あの春の日をもう一度

 建物の正面玄関前に佇んだまま、ロビー内の暗い空間を、感無量の想いでじっと見つめていた。一度とまった足は、わずかも動こうとはしなかった。
 薄暗いロビー内から、三十年前の久子が、軽やかな足取りで現れるのではないかと、ふとそんな気がした。
 胸の底からさまざまな感情が湧き上がってきて、心の表面に漣をひきおこした。
 しばらくして僕は深く息を吸い込み、ゆっくりと付近を見回した。
 春らしい柔らかな陽光が、あたりの建物や芝生や舗装路をあたたかく包みこんでいる。うっすらと霞んだ青空を、小さな雲がゆっくりと流れてゆく。耳を澄ますと、どこか空の高みから鳥の囀りが伝わってきた。
 この春めいた穏やかな空気感は、三十年前と少しも変わっていない。
 あの日も、この場所は春の穏やかな日和に包まれていた。僕は、次の講義のために階段を登ろうとしているところだった。
 久子は、玄関ロビー内に立ち、壁の掲示板を仰ぐような姿勢で眺めていた。淡いピンク色のコートを羽織り、アイボリーのスカートからは、ほっそりとした足が伸びて、踵の高い白いパンプスへと続いていた。
 僕が久子の姿に気づいたのと、久子が僕の姿を認めたのとは、ほとんど同時だった。
 久子は、僕の姿に気づくと、口許に小さな微笑を浮かべて、僅かに右手を上げかけた。
 彼女の姿が目に入った瞬間、僕の足はその場に凍りついていた。彼女が僕に微笑みかけようとする前に、僕はきびすを返し、小走りに玄関から離れた。
 それが、三十年前の春の出来事だった。
 ふと気がつくと、玄関ロビーから、破れたジーンズに赤いカーディガンを羽織った若い女の子が、ゆっくりとした足取りで出てくるところだった。その歩き方や顔の輪郭、少しつり上がった目つきが、どことなく久子の印象に似ていた。
 彼女は僕の姿を不審そうに横目で眺めると、階段の隅を通って正門の方へと歩いていった。今では専門学校になってしまった、この建物に通ってる女子学生なのだろう。
 かつて僕の母校だった大学は、市内の理工系大学と統合されて、郊外の広いキャンパスへ移ってしまっている。
 十五分あまりその場に立ち尽くした後、思い出を断ち切るように足を踏み出し、正門へ向かっておもむろに歩き始めた。
 いつまで玄関ロビーを見つめていても、二十二歳の久子がピンク色のコートを纏って現れるはずもない。 
 大学に入学して、僕が初めて久子を見たのは、ワンダーフォーゲル部の最初のミーティングでだった。
 新入部員が、一人ずつみんなの前に立ち、自己紹介をすることになった。
「じゃあ、私から始めていいですか?」と笑顔で言って立ち上がったのが久子だった。彼女は明るいグリーン色の膝上までのぴったりとしたワンピースを着ていた。
 少し勝ち気そうな、それでいて人一倍感受性の強そうな茶色がかった瞳が、とても印象的だった。生き生きと表情豊かに話すしぐさも素敵だった。
 彼女が自己紹介を終えないうちに僕は彼女に恋をしてしまっていた。
 その後、同じワンダーフォーゲル部のメンバーとして久子と顔を合わせているうちに、少しずつ話をするようになった。
 親しくなるにつれて好きな小説や音楽の話をしたり、本やレコードの貸し借りもするようになった。時には喫茶店に入って一時間以上も話し込んだりした。彼女は、どんなことでも気軽に僕に語ってくれた。
 性格は正反対だったけれど、僕らはけっこう気があった。もちろんそれは、男と女という関係としてではなく、親しい友達という間柄でのことだった。
 久子とは親しくなれたけど、自分の気持ちを彼女に告白するまでの勇気は持てなかった。
 彼女のように勝ち気で活動的な女性に告白したところで、僕のような内気で優柔不断な男は、たぶん恋人の対象としては相手にされないだろうと思ったからだ。
 今振り返ってみると、自分が久子に不釣り合いな相手だと決めつけることで、彼女と真正面から向き合うことから逃げていただけなのかもしれない。それくらい僕は自分に自信がなかったし、臆病な男だった。
 大学一年生の秋に、久子から恋人ができたと教えられた時は、さすがにショックだったし、ひどく落ち込んだ。
 久子が、小田という相手の男と抱き合っている姿を想像すると、嫉妬で頭が狂いそうになった。もうこれを潮時に、久子のことは諦めようと心に決めた。
 でも久子から、「あなたとは今まで通り、よい友達でいたいの」と言われてしまうと、僕の気持ちは再び揺れ動いた。
 色々悩んだ末、僕はこんなふうに方針を立てることにした。
 彼女が僕を、これまで通り親しい友人として必要としてるのならば、その望みに応えることにしよう。彼女のよき友人であり続けるということを、自分の生き方として貫いていこう。それを、彼女への僕なりの愛情表現の形としよう。
 もちろん、そんなふうに考えたからといって、僕の中の葛藤や苦悩が消えたわけではない。時には悩んだり落ち込んだりしながら、僕は久子のよき友人という姿勢を守り続けた。
 大学三年生の冬、久子が恋人と別れた時、アルコールを飲みながら、僕の部屋で彼女のグチをひと晩中聞いたことがある。
 あの夜、僕がその気にさえなれば、酒に酔っている久子の体を容易に抱くことができたと思う。たぶん、久子だって抵抗はしなかっただろう。そんな雰囲気が漂っていた。
 でも結局、僕は彼女を抱かなかった。
 こんな成り行きのような形で、ずっと好きだった久子を抱きたくはなかったからだ。失恋して酒に酔ってる久子を抱いたとしても、それは少しも喜ばしいことではない。
 僕と久子のセックスは、僕が自分の気持ちをきちんと告白して、彼女が僕の気持ちを受け入れてくれた後の、いわば恋人同士としての尊い行為でなければならなかった。
 その翌日から、久子は僕に、どことなく他人行儀な冷たい態度を見せるようになった。そんな彼女を見て、僕は少し哀しくなった。
 卒業を目前にした四年生の二月、北海道に帰って就職することが決まっていた僕は、久子への四年間の恋心を洗いざらい便箋に書き綴ることにした。
 久子の男友達というニセ物の関係を、完全に壊してしまいたかった。
 ひと晩中かかって手紙を書き終わると、便箋に二〇枚近くになった。厚く膨らんだ封筒をポストに投函して、これで久子との関わりを全て終わりにしようと心に決めた。
 大学の正面玄関で久子に出会ったのは、その翌週のことだった。正面玄関の階段を登りかけていた僕と目が合い、微笑みかけてきた久子を、僕は激しく憎悪した。
 四年間ずっと辛い気持ちを味わってきて、気持ちの区切りをつけようとしていた僕に、気安く微笑みかけないでほしいと思った。
 僕は、久子を冷たく睨みつけると、すぐに玄関から立ち去った。
  それが、彼女を見た最後になった。
 一週間ほどして彼女からの封書がアパートに届いた。僕は手紙を読むのが怖くて、開封もせずに灰皿の中で燃やしてしまった。卒業を目前にして、これ以上久子のことで悩んだり苦しんだりしたくなかった。
 燃え上がる炎を見ていると、不意に涙が流れ落ちてきた。四年間の辛かった恋が、本当にこれで終わったんだと思った。
 春の日差しを浴びながら、僕は正面玄関から建物に沿って伸びる舗装路をゆっくりと歩いた。キャンパスの正門を出たところで、僕の脇を白いプリウスが走り抜けて行った。助手席に、先ほど建物の正面玄関から出てきた若い女の子の姿が見えた。
                               
「正面玄関の前に、変な中年の男が、じっと身動きもしないで突っ立ってたの。ちょっと薄気味悪かったわ。ほら、あの男よ」
 娘が指さす方を見た。
 キャメルの革ジャンパーに紺色のジーンズ姿の中年の男性が、正門からゆっくりとした足取りで出てくるところだった。ほっそりと痩せた体躯で、髪は齢相応に白いものが混じっている。歳は私と同じくらいだろうか。特に不審者といった雰囲気は感じられない。
 最初は、それくらいしか気づかなかった。ところがその男性の横顔を見た瞬間、驚きで心臓が止まりそうになった。低い眼窩から尖った鼻梁にかけての輪郭が、大学時代の南雲君の面影によく似ていたからだ。
 まさか、と心の中で呟きつつ、自分の気持ちを必死に落ち着かせようとした。
 南雲君は大学を卒業して、そのまま北海道の十勝に帰ってしまった筈だ。
 単に他人の空似にすぎないのだろうか。あるいは、南雲君本人が何か用事のついでに、昔の大学を見に寄ったのだろうか。
 私は、戸惑う気持ちのまま、車のアクセルを踏み続けた。
 南雲君とは大学時代のワンダーフォーゲル部で出会った。 
 地味な性格で口数が少なく、特に目立つところのない普通の男子学生だった。ハンサムでも長身でもないし、別にスポーツマンでもない。はっきり言って、人の良さだけが取り柄といった、ありふれた男子学生だった。
 もちろん私の好みのタイプでもないし、最初の頃はまったく気にもならなかった。
 ワンダーフォーゲル部のミーティングや山行きなどで少しずつ彼と話を交わすようになった。親しくなってみると意外とお喋りな面があるし、小説や音楽などで私と趣味が合うこともわかってきた。
 男として警戒するようなタイプではないし、私の話を親身になって聞いてくれるので、いつの間にか安心して一緒にいられる男友達の一人になっていた。
 彼が私に好意を抱いてるらしいことは、彼の話し方や目つきから薄々気づいていた。
 でも私は、そのことにまったく気づかない振りをし続けた。
 私が心惹かれる男性は、ちょっと強引で小生意気で、プライドが高くてスポーツが得意といった男の子だったからだ。同じ学科に小田君というハンサムな男子学生がいて、私が気になっていたのは彼の方だった。
 その小田君とは、あるきっかけで、半年ほど後に恋人として付き合い始めた。
「小田君と付き合うことになったの」と南雲君に伝えた時、一瞬彼は暗い表情を浮かべ、辛そうな目つきで私を見つめた。
「……でも、あなたとは、今までと同じようによい友達として仲良くしていきたいの。いいでしょう?」
 自分の都合だけを押しつける身勝手なセリフだと知りつつ、媚びる口調で言った。
「君がそれを望むなら、もちろん僕はいいよ」
と、彼は無理に笑顔を繕って答えてくれた。
 彼のその言葉を聞いて安心した。自分の狡さには気づいていたけれど、南雲君が構わないと言うのだから、そのまま彼の気持ちに甘えようと思った。
 どうしてだかわからないけれど、私は南雲君にだけは、自分の素直な気持ちを吐露したり、いろんな悩みを相談することができた。恋人の小田君とのトラブルやケンカの話だって、南雲君にだけは話せた。
 三年生の秋に小田君と別れた時、落ち込んだ気持ちの憂さを晴らすために、南雲君の部屋で、ひと晩じゅう一緒にお酒を飲んだことがある。
 もしかすると酔いの勢いに任せて南雲君は私を抱くかもしれない。そうなったらそれでも構わないという投げやりな気持ちもあった。
 今考えてみると、私は南雲君を一時的に利用することで、失恋の痛手から這い上がろうとしていたのかもしれない。
 でも、南雲君は私を抱かなかった。
 いつものように優しい笑みを浮かべて私のグチをじっと聞き、慰めの言葉を投げかけてくれただけだった。
 彼が私を抱かなかったので、私は心の底で彼を軽蔑した。こんな絶好の機会に、好きな女を抱かないなんて、男としての決断力や行動力に欠けてるんだわ、と。
 あれから三十年を過ぎた今は、もちろんそんなふうに考えてはいない。
 誰に抱かれてもいいといいう投げやりな雰囲気を放っていた私だったからこそ、彼は抱きたくなかったのだ。
 そういう彼の純粋で潔癖で真っ直ぐな気持ちというものが、歳をとった今の私には、よくわかる気がする。彼は、それくらい真剣に私のことを愛してくれていたのだ。
 でも、プライドの高かった二十歳過ぎの私には、そんな彼の真摯さが見えなかった。
 一緒に飲んだ夜以降、私は南雲君とすこし距離を取るようになった。
 卒業間際の三月、南雲君から厚い封筒が私の手許に届いた。開封してみると、びっしりと細かい字で書き込まれた便箋が現れた。
 その手紙には、彼が私を好きになった日のことから、これまで四年間どれほど真剣な気持ちで私を見つめてきたのか、すべてが克明に書かれていた。
 私は、十枚も進まないうちに涙が溢れてきて、それ以上読めなくなってしまった。
 自分が、どれほど身勝手で、狡くて汚い女だったかということを痛いほど強く思い知らされた気がした。
 悩み苦しみながらも、私への純粋な気持ちを必死に貫いてきた南雲君に、私は深く謝りたいと思った。謝って、今でもまだ私が好きだったら、私を抱いてほしいと自分の口で彼に伝えたかった。今日からは私も、あなたのことを大切にすると南雲君に伝えたかった。
 手紙を受け取った翌週、大学の正面玄関ロビーで南雲君を見た。
 私は、南雲君に微笑みかけながら、右手を上げようとした。
 南雲君は、私に気づくなり、凍りつきそうな冷たい視線で私を一瞥すると、そのまま玄関の前から姿を消してしまった。 
  その夜、南雲君に手紙を書いた。彼の手紙を読んで私が感じたことを、正直に書いた。私のことを心から大切にしてくれて嬉しかったことや、南雲君を色々と苦しめてしまたことへの謝罪の気持ちも書いた。
  でも、彼からの返事は来なかった。
 それが三十年前の出来事だった。
 気がつくと、右足がブレーキを踏んでいた。
 車を止め、ギアをPに戻してから、私は右手でドアを開いた。
「ちょっと待っててね」と車内の娘に声をかけ、私は道端に降り立った。
 正門の方を見ると、南雲君らしい人影が、怪訝そうな表情でこちらを見ていた。
 私は、三十年前と同じように、彼に向かって微笑を浮かべてから、右手を軽く持ち上げて小さく振った。
「私の身勝手で、あなたを色々と苦しませてしまってごめんなさいね」と、口の中で小さく呟いてみた。 
 彼は、まだ私に気づいていない。
  春らしい柔らかな日差しが、正門前に佇む南雲君を眩しく包みこんでいる。