私、謝りに行きません

 まだ午前十時を過ぎたばかりなのに、中空に浮かんだ太陽からはジリジリと暑い日差しが降り注いでくる。

 住宅街の中ほどにある平屋の住宅の前に、菜穂は立っていた。玄関脇に、自転車が二台、放り捨てるように倒れてる。それを跨ぐようにして玄関の前まで歩いていった。

 軽く息を吐き、気持ちを引き締めてから玄関のベルを押した。

 家の中で呼び出し音が鳴っているのが伝わってくる。でも、人の動く気配は感じられない。少し間をおいてから、もう一度ベルを押した。でも反応はない。

 玄関のドアを、少し強めにノックしてから、「タカシ、ねえタカシ! いるんでしょう?」

 ノックをした右手で、ドアノブをつかみ、ためしに引いてみた。

 ドアは軽々と開いた。そのとき青黒く光る物が、素早いスピードで鼻先をかすめて飛んでいった。玄関の中を覗くと、七、八匹の銀バエが、クルクルと旋回しながら飛んでる。ツンと鼻を突く酸っぱい異臭が、濃密に漂ってる。廊下の隅には、半透明の大きなゴミ袋が何個も積み重ねられていた。

「ねえ、タカシ! そこにいるんでしょう!」と、菜穂は大声で怒鳴った。

 居間のあたりから、ゴソゴソと人の動く気配が伝わってくる。

「タカシなんでしょう? いるんだったら玄関まで出てきなさいよ!」

 五秒くらいしてから、薄汚れたTシャツに短パン姿のタカシが、うつむき加減のまま居間のドアから顔を出した。

「ねえ、アンタ、今日から学校に来るって、昨日私と約束したじゃない。それなのに、なんで来なかったのよ?」

 タカシは、喰い入るような目で菜穂を見つめていたが、まもなく下を向いてしまった。

「今日は二学期の始業式なんだから、頑張って来ようって、昨日ちゃんと話したでしょ」

 菜穂は、喋りながらタカシをつい睨みつけてしまう。睨みつけたって、タカシの気持ちを委縮させ、反発心を起こさせるだけだとわかってるのに。

 これまでタカシをやさしい言葉で励ましたり、元気づけたりしてきた。学校の大切さも語ってきた。でも、学校にやって来なかった。

「ねえ、どうするつもりなのよ? 明日は、ちゃんと学校に来れそう?」

 タカシは、俯いたまま微塵も動かない。まるで銅像にでもなってしまったようだ。

「ねえ、昨日は何時に寝たの? 十二時までには寝なさいって言ったでしょ。また明け方までテレビゲームしてたんじゃないの?」

 相変わらずタカシは身動き一つしない。

「私も、テレビゲームはするけど、時間を決めて遊ぶようにしてるわよ。だって熱中したら、途中でなかなかやめられないでしょ?」

 そう言いながら、軽く笑ってみせる。

「クラスのみんなも、あなたのこと心配してるのよ。タカシ、どうしてるんだろうって」

 下を向いたまま返事もしないタカシに、菜穂はじれったさを感じる。

「ねえ、まずは生活を変えてみようよ。朝に起きて、夜には寝るようにしよう。そんなふうに体のリズムを変えてかないと、いつまでたっても学校に来れるようにならないわよ。だから、がんばってみようよ!」

 明るい声で喋ってるものの、菜穂の気持ちは暗い。これまでだって同じことを何度も繰り返し話してきたからだ。

「明日の朝、私、あなたを迎えに来てあげるわ。本当は今日も、そうすればよかったのね。明日の朝七時半、ここに迎えに来るから。ぜったいに起きて待ってるのよ。なんなら私から、お爺ちゃんかお婆ちゃんに、ちゃんと起こしてくれるように頼んでみようか?」

 突然タカシは顔を上げると、菜穂の顔を睨みつけた。両目の奥に、怒りのような光が渦巻いている。

「もういいよ! オレのことは放っておいてくれ!」と、タカシが怒鳴り上げる。

 菜穂は、思いがけないタカシの行動に、一瞬ビクンと体が震えた。

「学校なんか行ったって、どうせみんなにクサイとか、浮浪者だとか言われるだけなんだ。勉強だってついてけないし、学校に行ってもしょうがないんだよ! だから、もうオレのことは放っといてくれ!」

 胸の中の憤懣をはき出すように、タカシが大声で叫ぶ。

「あんた、何言ってるの? 中学校に行かないで毎日何するっていうのよ? 勉強しなかったら、高校にも行けないし、社会に出たって就職もできないのよ。それに、いつまでもお爺ちゃんやお婆ちゃんの世話になってるわけにもいかないのよ。そういうこと、あんた、わかってるの?」

「るっせえな! このクソババア! お前に、オレのことなんて関係ねえだろ。余計なお世話なんだよ。オレは学校なんて行かないから、もうオレん家にも来るな!」

 そう怒鳴ると、タカシ居間の奥へと走り込んでいってしまった。

「ねえ、タカシ! タカシったら!」

 何度タカシの名を呼んでも、二度とタカシが姿を見せることはなかった。

  

 重い気持ちを引きづったまま菜穂は中学校の職員室に戻ってきた。 ちょうど二時間目が終わった休み時間で、生徒が次から次へと入ってきて、教員たちの指示を受けている。

 菜穂は、胃のあたりを撫でながら、ぼんやりとイスに座った。

 クラスの生徒のことを、あれこれ考えてると、胃のあたりに鈍い痛みを覚える。担任してる生徒の問題は、不登校のタカシだけじゃない。女子グループの対立がきっかけで、一人孤立している女子生徒がいる。本人は毎日のように泣きながら窮状を訴えてくるし、母親は、これはイジメだと電話で文句をつけてくる。

 自分なりに精一杯対応してるが、孤立してる女子生徒が、他の女子たちと仲良くなりそうな気配は見られない。まったくクラスの中は解決しない問題ばかりだ。

 菜穂が、自分のイスに座って大きく溜息を漏らしたとき、隣のクラス担任の松木が声をかけてきた。

「タカシの家は、どうだった?」

 松木はB組の担任で、二十九の菜穂よりも十歳ほど年上だ。仕事は出来るが、決して偉ぶらないし、年下の教員に親身になってアドバイスしてくれる。菜穂にとっては頼りの綱でもある。

 菜穂は苦笑いを浮かべて、顔を横に振った。

「ぜーんぜーんダメ。とりつく島もないって感じ。何を言ってもわかってくれないし、最後はクソババアって怒鳴られちゃった」

 松木は、クククッと口の中で笑った。

「男子生徒にも恐れられる杉本先生も、タカシだけには形無しってところだねえ」

「べつに男子生徒には恐れられてませんけど、ただいま激しい無力感に打ちのめされてるところでーす」

「たしかタカシって、爺ちゃん婆ちゃんに面倒みてもらってるんだったよね?」

「ええ、母方のお爺ちゃんとお婆ちゃんです」

「両親は、どうしてるんだったっけ?」

「行方不明って話です。……タカシが小学四年生の時に両親は離婚してるの。それで母親が、タカシと下の妹を引き取って実家に帰ってきたんだけど、タカシが六年生になった時に、家を飛び出してったきり音信不通だって聞いてるます。噂だけど、若い男と一緒だったらしいっていうわ」

「そっかあ……そう考えると、ヤツも、つくづく大人の犠牲者なんだなあ」

「確かにねえ。でも、だからって学校に来なくてもいいってことにはならないですよね。両親がいないからこそ、がんばって勉強して、きちんと自立できるようになってほしいんです……ただ、中学二年じゃ、そういういうこともわからないかもね」

「きっと、爺ちゃん婆ちゃんも、可哀想な子だと思って甘やかして育ててきたんだろうなあ……だとしたら、わがまま放題になってる可能性が高いね」

「それに、あの家、ゴミ屋敷なんです。異臭も凄くって息もできないくらい。お爺ちゃんもお婆ちゃんも働いていてて、家の中をきちんと片づける余裕がないのかしら。風呂も、あんまり湧かしてないみたいで、あの子、近づくととっても臭いの。下着だって、ほとんど替えてないんじゃないかしら。ほかのクラスメートたちが嫌がるのも無理はないわ」

「普通の中学二年だったら、そういうのは人が嫌がるって、わかるんだけどなあ」

「お爺ちゃんもお婆ちゃんも、そういった点は、ほったらかしなんだと思うわ……」

「爺ちゃんか婆ちゃんに学校に来てもらって、きちんと話したらどうかなあ?」

「何度か、お婆ちゃんとは話してるんです。でも、私みたいな年若い女の言うことなんか、ちゃんと聞いてくれなくって」

 ちょうどそんな話をしていると、三時間目の開始を知らせるチャイムが響いた。菜穂は、授業の道具を両手で抱えると、そそくさと職員室から出て行った。

 

 帰りの会が終わり、職員室に戻ってきて、イスに腰を下ろした時だった。教頭の青井が、背後から声をかけてきた。

「杉本先生、トラブル発生。ちょっと校長室まで来てくれないかい?」

 いつもはにこやかな笑みを浮かべてる青井教頭なのに、なにやら深刻そうな顔つきだ。はて、と戸惑う気持ちを抱え、「はい」と返事をして、急ぎ足で校長室へ入っていった。

 室内に校長の姿はなかった。菜穂は、ソファに青井教頭と向かい合って座った。

「じつは、三十分ほど前に教育委員会から電話が入ってね。校長はそれで、その対応に委員会へ出かけてる……」

 青井教頭は、少し言い淀んでから、改めて菜穂の顔を見た。

「大井タカシくんのお爺ちゃんが、教育委員会にクレームの電話をかけてきたらしいんだ。お爺ちゃんが言うには、孫のタカシが、家庭訪問にやって来た担任から不登校にかかわって脅迫めいた言葉でおどされた、と。学校に顔を出さないと、高校には進学できないし、就職だってできないぞって。子どもを登校させるために、そんな脅し文句を使っていいのか、そんなの教育的じゃないだろうって、そんな内容だったらしい。担任に脅されたせいで、孫はすっかり怯えてしまい、もう学校には行かないって言ってる。どうしてくれるんだって。

 さらにお爺ちゃんが言うには、中学校に通えない生徒だって、最近は高校に進学できるって聞くし、そういう不登校を経験した若い人が社会に出てから活躍してるとも聞く。それなのに、何がなんでも学校に来させようとして孫を脅すなんて、いったいどういうことなんだって……」

 青井教頭は、そこまで言うと、小さなため息をついて菜穂を見た。

 最初、菜穂は唖然とした気持ちに襲われたが、話を聞いてるうちに、だんだん腹が立ってきた。

「教頭先生、私は夏休み中、何回もタカシの家に行ったんですよ。それであの子を慰めたり、元気づけたり、励ましたりして、ようやく二学期の始業式に登校しようって約束したんです。でも、やっぱり今日は来なかったんで、ちょっと強い調子でタカシを叱ったんです。たしかに脅すような言い方をしたかもしれません。でも、その点だけでクレームをかけられるなんて、私、納得できません。タカシを学校に来させようってずっと頑張ってきた努力が、まるでなかったことにされてるみたいじゃないですか」

 菜穂は、怒りにまかせて、胸の中の思いを一気に吐き出した。  

「まあまあ、杉本先生、落ち着いてよ」

 青井教頭が、なだめるように声をかける。それを無視して、菜穂はさらに言いつのった。

「だいたいタカシだって狡いんです。登校するっていう約束を破ったことや、もともと勉強なんかしたくない、できれば家で好きなだけゲームをしてたいって本音を隠したまま、私に強く叱られたことだけを強調して告げ口してるんです」

 どれだけ話しても、胸の中の怒りは収まりそうにない。

「いやいや、杉本先生の話は、よーくわかるって。杉本先生に非があるなんてぜんぜん思ってないから。ただ、教育委員会に直接クレームが入って、お爺ちゃんに謝罪に出かけてほしいって言われてるからさ」

 青井教頭が、菜穂に向かってしみじみとした口調で話しかける。

「とにかく、私はぜったい謝りになんて行きません。私は何も悪くありませんから」

「杉本先生が、なんとかしてタカシを登校させようって頑張ってきたのは、ちゃんとわかってるよ。僕だって若い頃は、学校に来たがらない生徒で苦労したよ。時には家まで入っていって嫌がる子どもを無理やり学校まで連れてきたことだってあるんだ。

 でも、今は時代が変わった。最近は、人間関係を築くのが苦手な子どもも多いし、集団で一斉に授業を受けるのが苦痛な子どもも増えてる。だから、何がなんでも子どもを学校に来させるんじゃなくて、フリースクールとか不登校教室みたいな、のびのびと学習できる場所を見つけてあげるのも大切だ。まあそのぶん、学校の仕事も大変になってきてるんだけどさ」と、青井教頭は口の中で小さく笑った。

 菜穂は、青井教頭の笑い声に誘われて、つい一緒に笑ってしまった。

 教頭さんは、私の苦労をちゃんと分かってくれてる。そう思うと、かたくなな気持ちが少しだけゆるんできた。

「わかりました。あんまり謝りたくありませんが、とりあえず私も一緒に顔をだします」

 それを聞いて、青井教頭が、ほっと安心した表情を浮かべた。

「ありがとう。校長さんも、それを聞いたら安心するよ」

 ちょうどその時だった。ドアが開き、校長が強ばった顔つきを浮かべ、勢いよく入ってきた。ソファに座ってる菜穂の姿に気がつくと、睨みつけるような目つきでジロリと見た。

「杉本先生のせいでとんだ事態になったぞ。タカシの爺ちゃんは、カンカンになって委員会に電話をしてきたらしい。教育部長が対応したんだけど、三十分以上も怒られっぱなしだったってコボしてた」

 吐き捨てるように言いながら、自分のイスにドサリと座り込んだ。

「もしかしたら杉本先生、今日の始業式にタカシが来なかったってだけで感情的にカッとなって怒鳴り散らしたんじゃないか? 若い先生は、これだから困る。まあ、やってしまったことは、しょうがない。とにかく、今すぐ教頭と一緒に謝罪に行って来なさい」

 校長の言い方に、菜穂はカチンときた。事態をきちんと理解しようともせず、ただ頭ごなしに謝罪に行けという。その傲岸な態度が、校長であっても絶対に許せないと思った。

 菜穂は、押し黙ったまま返事をしなかった。

 青井教頭は、「はい、これから二人で出かけてきます」と言いながら、おもむろに立ち上がった。

 菜穂は、校長を睨みつけ、断固とした口調で宣言した。 

「私、謝りになんか行きません!」