午前中の講義が終わり、大学の校舎内は、ひっそりと静まりかえっている。
「三島くん、私ね、あなたのこと、とても大事な友達だと思ってる」。久美は、少し間を置いて、また続けた。「でもね、それって、好きだとか、そういうのとはちょっと違うの」
彼女は、教卓の前に立って、僕のほうを見ながら喋っている。そして時折、目のあたりにかかってる髪の毛を、神経質そうに掻きあげる。
僕は、窓際のイスに座り、ぼんやりと久美の口の動きを見ている。
「あなたって、一緒にいて安心できる相手なの。余計な気を使わなくてすむし。登山のことばかりじゃなくて、本のことや、音楽のことなんかも喋ってて楽しいし、ホントいい友達だって思ってる。でも、申し訳ないんだけど、あなたのこと、とくに異性として意識したことはないの」
久美は、そこまで一気に話すと、また次の言葉を捜すように少し口を閉じた。
「あなたが、私に好意をもってくれてるのは、ずっと前から気づいてたわ。でも、それに向き合いたくないから、今まで知らない振りをしてたの」
久美と僕は、大学に入学した時から一年半、ワンダーフォーゲル部員として一緒に活動してきた。同じパーティーに所属して山に登ったこともある。二人だけで喫茶店に入って、好き勝手にお喋りすることも多かった。僕らは「お互い気心の知れた間柄」だった。
でも本当を言えば、初めて彼女を見たときから、ずっと彼女に恋心を抱いてた。でも僕は、その気持ちをひた隠しにしてきた。
告白できなかったのは、彼女がキャンパス内でもひときわ目立つ美人だったからだ。彼女に憧れてる男子学生も多かったし、僕みたいな十人並みの男が久美に告白したって、どうせフラれるだろうと最初から諦めていた。それだったら、今のまま仲のよい部員同士でいた方が、気兼ねなく彼女のそばにいられる。自分に自信のない僕は、そう言い聞かせてきた。
でも、二年生の夏休みが近づいてきた頃、僕は、どうにも自分の気持ちを抑えきれなくなってきた。やっぱり、ちゃんと自分の気持ちを伝えたくなった。ひと月ほど迷いに迷った末、フラれたって仕方がないと心を決め、彼女を呼び出すことにした。
教室に現れた久美は、僕が告白するよりも前に、自分の気持ちを話し始めた。
「私って三人兄妹の末っ子で、小さい時から甘やかされて育ってきたの。だから相当にわがままだし、自由奔放な性格なの。そんな私だから、少し強引なくらいに私を引っ張っていってくれる男性じゃないと、惹かれないってというか、好きになれないの」
久美は、そこまで言うと、また少し呼吸を整えた。
彼女が、次に何を言おうとしているのか、なんとなくわかった。
「……だから、こう言っちゃうのは本当に申し訳ないんだけど、あなたみたいな、私に気を使ってくれて、ただただ優しいだけの男の人って、なんだか物足りないっていうか、心が惹かれないの」
確かに、僕は男っぽくもないし、強引に女性を引っぱっていくタイプでもない。彼女の言う通りだ。だから、何も言い返せなかった。
「誤解しないでね、三島君のことが嫌いだとか、そんなこと言ってるわけじゃないのよ。その逆で、私にはかけがえのない、いい友達だって思ってる。ただ、その気持ちと恋愛感情って、べつだってことなの」
久美は、困ったような目つきを浮かべると、窓の外をめるそぶりを見せた。
僕も、窓の外へと視線を移した。中庭のテニスコートに、白い短パン姿の学生がやってきて、一人で素振りを始めた。
「あなたのこと、好きになってあげようかなあって、じつは考えたことがあるの。でも、やっぱり無理だった。自分の感情なんて、自分の意思で、どうこう好きに変えられるものじゃないでしょ?」
久美が、自分の気持ちを、ありのままに話してくれてるのがよくわかった。だからなおのこと、彼女の言葉一つ一つが、胸の底に突き刺さってくる。
「あなたには、とっても感謝してるわ。ほら私、去年の秋から今年の春まで、同じ英米学科の村上君と付きあってたでしょう。仲のよかった男友達は、みんな私から離れていっちゃったけど、あなただけはずっとそばにいてくれた。そして、私のグチや不満を聞いてくれた。彼と別れて落ち込んでた時も。だから私も、なんとか元気になれたと思ってる。あなたが、私の気易い友達でいてくれて、本当に助けられたわ」
僕は、彼女の言葉に相づちも打てないまま、黙って久美の顔を見た。
去年の秋、久美から、村上と付きあうことになったと聞いた時、一週間ほど食事が喉を通らなかった。夜も眠れなかった。
あの時、僕は告白せずにいた自分自身を呪わしく思った。自分の不甲斐なさが腹立たしかった。でも、どんなに後悔しても手遅れだった。それで僕は、もう久美のことは忘れて、他の女の子を好きになろうと思った。
でも、部室で久美から気軽に声をかけられたりすると、つい愛想のいい笑顔を作って、彼女のそばに寄っていった。それくらい僕は、久美に未練たらたらだったのだ。
春休みが始まる頃、僕は久美から、村上と別れたことを打ち明けられた。あの時、僕は神妙な顔をして久美の話を聞いてたが、内心嬉しかった。
「ねえ、私の本当の気持ちを、正直に告白しておくわ。私、本心じゃ、あなたのこと失いたくないって思ってるの。恋人としての三島君じゃないわよ。あくまで友達としての三島君のこと。いつでも私が望むときにそばにいてくれて、私のことをあれこれ心配してくれて、私のグチを聞いてくれる、友達としての三島くん。
あなた、なんて私は身勝手な女なんだろうって、呆れてるでしょう。でも、それが私の本心なのよ」
僕は、久美に何も言えなかった。彼女も、しばらく口を閉じていた。
「ああ、とうとう全部、言っちゃったわ。私って、なんてバカなんだろう」と吐き捨てるように言うと、久美はドアのところまで歩いて行った。
「私たちの関係は、これで終わりにしましょう。それがいちばんいいわ」
そう言って、久美は廊下に姿を消した。
久美のサンダル音が、少しずつ廊下を遠ざかっていくのを、僕はじっと聞いていた。
南アルプスの夏合宿登山から帰ってきて、すぐにワンダーフォーゲル部に退部届を出した。部の活動で、久美と顔を合わせるたび、まるで見知らぬ他人のように振る舞わなくてはならないのに耐えられなかった。それで退部を決めた。
実家の帯広に帰り、ひと月ほど市役所のアルバイトをした。測量手伝いの肉体労働だった。たぶん作業に没頭してる間は、久美のことを忘れらるだろうと思った。でも、何をしていても彼女のことが頭から離れなかった。
九月に大学が始まった。
毎週水曜日の午後、「教育心理学」で久美と同じ講義を受けなくてはならなかった。
僕は、いつも早めに教室に入った。最前列のいちばん窓際の席に座り、外の景色を眺めながら講義が始まるのを待った。そして講義が終わった後も、全員が退室するまで、ずっと窓の外を見ていた。そうやって久美と顔を合わせないようにした。
九月三週目の水曜日だった。いちばん最後に教室のドアを出ると、目の前に、淡い水色のワンピースを着た久美が立っていた。
一瞬、心臓が縮むような驚きを覚えた。でも心の動揺を必死に抑え、何気ないふうを装って彼女の顔を見た。
少し疲れたような表情の中で、口許のあたりだけに微かな笑みが浮かんでいた。
「どう、元気だった?」
彼女は、普段と変わらない口調で尋ねてきた。夏前のことなど、何もなかったように。
「べつに。ふつうだよ」
僕も、できるだけ無機的な口調で答える。
「そう……」
五秒くらい、僕らは黙ったまま立っていた。
「その後、どうしてるのかなあって、ちょっと気になったものだから」
僕は黙ったまま、階段に向かって歩き始める。久美も、僕の横に並ぶような形で、ゆっくりとついてくる。
「秋山登山の計画が始まったの。私たちのパーティーは、北穂高あたりに登ろうかって話してるところ」
「北アルプスか。まだ登ったことないな」
一階まで下り、そのまま僕らは正面のドアから外へ出る。ステップを降りる手前で、僕は足を止めた。
「じつは私も、北アルプスは初めてなの」
久美は、僕に話しかけながらも、そのまま歩いて行く。でも、僕の足は動かない。
しばらくその場に立っていた。
久美が五メートルほど先へと進んでいく。
僕は、心を決めるときびすを返し、まっすぐ建物の中へと歩き始めた。
背中から「三島君……」と、久美の声が聞こえた気がした。でも、僕は無視した。そのまま進み、急ぎ足で階段を上っていった。
その夜、僕は一睡もできなかった。
この二ヶ月、僕は地獄の苦しみを味わってきた。気が狂いそうになるくらい、ほんとうに辛かった。
それが最近になって、ようやく気持ちが落ち着いてきたのだ。なんとか久美を諦められるような気がしてきたところだった。
だからこそ、気やすく声をかけてきた久美が忌まわしかった。呪わしいくらいだった。
でも、久美から逃げてしまった自分も、同じくらい腹立たしかった。いつまでも失恋の痛手を引きずって、ウジウジしてる自分に嫌悪感を覚えた。
そんなふうに悶々としてるうちに、夜が明けてきた。
三日ほど、色々と悩んだ末、久美の家に電話を入れることにした。久美が僕に声をかけてきた理由も知りたかったし、彼女から逃げてしまったことも謝りたかった。
でも、電話ボックスに入ってからも、彼女の家の電話番号を押してる間も、まだ迷っていた。
電話口には、母親らしい声が出た。僕は、丁寧に挨拶してから、久美さんを呼んでくれるようにお願いした。すると、三十秒ほどして、久美の声が聞こえた。思ってたよりも元気そうなので、ちょっとだけ安心した。
「この前は、悪かった。せっかく声をかけてくれたのに、君から逃げてしまって」
「三島君、私の顔なんて見たくもないって思ってるでしょ? それが、よくわかったわ」と言ってから、久美は自嘲的に笑った。
「いや、べつにそんなことないよ。でも、突然だったんで、自分でも、どうしていいかわからなくなった」
「そう……」
僕らは、しばらく押し黙った。
「北穂高の話は進んでる?」
「ええ、五泊六日の予定で行くことになったわ。月末の試験週間が終わったら、すぐに出発する予定よ」
「山の上は、紅葉がきれいなんだろうな」
「紅葉どころか、頂上のあたりは、気温が零下まで下がるらしいわ」
「へえ、信じられないな」
深く息を吸ってから、僕はまた口を開いた。「ねえ、聞いていいかな?」
「……ええ。何?」
「この前、どうして僕に声なんてかけてきたんだよ?」
「なんか、久しぶりに三島君の声が聞いてみたいなって思ったの」
「声が聞きたいって、それだけの理由?」
「ええ、たぶんそれだけだったと思う」
「……あのさ、僕も久しぶりに君と話せて、嬉しいって気持ちはあったよ。でも、それとは反対に、君のことを憎む気持ちもあった。だって、この二ヶ月、君のことを諦めようとずっと苦しんできたんだ。それで、ようやく忘れられそうになってきたのに、どうして声なんてかけてきたんだって腹が立ってしまった」
「ごめんなさい、謝るわ」
「あのさ、正直に言うけど、僕はまだ君のことが好きなんだ。忘れられないんだ。だから、君から気軽に声をかけられると、動揺するし、とても辛くなるんだ。それをわかってほしい」
久美は、しばらく黙っていた。
「三島くんの言いたいことはわかるわ。でも、私の話も聞いてくれる? 私は、三島君のことが好きになれないかもしれない。でも、三島君は、やっぱり私には大切な友達なの。他の誰にも代えられない大切な人なの。そのことが、この二ヶ月ではっきりとわかった。私は今でも三島くんを失いたくないって思ってる。これって、私のわがままなのかしら?」
そんなの、君のわがままに決まってるじゃないか。僕は心の中で呟いた。でも、口には出さなかった。
「なんか二ヶ月前と、何も変わってないな。なんにも。僕も君も、同じところを行ったり来たりしてるだけだ。こんなんじゃ、前にも進めないし、後ろにも戻れない」
僕は、小さくため息をついた。久美も、しばらく口をつぐんでいた。
「ねえ、三島君……」久美は、急に声をひそめると、「ためしに私のこと抱いてみない? もしかしたら、それで私の気持ちが変わるかもしれないわ。あなたのこと、好きになるかもしれないわ。女って、そういうところがあるから」
一瞬、久美が何を言ってるのか、わからなかった。僕は、ただ茫然と受話器を耳に当てていた。
その直後、急に視界がゆがみ、涙が滂沱と流れ落ちてきた。僕は、左手で頬を拭った。でも、拭いても拭いても涙はとめどなく流れてきた。
「ねえ、なんてこと言うんだよ。君って、そんな安っぽいこと言う女だったのかい?
たのむから、『ためしに私のこと抱いてみない?」なんて、そんな売春婦みたいなこと、言わないでくれよ。そんなの、絶対に君らしくないよ。絶対に、君らしくない……」
僕は、ほとんど嗚咽しながら、久美に語りかけていた。
「もちろん僕は、君のことを、ずっと抱きたいって思ってたよ。それは、男としての本心だ。でも、そんな言い方をする君なんて、絶対に抱きたいとは思わない。そんなことを言う君は、けがらわしいくらいだ。
ああ、ずっと君のことが好きだった自分が、まるでバカみたいじゃないか」
僕は受話器に向かって罵り声をあげ続けた。
でも途中から、誰に向かって怒りをぶつけてるのか、自分でもわけがわからなくなっていた。