげないとだめよ」
 一瞬、気絶しそうになった。その女性の家に行くまでは、何を言われても絶対に信じないぞと息巻いてたけれど、そんなカラ元気は一気に消え失せた。
 自宅に戻ってすぐに、隣町に住んでいる80過ぎの父親に電話を入れた。
「ねえねえ、親父のお祖父ちゃんくらいの世代の女性で、小さい頃に行方不明になってる人なんていないかい?」
「はあ? なんだって? 行方不明?」
「だからさあ、江戸時代の終わり頃に、うちの先祖の女性で、小さな頃に神隠しか何かにあって、行方不明になったままの人っていないかなあ?」
「はあ?神隠し? さあて、そんな話、一度も聞いたことないなあ」
「悪いんだけどさあ、富山県の親戚のところに電話して、そんな話、知ってる人がいないか確認してくれないかなあ……ちょっと大事なことがあって、ぜひ調べてほしいんだ」
 我が家の家系は、もともと富山県の小作農出だ。今でも砺波平野には、父親の兄弟や従兄弟などが住んでいる。 
「お前、なんかあったのか?」
「いや、まあ詳しい話はいいからさ、とにかく大事な件だから、大至急調べてほしいんだ。頼んだよ」と言い置いて、一方的に僕は電話を切った。
 妻は、僕の隣でニヤけた笑みを浮かべて聞いていた。

 その後、父親からは何の連絡もなかった。
 左頭部から左首、左肩にかけての異常な苦しさは、全く改善の様子は見られないし、左目の眩しさも相変わらずだ。時々湿布などもしてみるが、症状に変化の兆しは見えない。
 発症から3ヶ月ほどが過ぎたある日、仕事から帰ると、妻が嬉しそうな目を浮かべて、僕を待っていた。
「ねえねえ、情報! ちょっと話を聞いて」
「いったい何だよ?」と答えながら、僕はダイニングチェアに腰を下ろした。 
「さっき私が仕事から帰ってきてテレビをつけたら、NHK教育で、『みんなの健康』って番組やってたの。今日のテーマは『偏頭痛』だったんだけど、そこに出ていたお医者さんが、面白い話をしてたのよ。
 ここ最近、日本人の間で原因不明の偏頭痛が広がってるらしいの。肩や首が異常に苦しくなったり、長く続く偏頭痛があったり、人によっては顔面に痺れがでたり、眩暈がしたり、目が異常に眩しくなったり、嘔吐感に苦しむ人もいるらしいの。で、これらの症状の原因は、頭を支えてる後頭部から首筋にかけての筋肉が異常に凝り固まって、首の筋肉の中を通っている血管や神経などを圧迫することから起こるらしいんですって。
 それで、このお医者さんは、筋肉の緊張を和らげる飲み薬を併用しながら、首筋の筋肉に電気を通したり、温熱治療をしたり、軽いマッサージをしたりして治療を続けた結果、一定の効果を上げてるんですって。
 それから、この偏頭痛、細い首で大きな重い頭を支えてる人に起きやすいことから、『火星人の頭痛』とか『ペコちゃんの頭痛』って呼ばれてるんですって。
 あなたも、頭が大きい割に、細い首してるじゃない。あのお医者さんの言うとおりよ」
 そこまで一気にしゃべってから、妻は嬉しそうにハハハと笑った。
 妻のようには笑えなかったけれど、暗闇に小さな光明がほの見えたような気がした。
 不意に電話が鳴ったのは、その時のことだ。受話器を取ると、父親からだった。
 悪い予感がした。
「あのなあ、この前の電話の件なんだけど、富山の従兄弟のところに問い合わせてみたら、ついさっき電話がかかってきてな、どうもお前の言ってたように、神隠しにあった女の子がいるらしいんだ。江戸時代の終わり頃の話らしいんだけど……」
「はあ? それって、やっぱりホントの話だったのかい?」
「いやさあ、オレのヒイ祖父さんの一番下の妹さんが、小さな頃に神隠しにあって行方がわからなくなってるらしいんだ。そんな話を、昔聞いたことがあるようだって砺波の従兄弟が言ってるんだ……」
 激しい眩暈に襲われて、僕はヘナヘナと床に座り込んでしまった。
「それ、すぐに菩提寺でお経を上げもらえないかなあ……その女の子、絶対に成仏してないよ。まだこの辺をうろついてると思うよ」
「なんか、富山の方でも、そういう話は出てるらしいんだけどなあ……」
 電話が終わった後も、脱力感で立ち上がることができなかった。
「なあ、頼むから成仏してくれよ。オレみたいな男なんかに縋ってみたって、成仏なんてできないよ、頼むからさあ。ナマンダブ、ナマンダブ……」と呟きながら、僕は右手で繰り返し左肩を撫でた。